大判例

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千葉地方裁判所 昭和41年(わ)154号 判決 1973年4月20日

主文

被告人は無罪。

理由

〔理由目次〕

Ⅰ  序説 本件事案の概要

第一  公訴事実の要旨

第二  犯行動機に関する検察官の主張

第三  本件の特色と争点の概括

Ⅱ  総説 基礎的事項

第一  被告人の経歴、勤務先および研究歴

第二  本件の調査から捜査までの経過

第三  自白の証拠能力と信用性

A 証拠能力の有無

B 信ぴよう性

第四  赤痢、腸チフスをめぐる医学

A 病理と診断一般

B 発症率および潜伏期

C 菌量の鑑定

D 疫学との関係

第五  犯行動機、とくに性格異常論について

Ⅲ  各説 訴因の検討

第一  大林事件

第二  カステラ事件

第三  川鉄カルピス事件

A カルピス関係

B 注射関係

第四  千葉大関係事件

A 千葉大バナナ事件

B 焼蛤事件

C みかん事件

第五  親族関係事件

(堀内十助方事件、鈴木哲太郎方事件、鈴木収方事件、富川正雄方事件)

第六  三島病院関係事件

(三島バナナ事件、バリューム事件、舌圧子事件)

Ⅳ  結言

第一  全体的観察

第二  若干の補足

Ⅴ  証拠

〔略語および用語例(理由本文で使用)〕

地検 地方検察庁

県警 県警察本部

中央署 千葉中央警察署

国立予研 国立予防衛生研究所

衛研 衛生研究所

川鉄 川崎製鉄株式会社千葉工場

千葉大 千葉大学医学部附属病院

一内 右千葉大第一内科

六研 右一内第六研究室

三島病院 社会保険三島病院

クロマイ クロラムフエニコール

中谷鑑定 鑑定人中谷林太郎作成の鑑定書

善養寺鑑定 鑑定人善養寺浩作成の鑑定実験成績書

桑原鑑定 桑原章吾作成の鑑定書

平石鑑定 平石浩、斎藤誠共同作成の鑑定書二通

越後貫鑑定 越後貫博作成の鑑定書

坂崎鑑定 坂崎利一作成の鑑定書

4・8員二 被告人の司法警察員に対する昭和四一年四月八日付供述調書(検察官申請書(乙)証拠番号二号証)

4・16検四六 被告人の検察官に対する昭和四一年四月一六日付供述調書(検察官申請書(乙)証拠番号四六号証)

符一   昭和四一年押第一五〇号の一の証拠物

「証言あるいは供述」とあるのは、証人、鑑定人または被告人の供述である。公判廷における供述(第九一回公判以降)、公判調書中の供述部分(第九〇回公判以前)、裁判所の尋問調書、受命裁判官の尋問調書を特に区別せず用いる。

なお、氏名・地位等についてはすべて当時のものに統一した。

Ⅰ 序説  本件事案の概要

第一  公訴事実の要旨

本件各公訴事実の要旨はつぎのとおりである(このうち四ないし一一の(ロ)記載部分(択一的訴因)および四ないし六、八、ないし一〇の「一本あたり二個所位ずつ」との記載部分は第一〇八回公判で追加した訴因である)。

「被告人は、昭和三五年五月一日千葉市亥鼻町三一三番地千葉大学医学部附属病院(以下千葉大という)第一内科医局員となり、同年六月一〇日医師免許を受け同年三七年一〇月から同内科第六研究室(以下六研という)に所属し、細菌の薬剤耐性などに関する研究をしていたものであり、同三七年一二月から千葉市川崎町一番地川崎製鉄株式会社千葉製鉄所(以下川鉄という)に嘱託医師として出向し、同所医務課において健康管理の業務に従事していたものであるところ、

一 (カステラ事件)赤痢菌を食物にふりかけ六研研究室の者達にこれを喫食させようと思い、昭和三九年一二月二六日午後九時すぎころ右研究室において、かねて用意しておいたカステラに注射用蒸溜水二〇ccアンプルに赤痢菌一白金棒分を混入した混濁液をふりかけて同カステラを汚染したうえ、これをその場におき、同月二八日同研究室員である医師川口光、同関隆、技術員日影祀子及び第一内科看護婦中村ますに同カステラを食べさせ、よつて右川口に対し治療約一カ月余を、右関に対し治療約一週間を、右日影に対し入院治療一五日を、右中村に対し入院治療約一三日をそれぞれ要する赤痢に罹患させ、

二 (大林事件)同年九月一二日川鉄医務課レントゲン室において、川鉄従業員大林忠雄に対し十二指腸ゾンデを使用して胆汁を採取しようとした際、かねて六研研究室において硫苦水(硫酸マグネシウム三五パーセント水溶液)五〇ccを入れた水薬壜に赤痢菌一白金棒分を混入して、つくつておいた混濁液のうち四〇ccを右十二指腸ゾンデを通して大林忠雄の十二指腸内に注入し、よつて同人に対し入院治療一カ月を要する赤痢に罹患させ、

三 (川鉄カルピス事件)昭和四〇年八月六日川鉄医務課において、カルピス等の飲用に使用するため薬缶に入れて冷却中の飲料水に、かねて六研研究室において注射用蒸溜水二〇ccアンプルに腸チフス菌一白金棒分を混入して作つておいた混濁液を、右薬缶内の飲料水に入れて、これを汚染し、同医務課看護婦石井節子等をして同飲料水でカルピス、ジュースを希釈させ、右飲料をいづれも川鉄従業員である妻沼喜弥、佐川利英、植草規之、伊藤由一、石井節子、石井ミエ、木村チカ子、石崎礼三、清水勇治、今井博子、阿部忠雄、塩月宇太夫、黒川仁太郎、升沢博子、稲川積、金岡さよ等に飲用させ、更に同年八月一六日千葉市道場南町八六番地川鉄南町寮伊藤由一居室において同人に対し、かねて前記大学研究室において前同様腸チフス菌を混入して作つておいた汚染液一ccを注射し、又同年九月一日同市塩田町三五三番地の二、石井節子方において同人に対し前同様腸チフス菌を混入しておいた汚染液一ccを注射し、よつて妻沼喜弥等一六名に対し左記のとおりの治療を要する腸チフスに罹患させ、

番号

氏名

治療期間

1

妻沼喜弥

約三五日

2

佐川利英

約二〇日

3

植草規之

約一〇日

4

伊藤由一

約二八日

5

石井節子

約五〇日

6

石井ミエ

納三二日

7

木村チカ子

約五四日

8

石崎礼三

約六日

9

清水勇治

約二〇日

10

今井博子

約一三日

11

阿部忠雄

約一〇日

12

塩月宇太夫

約八日

13

黒川仁太郎

約五日

14

升沢博子

約一〇日

15

稲川積

約一カ月

16

金岡さよ

約三〇日

四 (堀内十助方事件)同年九月八日、六研培養実験室において、(イ)注射用蒸溜水二〇ccアンプルに腸チフス菌を一白金棒分混入して作つた混濁液を右白金棒につけて、または(ロ)寒天斜面培地から白金線で腸チフス菌をかきとりこれをそのまま、バナナ一二、三本に一本あたり二個所位ずつ穿刺し、九月九日、これを静岡県御殿場市萩原六六五番地堀内十助方に持参し、叔母堀内すえをに十助の病気見舞として渡し、その頃同所において、右バナナを堀内十助、同すえを、同美和子、同明代、同正子、同文代、同達代、同いさ子に喫食させ、よつて同人等八名に対し、左記のとおりの入院治療を要する腸チフスに罹患させ、

番号

続柄

氏名

治療期間

1

世帯主

堀内十助

入院 四二日

2

〃 すゑを

〃  四二日

3

長女

〃 美和子

〃  四二日

4

二女

〃 明代

〃  四八日

5

三女

〃 正子

〃  四二日

6

四女

〃 文代

〃  四二日

7

五女

〃 達代

〃  四二日

8

六女

〃 いさ子

〃  四二日

五 (鈴木哲太郎方事件)同年一二月一二日、六研培養実験室において、(イ)注射用蒸溜水二〇ccアンプルに腸チフス菌を一白金棒分混入して作つた混濁液を右白金棒につけて、または(ロ)寒天斜面培地から白金線で腸チフス菌をかきとりこれをそのまま、バナナ一〇本位に一本あたり二個所位ずつ穿刺し、翌一二月一三日、これを静岡県駿東郡小山町大胡田四二番地鈴木哲太郎方へ、情を知らない母鈴木塚を介して持参の上、鈴木いよ子に、同人の病気見舞として渡し、その頃同所において、右バナナを、鈴木哲太郎、同さき、同隆章、同いよ子、同民栄、同雅子に喫食させ、よつて同人等六名に対し、左記のとおり入院治療を要する腸チフスに罹患させ、

番号

続柄

氏名

治療期間

1

世帯主

鈴木哲太郎

入院 五九日

2

〃 さき

〃  五九日

3

長女の夫

〃 隆章

〃  五九日

4

長女

〃 いよ子

〃  五九日

5

孫娘の夫

〃 民栄

〃  六三日

6

孫娘

〃 雅子

〃  六一日

六 (鈴木収方事件)同年一二月二六日、かねて六研培養実験室において、(イ)注射用蒸溜水二〇ccアンプルに腸チフス菌を一白金棒分混入して作つた混濁液を右白金棒につけて、または(ロ)寒天斜面培地から白金線で腸チフス菌をかきとりこれをそのまま、バナナ一〇本位に一本あたり二個所位ずつ穿刺、これを、神奈川県小田原市井細田一二八番地実弟鈴木収方に持参し、石川すへ子におみやげとして渡し、その頃同所において、右バナナを、鈴木収、同ハルエ、石川すへ子に喫食させ、よつて同人等三名に対し、左記のとおりの入院治療を要する腸チフスに罹患させ、

番号

続柄

氏名

治療期間

1

世帯主

鈴木収

入院 三五日

2

鈴木ハルヱ

〃  三〇日

3

妻の母

石川すへ子

〃  五一日

七 (焼蛤事件)昭和四一年一月一日、千葉大第一内科医局において、酒の肴用として同所に残されていた箱入りの焼蛤に、(イ)注射用蒸溜水二〇ccアンプルに腸チフス菌を一白金棒分混入して作つた混濁液一ccを、または(ロ)寒天斜面培地から白金線で腸チフス菌をかきとり小試験管入りブイヨンに混入して作つた混濁液約二ccをふりかけて汚染し、その頃その場において、これを、五十嵐正彦、横田俊一に喫食させ、よつて五十嵐に対し治療約五日を、横田に対し入院治療約三四日を要する腸チフスに罹患させ、

八 (富川正雄方事件)同年一月一二日、六研培養実験室において、(イ)注射用蒸溜水二〇ccアンプルに、腸チフス菌を一白金棒分混入して作つた混濁液を右白金棒につけて、または(ロ)寒天斜面培地から白金線で腸チフス菌をかきとりこれをそのまま、果物詰合せ箱の中のバナナ五本位に一本あたり二個所位ずつ穿刺し、翌一月一三日、右バナナを含む果物詰合せ箱を静岡県駿東郡小山町大胡田一六七番地富川正雄方へ、情を知らぬ母鈴木琢を介して持参のうえ、富川たきに、富川万平の病気見舞として渡し、その頃同所において、富川正雄、同広子、同幸子、同正志等に喫食させ、更に、その頃同所等において同人等の看病に当つた富川よしに感染させ、よつて富川正雄等五名に対し、左記のとおりの入院治療を要する腸チフスに罹患させ、

番号

続柄

氏名

治療期間

1

世帯主

富川正雄

入院 五三日

2

〃  よし

〃  五四日

3

長女

〃  広子

〃  五二日

4

三女

〃  幸子

〃  五三日

5

長女

〃  正志

〃  五三日

九 (三島バナナ事件)昭和四〇年一二月二六日、六研培養実験室において、(イ)注射用蒸溜水二〇ccアンプルに腸チフス菌を一白金棒分混入して作つた混濁液を右白金棒につけて、または(ロ)寒天斜面培地から白金線で腸チフス菌をかきとりこれをそのまま、バナナ一〇本位に一本あたり二個所位ずつ穿刺し、翌一二月二七日、静岡県三島市南本町二〇番地九号社会保険三島病院(以下三島病院という)内科外来処置室に持参の上、主任看護婦山本あさ子におみやげとして渡し、同日同所において、山本あさ子、武士里乃、尾山トシエ、鈴木三保子、岸端幸子、伊出富美子及び下里ちえ子(通称洋子)に喫食させ、また、三島市南二日町一二番の二一号富士見アパートへの二五号武士譲二方において、同人及び武士美紀に喫食させ、よつて同人等九名に対し、左記のとおりの治療を要する腸チフスに罹患させ、

番号

職業

氏名

治療期間

備考

1

看護婦

山本あさ子

入院 二九一日

2

尾山トシエ

〃   一三日

3

武士里乃

〃   一六日

4

準看護婦

鈴木三保子

〃   一〇日

5

事務員

岸端幸子

治療  一五日

6

下里ちえ子

入院  一八日

7

薬局助手

伊出富美子

〃   一七日

8

自動車運転士

武士譲二

〃   一四日

武士里乃の夫

9

無職

武士美紀

〃   一四日

武士里乃の長女

一〇 (千葉大バナナ事件)同年九月五日、六研培養実験室において、(イ)注射用蒸溜水二〇ccアンプルに腸チフス菌を一白金棒分混入して作つた混濁液を右白金棒につけて、または(ロ)寒天斜面培地から白金線で腸チフス菌をかきとりこれをそのまま、バナナ六本位に一本あたり二個所位ずつに穿刺し、これを千葉大第一内科看護婦勤務室において、当日準夜勤務にあたつていた看護婦芦沢勝江に、たべなさいと言つて渡し、同バナナを、同日、同室において、秋葉美代子に、また同月六日には同大学附属病院第一晴暉寮南一〇号室において右芦沢勝江に、同寮北三五号室において看護婦柿崎槇に、同寮北三二号室において看護婦林睦子および秋葉美代子にそれぞれ喫食させ、よつて同人等四名に対し、左記のとおりの入院治療を要する腸チフスに罹患させ、

番号

職業

氏名

治療期間

1

看護婦

芦沢勝江

入院 二二日

2

秋葉美代子

〃  二二日

3

柿崎槇

〃  二二日

4

林睦子

〃  二二日

一一 (みかん事件)昭和四一年三月八日、六研培養実験室において、(イ)注射用蒸溜水二〇ccアンプルに腸チフス菌を一白金棒分混入して作つた混濁液を右白金棒につけて、または(ロ)寒天斜面培地から白金線で腸チフス菌をかきとりこれをそのまま、みかん四個位に穿刺し、これを千葉大第一内科物療室に置き、同月一五日、同所において、同みかんを看護婦井上多喜子、大網節子、川島光子に喫食させ、よつて同人等三名に対し、左記のとおりの入院治療を要する腸チフスに罹患させ、

番号

職業

氏名

治療期間

1

看護婦

井上多喜子

入院 二四日

2

看護助手

大網節子

〃  二六日

3

川島光子

〃  三〇日

一二 (バリューム事件)同年二月二八日、三島病院レントゲン室において、胃レントゲン検査のため、二つのコップにそれぞれ三〇〇cc入つているバリュームにかねて六研培養実験室において、注射用蒸溜水二〇ccアンプルに腸チフス菌一白金棒分を混入して作つておいた混濁液を入れて汚染し、これを下村常一、神戸いとにそれぞれ飲用させ、よつて右下村に対し入院治療三〇日を、右神戸に対し入院治療二五日を要する腸チフスに罹患させ、

一三 (舌圧子事件)前同日同病院内科外来診察室において、健康診断のため来室した狄塚征子を診察するに際し、前記腸チフス菌液を舌圧子に滴下し、この舌圧子を右狄塚の口腔内に差入れて腸チフス菌を飲み込ませ、よつて同人に対し入院治療五四日を要する腸チフスに罹患させ、

もつて傷害を負わせた」というものである。

(注)(1) 検察官は、当初訴因(イ)の「白金棒」と追加訴因(ロ)「白金線」とは同義であると説明している(訴因追加請求理由書、備考2)。

(2) 以下、各バナナ事件およびみかん事件については当初訴因による犯行方法を単に「菌液穿刺」の方法、追加訴因による犯行方法を単に「直接穿刺」の方法と略称することがある。

第二  犯行動機に関する検察官の主張

一 検察官は被告人の本件犯行の動機について、これを起訴状の公訴事実に全く掲げず、冒頭陳述においてはじめて明らかにする方法をとつた。それによれば、次のとおりである。

「(一) 被告人は、昭和三九年七月三島病院の集団赤痢を扱つて以来、赤痢菌と大腸菌の相互間のに薬剤耐性が伝達し合うことについて関心をもつようになり、三島病院由来の赤痢菌を利用して、これを人体に入れた場合、同一人から分離した大腸菌が赤痢菌のもつ四剤耐性の影響を受けるか、また赤痢菌が四剤以上の薬剤耐性を示すことはないかを調べてみたいつよい医学的欲望を抱くに至つた。当時被告人は無給医局員であるため、他の病院に勤務して収入をえていたが、研究時間は少なく、精神的・肉体的疲労も強く孤独感を深めていたので、ひたすら右の人体実験例を得たい欲望に駆られて敢行したのが、大林事件およびカステラ事件である。

(二) ついで、被告人は昭和四〇年四月三日第三九回日本伝染病学会における中谷林太郎博士らによる腸チフス菌の薬剤耐性に関する研究発表を聞き、その頃前記赤痢菌の薬剤耐性に関する研究につき行きづまりを感じ、また自己が学会に発表すべき新しい研究作業についても腐心したところから、腸チフス菌の薬剤耐性に興味をおぼえるに至り、人体に同菌を入れ、クロマイを投与した場合の耐性値の変化を観察できる多数の実験例をえて『みばえのする画期的研究発表』をしたい欲望に駆られた。そして、当時の環境に対する不平不満もあつて、川鉄カルピス事件、千葉大バナナ事件、堀内十助方事件を犯した。さらに、被告人は細菌に対する興味をいよいよ深め、執着心の強い性格も手伝つて、鈴木哲太郎方、鈴木収方の各事件、三島バナナ事件、富川正雄方事件、焼蛤事件、バリューム・舌圧子事件、みかん事件を次々と敢行したものである。」

二 ところが、検察官は最終論告において、冒頭陳述で明らかにした犯行動機に関する主張を改め、本件は犯行の原因はあるけれども、明確な動機・目的というべきものはない事件であると主張するに至つた。すなわち、

「被告人は常識では考えられない異常性格の持主であつて、この性格が細菌への執着心によつて増幅され、これに環境への不平不満等の要因が重なつて衝動的に行なつていつたのが主として千葉大関係事件と川鉄関係事件であり、細菌にとりつかれ歯どめがきかないまま直線的・衝動的に表現されたのが主として親族関係事件と三島関係事件であり、本件犯行原因はこのように二元的に理解すべきものである。被告人が細菌の耐性等を発表して名をあげたいという名誉欲を有していなかつたとはいえないにしても、学問的に意味のある人体実験意図があつたということは否定される。」と述べ、冒頭陳述の論調を大きく変更した。

(弁護人は、これらの検察官の主張を人体実験論、不平不満論、性格異常論などと呼んで反論を提出しているので、裁判所も以下には一応この名称で要約することがある。)

第三  本件の特色と争点の概括

一 本件のために要した公判回数は今回の判決宣告期日を含め一一一回、公判準備期日数一四回にのぼり、そのほとんどは終日にわたるものである。そして取り調べた証人数は延二〇〇余名、鑑定人およびこれに準ずる人証は延三〇名、書証六九〇余点(被告人の供述調書のみで一〇〇余通)、物証約五七〇余点(大部分は診療録ないしこれに準ずるものである)に達し、記録九四冊二三、五〇〇丁余におよぶ尨大なものであつて、審理期間に約七年間を費さざるをえなかつた。したがつて、本件は刑事裁判としていわゆる難件に属するものというほかはないが、その理由は主として次の点にあつたものと思料する。

(一) 本件は七回にわたつて連続起訴され、公訴事実の数は一三を数え、傷害の被害者とされた者は総計六四名、犯行場所は大別して千葉市(細分すれば、千葉大および川鉄)、三島市、御殿場市付近(細分すれば静岡県御殿場市、小山町<当時>、神奈川県小田原市)の三県にまたがり、犯行日時は昭和三九年、四〇年、四一年にわたつている。その解明には当然量的に多くの証拠収集が必要であつた。

(二) しかし、それにもまして、本件の質的な特異性が指摘されねばならない。すなわち、本件公訴事実は被告人が赤痢菌、腸チフス菌という病原菌を利用して多数者を発病させたとするもので、もしこれが真相であるとするならば、古今の犯罪史上稀にみる犯行である。したがつて、

(1) 在来の訴訟の実践と著るしく異なり、感染症論、細菌学、疫学、その他の医学上の専門知識に基づく究明を必要とする事案であつた。しかも、そこには現代医学の粋を尽くしてもなお未知の分野さえ横たわつていたのである。

(2) 被害は一過的かつ微妙な症状が対象とされているのであるが、その診断は発病当時においてすら必ずしも的確に行なわれがたい要素がある、いわんや後日になつてこれを確定することはもつと至難なことに属する。類似疾患の流行と、一部には資料のいんぺいさえ図られた渦のなかで、個々の症状を確認し、遡つて原因を探求する作業は決して容易ではなかつた。

(3) 多数の公訴事実は訴訟上は別個のものでありながら、きわめて有機的に関連し、したがつて個々的な認定を許さない要素が多く、つねに全体への視野が必要であつた。

(4) 本件には被告人の犯行を直接に証明する物的証拠は何もなく、人的証拠も捜査中における被告人の自白を除けば皆無である。したがつて、真相究明のためには被告人の自白への依存度が高くなるのも一面必然的なことであるが、被告人の自白調書は卒然として読めばきわめて信ぴよう力が高いかの如く、しかし、他面重要な変遷のあとが見受けられ、最終的には公判廷においてこれが翻がえされている。その吟味にはもともと一段ときびしさが求められる案件であつた。しかもこの自白に信を措いた検察官の主張は、すでに第一、第二項で指摘したとおり、犯行方法および犯行動機の二点につき、当初のものを公判の過程でみずから修正を余儀なくされたのであつて、自白の真偽の判定は頗る微妙な線上にあるものであつた。

二 右のように本件は量的、質的にきわめて特異な構造をもち、したがつて争点も多岐にわたつた。検察官は、これを①犯罪行為の存否、②因果関係、③動機の有無の三点に要約できるとしたが、別の見地から最も単純化していえば、検察官の本件に対する主張の構成は、(イ)被告人が犯行を自白したことを基軸にし、(ロ)各被害がいずれも自然感染と異る態様によつて発生しており、被告人自身がそこに数々のエピソード(たとえば密告電話)を点在させながらいつも重要な接点たる位置を占めていることをもつて支柱としているものと解される。

他方これに対する弁護人のさまざまな角度からする反論の基調は、詮ずるところ本件を自然流行の一環として把握すべきだとしつつ、検察官の重視する被告人の自白は採取過程に違法が存し、かつ内容が科学の検証にたええぬ架空のものと力説する点にある。このようにして本件公訴事実の成否をめぐる攻防の最大の焦点は結局被告人の自白の有する証拠的価値の有無にしぼられるといつても過言ではないであろう。図式的にいえば、自白か科学か、人為感染か自然流行か、とでも表現できようか。

以下、この争点に即しながら、総説において事実認定のための基礎的事項を叙し、各説において訴因の個別的検討を行ない、最後にこれを総括する。

Ⅱ 総説

第一  被告人の経歴、勤務先および研究歴

一 経歴、勤務先

(一) 被告人は、昭和八年四月一一日静岡県駿東郡小山町下古城一六八番地において、当時教員であつた鈴木繁と、鈴木琢のあいだに長男として出生し、昭和二七年三月神奈川県立平塚高等学校を卒業、同年千葉大学の受験に失敗し、翌二八年四月日本獣医畜産大学に入学、昭和三〇年三月同校医学進学課程を修了後、同年四月日本医科大学医学部に入学、同三四年三月同校を卒業した。同大学を卒業後、山形市篠田綜合病院において、一年間の医師実地修練(インターン)を経て、同三五年五月千葉大学研究生として同大学に入学、同年六月医師の国家試験に合格し、同年一〇月より二年間千葉県香取郡多古町所在国民健康保険多古中央病院へ派遣され、内科医師として勤務し、同三七年一〇月多古中央病院の勤務をおえて、千葉大学医学部附属病院第一内科第六研究室(一内六研)に配置され、同室長講師福永和雄等の指導を受け、はじめて細菌の専門的研究に従事するに至り、右研究を続けながら、一方同病院の医局員(無給)として当直医師、日直医師の勤務に服した。そして昭和三七年一二月からは川崎製鉄株式会社千葉製鉄所労働部医務課に嘱託医として週三回出張勤務し、昭和三九年七月からは、社会保険三島病院に週一回ないし二回、内科の応援医師として出張勤務していた。なお、被告人は、昭和三五年一二月薬剤師である上野房子と結婚し、同三九年三月長男一臣が生れた。

(二) 千葉大第一内科の構成は、昭和四一年四月現在、教授一名(三輪清三)、助教授一名((村越康一)、講師(うち一名は医局長宇井清)、助手、副手、研究生の医局員がおり、そのほか看護婦等が配置されていた。この一内における研究室とその研究分野はつぎのとおりである。

第一研究室    レントゲン

第二  〃     組織、肝臓

第三  〃     肺臓

第五  〃     腎臓、糖尿病

第六  〃     細菌

第七  〃     血液

筋電図研究室

胃カメラ 〃

心電図 〃

アイソトープ 〃

そして被告人が配属された一内六研の研究員は、入室当時、

室長講師 福永和雄(専門 結核菌)

助手 川口光(〃  〃  )

副手 関隆(〃 薬理)

小林章男(〃 一般細菌ブドウ球菌)

加藤直幸(〃  一般細菌連鎖球菌)

西村弥彦(〃  結核菌)

技術吏員 日影祀子(のちに鈴木と改性)

であり、被告人が入つて室員は八名となつた。その後、昭和三九年八月小林章男副手が留学のため渡米し、昭和四〇年五月から小林康弘副手(専門薬理)、同三八年五月から佐藤重明研究生(専門薬理)が入室したので昭和四一年四月現在では研究室員は九名であつた。

同室では、細菌の研究をしていたのであるが、各自の研究テーマは、室長の指導承認をうけ、室員が各自のもつテーマに基づいて研究をすすめ、ときに共同作業をおこない、その成果は学会には共同研究として発表していたものである。

なお、学位取得については、大学院に入学した者は、所定の単位を修得した時博士の学位を受けられるが、大学院に入らない研究生は博士論文を提出するのに六年以上の研究を必要とされており、被告人は、昭和三五年五月に研究生として入学を許されているので、学位論文提出の資格を得るのは四一年四月ということになつていた。

(三) 川鉄千葉工場労働部医務課(川鉄)は、昭和四〇年当時課長金谷貫一郎のもとに事務掛、衛生管理掛、健康管理掛の三掛があり、被告人は健康管理掛長郡司昭男医師のもとで勤務することになつた。同掛は、従業員の公、私傷病の診療も担当するが、各種健康診断と防疫管理(これに附随する諸検査)を主としておつて従業員の健康を管理する仕事を担当しているものであつた。同掛は医務課一階に位置し、郡司、被告人のほか、稲川積を除く公訴事実記載の罹患者および小林俊夫(薬剤師)、中村武信(レントゲン技師)らが、本来の室、防疫室、レントゲン室、検査室、治療室、薬剤室にわかれて勤務していた。

(四) 静県三島市所在社会保険三島病院(三島病院)は、内科、外科、整形外科、産婦人科、耳鼻咽喉科を有しており、昭和三九年七月ころの管理者は、院長宮崎五郎(外科担当)、副院長松田正久(内科担当)、事務長中島綽で、職員は概数一一五名位、内科部長は鹿島洋であった。松田、鹿島両医師は千葉大一内出身の医師であり、内科医師の応援は従来千葉大一内から出ており、被告人もこの関係で三島病院へ応援に出ることになつたものである。すなわち、三島病院では、昭和三九年七月中旬から八月下旬にかけて入院患者および職員等一三〇名位が赤痢に集団罹患し、同年七月二七日から八月一九日まで同病院閉鎖のやむなきに至つた。

当時被告人は国立予防衛生研究所(国立予研)で細菌のフアージ型別などの実習をうけていたのであるが、三島病院からの応援要請により福永和雄講師の指示で、小林章男、加藤直幸医師らと昭和三九年七月二六日ころはじめて同病院へ応援医師として派遣され、赤痢患者の治療、防疫、菌検査等の作業に従事した。そして、右作業に従事中、赤痢菌および大腸菌の薬剤耐性問題について研究をはじめるようになり、そのころ国立予研で赤痢菌等の分離同定の実習をうけたが、やがて松田副院長らのはからいで、被告人は防疫的作業のほかに、研究資料にするために保菌者、職員らの検便を行ない、千葉大においてそれらの菌の薬剤耐性等の研究を行なうようになつた。被告人としてはこの研究を今後とも継続してゆきたいという意図のほか、同病院が両親の住んでいる駿東郡小山町に遠くないという関係もあつて同病院に引続き出張し、昭和四〇年に入つてからは、毎週定期的に(概ね月曜、木曜の二回)非常勤医師として応援に行くようになり(来院の前日は小山町の実家で一泊することが多かつた)、同病院の患者の診療に当るほか、赤痢患者の検便などをして検体を千葉大に持ち帰り、学会発表の研究資料の収集につとめていた。なお、被告人は福永和雄講師、松田副院長からの勧誘もあつて、昭和四〇年一二月一八日熱海静観荘で行なわれた一内の旅行会の折、昭和四一年四月論文提出後三島病院の検査課長として就職することの内約ができていた。

二 研究歴

(一) 被告人が、細菌の研究を始めたのは、昭和三七年一〇月千葉大一内六研に配属されてからであり、同室の先輩小林章男からブドウ球菌の薬剤耐性の研究につき指導を受けるようになつてから、細菌に対する興味を深くしていつた。被告人は、右の指導により昭和三八年六月一四日大阪で行なわれた日本化学療法学会で「ブドウ球菌の薬剤耐性に関する臨床的研究」を発表した。これは、県下病院の入院患者、病院勤務者の喉頭よりブドウ球菌を分離し、その薬剤感受性の現状観察をしたものであり、耐性ブドウ球菌に対し合成ペニシリンが強い抗菌作用をもつことを認めたものであつた。ついで昭和三九年六月一一日仙台で行なわれた第一二回日本化学療法学会で「ブドウ球菌の薬剤耐性に関する臨床的研究」(続報)を発表したが、これは昭和三九年四月から六月にかけて、一内入院患者で抗生物質投与中および投与中止後に鼻腔、咽頭等からブドウ球菌を検出し、その薬剤感受性と抗生物質投与との関係を調べたものであつた。その間小林章男の勧めもあつて、国立予研でブドウ球菌のフアージ型別の実習をうけ、それによつてブドウ球菌の耐性に関する研究をとりまとめ、博士論文とするつもりであつた。

昭和三九年六月一五日予定どおり国立予研に入所し、細菌第一部フアージ型別室において室長坂崎利一博士および大橋誠博士等の指導を受け、前述の実習を受けつつあつたが、その間前述の如く同年七月一七日三島病院に赤痢の集団発生があり、同月二六日被告人は同病院に応援のため派遣され、赤痢患者の治療にあたつた。

(二)(1) ところが、多数の赤痢患者の治療にあたつているうち、赤痢菌がブドウ球菌と違つて病原性の強いものであり、赤痢菌と大腸菌の間に薬剤耐性の相互伝達とみられる現象のあることに気づいて、腸内細菌の研究をはじめるに至つたが、同年八月先輩であり事実上の指導者であつた小林章男が渡米してからはブドウ球菌の研究よりも次第に赤痢菌を含む腸内細菌の研究に関心を向けるようになつた。そして、一たん三島病院を引きあげた後再び予研へ行き、ブドウ球菌のフアージ型別実習に加えて赤痢菌、大腸菌、腸チフス菌等の分離同定の実習を受け、同年一〇月七日退所した。

(2) 被告人は昭和三九年一一月二八日の東京都市センターで行なわれた日本伝染病学会で「集団赤痢の発生した某施設における赤痢菌および大腸菌の薬剤感受性について」と題して発表した。これは、三島病院に集団発生した赤痢患者から赤痢菌と大腸菌を分離してそれぞれの薬剤耐性パターンを比較した結果を福永講師らの指導のもとに発表したものである。

(3) 被告人は、昭和四〇年に入つて、川鉄従業員の大腸菌の薬剤耐性の検査を定期的に毎月二回行ない、また三島病院の赤痢菌の分についてもその薬剤耐性検査を行ない、同年中ころに行なわれる学会の研究発表に備えてデーターの収集に努力する一方、従来集めてきたブドウ球菌の薬剤耐性に関する臨床的研究をとりまとめるべく、同年一月にはその「論文目次」を渡米中の小林章男医師に送つて指導を受けたこともあつた。

そして、三島の赤痢患者、健康者の検便から分離した大腸菌の薬剤感受性の検査結果をまとめ、同年六月三日東京で開かれた日本化学療法学会で「大腸菌の薬剤耐性の経時的変動、多剤耐性赤痢菌の関係について」の演題のもとに、ついで同年九月二三日新潟で開かれた日本伝染病学会で「集団赤痢の発生した某施設における大腸菌の薬剤感受性について」の演題のもとにそれぞれ研究発表を行なつた。

こうして三島病院における赤痢、大腸菌の薬剤感受性に関する学会発表は以上三回で終り、ついで被告人は、昭和四〇年一月から一二月にかけて、川鉄の給食関係従業員につき、毎月二回定期検便して、腸内細菌、ことに大腸菌の多剤耐性を測定し、この研究作業の結果(腸内細菌叢は季節の変化と共に変動し、夏は、多剤耐性菌の増加がみとめられ、冬には、多剤耐性菌の減少することがみとめられること)を、昭和四一年五月二三日熊本で開かれる第一四回日本化学療法学会総会において、「大腸菌の薬剤耐性の経時的変動、健康人における腸内細菌叢との関係について」の演題のもとに発表する予定で、一月末から二月にかけてまとめ始めていたものである。

(三) このように被告人が学会発表を目的とする研究作業はブドウ球菌、大腸菌および赤痢菌の薬剤耐性に関するもので、腸チフス菌について症例を集めた資料は皆無である。ただし、昭和三九年一〇月国立予研で実習を終えて帰るとき、同所から貰つてきた腸チフス菌をその後六研の冷蔵庫に入れて保管していた。この菌株は、長期間保存に耐える国立予研の卵培地にうえつけられていて冷蔵庫に入れられており、そのうち一部を被告人は他の試験管の寒天培地に植え継ぎ、これを培養実験室の材料棚において保存し続けていた。

また、昭和四〇年九月千葉大バナナ事件の罹患者およびこれと同時に発症した者の菌株一三株などの腸チフス菌株をみずから冷蔵庫内に保存していた(この一三株から植えついだものを同年一一月被告人から国立予研大橋技官に届けている)。(なお、以上の菌株は、その他の被告人が保管していた赤痢菌などとともに押収され、一たん千葉衛研に保管された。)

第二 本件の調査から捜査までの経過

一 厚生省・千葉大の動き

(一) 昭和四一年三月はじめ、厚生省公衆衛生局防疫課は三島病院を中心とする腸チフスの集団発生を知り、その流行調査を開始した。これよりさき、同課では前年の九月、千葉大内に同じく腸チフスの集団発生があつたことは千葉県からの報告等によつて知らされていたが、昭和四一年三月になつて、国立予研大橋技官よりその年の一月千葉大一内の研究生である横田俊一自衛官が腸チフスの発症をみたことから同大学内の流行はまだ終息していないらしいこと、三島病院に腸チフスの集団発生があるが、同病院には一内の医師が派遣されていて、両者の関連を検討する必要があること等についての連絡示唆を受けて、まず三島病院の流行調査に乗り出したものであつた。この調査は、当時姫路に発生した腸チフスの防疫調査のため派遣予定であつた厚生省防疫課寺松尚技官が乗木秀夫日本医科大学教授と同道してこれにあたつた。寺松技官は三月五日国立予研を訪れ、福見秀雄同細菌第一部長および前記大橋技官からそれまでに判明していた情報の提供および指導を受けたうえ、同月七日三島に赴き、三島保健所において、保健所・市・衛研関係者らから資料に基づき三島関係の状況に加え、御殿場・小田原保健所管内に発生している腸チフス流行の説明を受けた。ついで、三島病院において宮崎五郎病院長らから事情を聴取するとともに病院内の諸施設を見分したうえ、同病院に検便・採血等の指示を与えて、その日のうちに一応の調査を終えた。

(二) 三月九日朝日、読売両新聞が三島病院が腸チフスの巣窟になつていることを報道し、国会においてこの点が問題となる情勢になつたので、厚生省は同月一〇日姫路から急遽寺松技官を帰京させ、前記調査経過の報告を受けたが、果して同日衆議院社会労働委員会において三島病院の一件がただされるに至つた。そして、三島――千葉大――御殿場の各流行の関連を追究すべく厚生省防疫課土屋夏実技官による調査が実施されるに至る。その経過を日誌ふうに記述すれば次のとおりである。

三月一〇日 千葉県予防課、千葉中央保健所および千葉大一内幹部(三輪教授、福永講師、宇井医局長ら)から事情聴取。その後の被告人をその自宅に訪問。

同月一三日 再び千葉大教授、講師陣と会談。

同月一五日 三島保健所において静岡県内の赤痢、腸チフスの流行調査。ついで三島病院に赴き鹿島医師から同病院内の患者発生の状況の説明を聴くと共に診療録等を審査。

同月一六日 三島病院の細菌検査状況を調べ、ついで三島、御殿場各保健所を歴訪。

同月一八日 厚生省細菌製剤課大井清技官と共に千葉県衛生部、千葉県衛研、千葉中央保健所での調査を行つた後葛城病院に赴き、谷茂岡院長のほか、当時入院中であり、千葉大、三島病院間を往復していた小林康弘、佐藤重明、被告人の三医師と面接。ついで千葉大において福永講師らから説明を受けた。この間大井技官は罹患者であつた看護婦二名から事情を聴取した。

同月二三日 小田原保健所、小田原市内の小林病院、小田原市立病院、鈴木収方、松田保健所、御殿場保健所での調査を行なう。

同月二四日 富士病院(富川よし、同広子と面接)堀内十助方、鈴木哲太郎方、富川正雄方、鈴木繁方(被告人の実家)において事情聴取。帰途石川すへ子方訪問。

同月二六日 葛城病院において被告人と面接。被告人はメモ〔符五七七〕に基づいて説明した。最後に千葉大において三輪教授、福永講師らと面談。

(三) 以上の土屋技官らの調査の過程で昭和三九年一二月の千葉大におけるカステラによる赤痢の発生、および後にカルピス事件に発展する川鉄職員の集団的特異症状の発生のことも浮び上つてきている。そしてこの調謀の結果に基づく厚生省公衆衛生局防疫課の一応の結論は、ほぼ次のようなものであつたと思われる。すなわち、千葉大、三島病院および被告人の親族関係等の流行の中心にはいつも被告人が介在しており、とくに患者らは、被告人から提供された食品を喫していること、そうすると各々の潜伏期は極端に短かいと考えられるうえ、腸チフスは一部食中毒様の症状をもつて発症しており、自然的な流行というより大量の菌により濃厚感染と見るべき要素が強いこと、したがつて、これらの流行には被告人が大きな役割を演じている疑惑が強いと判断せざるをえないこと等であつた。そして三月二八日三輪教授が厚生省を訪れた後、四月一日公衆衛生局長が土屋技官とともに最高検察庁に赴き寺西検事に対し調査結果を口頭および文書をもつて伝えたことにより、本件が犯罪行為色彩をもつものとして捜査の対象とされるべき道が開かれていくことになつた。

(四) 千葉大では前記の土屋技官らの調査に接した後、次のような動きを見せている。(イ)三月一四日、千葉大、三島病院における流行に何らかの関連をもつと疑われる佐藤重明、小林康弘および被告人の三医師を葛城病院に入院せしめることとした。このうち佐藤医師は腸チフス患者(臨床決定)、小林医師は保菌者として隔離、被告人は「保菌者の疑い」で精密検査を目的としたものであつて、千葉県衛生部の要請により三輪教授の命令として福永講師が葛城病院に入院を依頼したものである。被告人は患者でも保菌者でもなかつたところから経過観察室に収容され、四月七日退院の措置がとられたことは後にもふれる。(ロ)大学内の防疫対策の常設機関としては衛生対策委員会が存していたが、とくに本件に対処すべく教授会の議を経て防疫委員会が設けられ、他方一内に白壁講師を委員長とする防疫調査委員会が自主的に組織された。右調査委員会は三月二四日第一回会合を開いた後、主として前年九月以降一内職員で熱発した者を対象にアンケート調査等を行ない、その結課を一内医局会で発表後防疫委員会に報告しようとしたが受理されていない。(ハ)なお一内内部に「無給医局員の会」が発足して同様の調査を試みてもいる。(ニ)四月五日、千葉大医学部の正式の意思表示として千葉県警に対し本件についての捜査依頼を行ない、大学としては捜査に全面的に協力する旨申し入れた。

二 捜査の始終

(一) 厚生省、千葉大等の動きとは別に、千葉県警察本部刑事部では昭和四一年三月三一日ごろから当時の新聞報道等から本件に関心をもつに至り、まず、捜査一課課長補佐鈴木美夫警部が特命を受けて内偵を開始し、同課大矢房治警部補らがその補助にあたつた。内偵の中心は千葉大関係に向けられたが、鈴木警部は四月一日一内六研関隆医師らからカステラ事件を聞知し、翌二日には管轄警察署である千葉中央署松野刑事一課長、鈴木警部らが厚生省公衆衛生局に出向し、土屋技官らの調査結果の提供を受けた。そして同月三日千葉県警刑事部長を長とした特別捜査班(事実上の指揮者、滝本藤市県警捜査一課長)が組織され、捜査が本格化していつた。そして四月四日には関東管区警察局の連絡会議が警察庁捜査一課、管区保安部、静岡県警および千葉県警の関係者出席のもとに開かれ、爾後本件を千葉県警が処理し静岡県警が側面的に協力するとの方針が定められた。そして、この間千葉大から千葉県警に対し前述の捜査依頼がなされ、同年六日滝本捜査一課長、鈴木警部が警察庁において、すでに収集した証拠に基づきカステラ事件について強制捜査を行なう旨の報告をし警察庁の了承をえている。そして、その直後被告人に対する逮捕状および捜索差押令状の発付を受け、同日中に被告人宅、千葉大一内六研、葛城病院につき捜索差押令状の執行が行なわれ、内偵の段階は結了した。

(二) 逮捕状の執行は同月七日に行なわれたが、その経過は次のとおりである。前述のとおり被告人は葛城病院経過観察室に収容されていたが、同病院における諸種の検査は被告人につき腸チフスの保菌者である疑いは解消したため同病院谷茂岡院長は四月七日を退院の日と定めた。警察ではこの退院予定を知り、退院後引き続いて逮捕状を執行することにに決定したが、当時の情勢から報道関係者がおしかけることを考慮し、当日退院に際して付添うことになつていた被告人の父および宇井医局長の了解をえてひとまず任意同行の形で中央署に出頭させるものとし、中央署到着後、同署松野刑事一課長によつて逮捕状が執行された。その被疑事実はカステラ事件である。同月一〇日同事実によつて千葉中央署に勾留され、接見禁止等の措置がとられた。

本件に対する捜査体制は、警察関係については前述したが、被告人逮捕後における被告人の取調には、主として鈴木警部、大矢警部補および日色警部補(中央署捜査第一係長)があたつた。他方、千葉地方検察庁では四月に入つて早々本件に対する捜査に備え富田康次次席検事が主任となり、山岡文雄検事ら自庁所属検事のほか東京、静岡各地方検察庁からの応援をもえ、それぞれの分担が定められた。被告人の取調にあたつたのは主として、右山岡検事および石井元検事である。そして、

四月二九日 カステラ事件の起訴が行なわれたのを手始めに、

五月三一日 大林、川鉄カルピス事件

六月二二日 親族関係、焼蛤事件

六月二三日 三島バナナ事件

七月七日 千葉大バナナ、同みかん事件と起訴がつづき

七月二一日 バリューム・舌圧子事件をもつて、全起訴が終了する。

この間の五月三〇日被告人は千葉刑務所に移監された。また第一回公判がカステラ事件についてのみ七月八日開廷された。しかし、カステラ事件の起訴のあつた四月二九日後も、また右の第一回公判後も、余罪捜査の形で警察および検察官の捜査は継続されていた。被告人に対する取調状況は後述するが、捜査の対象は本件起訴に関する分だけではなく、他の疑い(たとえば、熊谷長六関係、相葉久男関係、松田正久関係)にも及んでいたとみられる。

(三) なお被告人は、昭和四三年三月八日(第三三回公判当日)、カステラ事件、親族関係事件を除くその余の事件について裁判所により重ねて勾留され、ついで同年四月二二日(第三六回公判と第三七回公判の間)カステラ事件について勾留の取消がなされた。そして同年九月二四日(第四五回公判後)保釈許可決定があつたが、検察官から抗告がなされ、東京高等裁判所においてこれが棄却されて、結局同年一〇月一八日保釈された。

第三 自白の証拠能力と信ぴよう性

被告人は昭和四一年四月七日逮捕後当初は犯行を否認したが、比較的早い時期の七日目にあたる同月一三日、はじめて本件のうち、カステラ事件、千葉大バナナ事件、川鉄カルピス事件について概括的な自白をし、その後次第に詳細な自白に転じ(ときに否認もあつたが)、窮極的には各犯行事実の全容を自白するに至り、これを記載した多くの自白調書(不利益事実の承認にあたるものを含む)が公判に提出された。しかし、被告人は、公判に入つてからは、犯行事実についてしばらくは黙秘し、ついで激しい否認の態度を堅持して公判を終つた。

さきにも述べたとおり、本件公訴事実は被告人の捜査官に対する各自白を基軸として構成されているとみることができる。これに対し、弁護人は自白の証拠能力と内容の信ぴよう性を強く争つているのであつて、この自白調書をどのように評価するかは本件の帰趨を決する重要問題というべきものである。まず、自白の証拠能力の有無を判断する。

A 証拠能力の有無

結論として被告人の各自白調書はいずれも証拠能力に欠けるところはないと判断する。

以下弁護人の所論に即し分説する。

一 「葛城病院における不当な拘束」について

この点に関する弁護人の主張は、要するに、「被告人は、千葉大関係者と葛城病院長らの共謀により昭和四一年三月一四日から同年四月七日までの間、理由なく強制的に葛城病院伝染病棟に拘束された。退院日が延長されたのは捜査官側の都合による。しかもこの間に精神病者にしたてるための工作すら受けて、著るしい精神的・肉体的苦痛を与えられ、疲労の極に達した状態で捜査の対象とされ、自白を強要された。」というものである。

(一) 被告人が右三月一四日から葛城病院伝染病棟経過観察室に入院したことはすでにふれたところであるが、関係者の証言によると、この間の事情はおよそ次のとおりである。

被告人は三月七日三島病院の外来閉鎖の措置がとられると同時に同病院への来援をことわられた。被告人は同日同病院で腸チフス菌の検査を受けていたが、千葉大に帰つてからこれからのことを福永講師に報告した。福永講師は被告人が保菌者として三島地区の伝染病院に入院させられるかも知れないと苦慮し、憔悴していたのを見て、三輪教授に対し、入院する場合は千葉大か葛城病院に入院させたい旨進言するとともに、その旨被告人に伝えた。千葉大では三月一一日ごろ被告人および小林康弘医師の菌検査を行なつたが、その結果被告人は腸チフス菌陰性であつた。しかし、たまたま千葉県衛生部から、被告人は静岡県でも問題となつているので、さらに精査のため入院させるよう勧奨があり、福永講師は三輪教授の指示を受けて被告人に対し葛城病院に入院することを説得した。被告人は菌検査の結果保菌者でもないのに入院することを渋つたが結局説得に応じ三月一四日午後「保菌者の疑い」として入院し経過観察室に収容された。入院前福永講師は同病院を訪れ谷茂岡同病院長に対し「被告人は菌が出ていないが精密検査してくれ、自発的に入院希望している」と伝えている。

ところで、被告人が菌検査の結果陰性であつたのに入院せざるをえなかつたのは三輪教授、福永講師という上司の意向にさからうことができかねたからであろう。保菌者でもない者を伝染病院に隔離収容することの法的根拠を欠くことは弁護人指摘のとおりであるが、千葉大当局者としてはすでに厚生省の調査も始まつており、被告人が小林、佐藤両医師とともに千葉大、三島(被告人についてはなお御殿場)の各流行に重要な役割をもつているのではないかと疑われる段階にあつたことから、万一感染源であつた場合のことを考慮して外部との接触を断つておきたいと思料したこと、また千葉大および被告人の立場を護るため報道陣から遠ざけておくのが上策と考えたことにあつたと推測される。精密検査の実施の必要も皆無ではなかつたかも知れないが、むしろ上記の考慮が多く働いていたことをは否めない。したがつて、もしこの入院措置が被告人の意思を全く無視して強行されたものとしたならば、それは違法にちがいなかろうが、この段階では被告人も医師としての自由な判断でとくに学内における自己の将来の処遇にも想到し福永講師の説得を不本意ながら受容したものと認められる。被告人は公判廷において福永講師らから力づくで葛城病院へ連行されたかの如く供述したが過剰な表現である。当時の心境は、例えば三月一五日付鹿島洋医師あての書簡(符三八八)からもうかがわれるが、一内当局を恨む感情は全くあらわれていない。したがつて、被告人の入院措置自体を不当と論難するのは当らない。

(一)(1) 被告人は経過観察室に収容された後、腸チフスに関する各種の検査を受けたが、すべて陰性であつた(符二二七参照。もつとも、胆汁検査の結果マイナスとあるが、胆汁が採取できたとは思えないふしがある)。入院のはじめは病院内での行動は比較的自由であつた。家族との面会は一部制限され、退院の日を除けば父繁と二回、弟収と二回面会している。いずれにしても入院が被告人にとつて不愉快であつたことは疑いなく、被告人は谷茂岡院長または一内当局にたびたび退院方を願い出、他方父繁も三月二四、五日ごろ三輪教授らに同様の申出を行なつた。これに対し、葛城病院側では千葉大の意向でとか、千葉大一内では教授会の意見がまとまらない、または厚生省の意向があるとかの理由をあげて被告人の願い出は四月七日まできき入れられていない。もともと被告人は保菌者の疑いで入院したのであつて、保菌者でないことは入院直後の検査でほぼ確定されえたはずであつた。にもかかわらず隔離が解かれなかつたのは、厚生省等による調査が進み被告人に対する疑惑が強まつてきていたところから、千葉大当局においてその取扱いに苦しみ、精密検査の続行を理由に退院の延期を期待し、谷茂岡院長がこれに同調したゆえであつたと推認される。したがつて、入院は当初被告人の意思を無視したものではなく、一定期間の収容は被告人自身覚悟していたものとはいえ、三月末頃以降もなお収容を継続したのは、その限りで病院長の裁量の範囲を超える措置であつたと目さざをるえない。そして、被告人はこのようになかなか退院できないこと、厚生省の調査を受けたこと、後記報道関係者の動き等から入院の後半頃には、かなり精神的疲労を来たしていたことは一応看取できる。しかし、健康状態は格別不良化することはなかつたと認められる。

(2) 三月二九日被告人の父繁は、連絡を受けて三輪教授宅に招かれ、福永講師から「汚物が被告人によつて葛城病院にまき散らされた疑いがある」と告げられ、三輪教授から「異常者なら被告人に対する疑惑は解決する。必要とあれば希望の大学で精神鑑定を行なつてもよい」との提言を受けたが、これを拒否したという。右の汚物の件は、三月二七日と二九日頃の二回にわたつて葛城病院伝染病棟の男便所が糞便で汚された事実があり、被人にその疑いがかけられたことを指す。そして、三月三〇日千葉大精神科松本胖教授が葛城病院の精神病棟増築の件で同病院に来院した際、被告人は同教授の診察を受けた。同教授は「分裂病質の疑はあるが分裂病ではない。自殺されたりしたら困るので気をつけるよう」谷茂岡院長に指示した。こうした一連の事象をつなぎ合わせて、弁護人は千葉大当局者は被告人を精神病者に仕立てる工作を行なつたとするのであるが、松本教授の来診後被告人にに対する看護婦らによる動静観察がやや詳細になつた(符五〇二参照)ほか、現実に被告人を精神病者扱いにした事実はない。

(3) 四月七日、被告人は父および宇井医局長立会いの下に退院の措置がとられ、引続き中央署に任意同行された。この退院の日取について、警察は当日朝中央署藤崎警部補が被告人の父からの連絡ではじめて知つたとする証言があるが、多少の疑問はある。しかし、退院を延期させるについて捜査官が積極的に作為した事実は全く認められない。

(三) このようにして、被告人は葛城病院に二五日間隔離収容され、引続き逮捕勾留された。この間の隔離収容については上述のとおり一部問題の点もあるが、しかし、これは葛城病院ないし千葉大の措置に関することで、捜査当局がそれを示唆したりまたはその後これを意識的に利用したりした形跡はない。弁護人は右隔離収容自体を人権無視と強調するが、これは捜査官による自白採取と直接の関係をもたない事柄である。いいかえれば、葛城病院への隔離収容は全く捜査の圏外で行なわれたことであり、いわゆる鈴木メモ(符五七七)を除けば、その間に自白があつたわけではない。したがつて、自白調書の証拠能力の有無を論定する限りでは、被告人がその隔離収容によつて捜査官の取調にたえない程の心身の状態が惹起されたとか、捜査官がこれを利用したとかの要素がない以上、重要な意味をもたないものである。しかるに、被告人に精神的疲労が生じていたのは前記の如く事実であるが、右にあげた要素を充足するような程度のものであつたと迄はいえないし、他の要素も存在しない。弁護人の主張は採用できない。

二 「マスコミによる圧迫」について

この点に関する弁護人の主張は、要するに、「マスコミは、被告人の葛城病院への拘束と前後して本件伝染病の多発が被告人の犯行によるものと即断した報道をくりかえし、被告人の身辺にまつわり、または公開質問状の形式をとつて自白を要請し、頻りに逮捕と起訴への決断を求めるキャンペーンを行なつた。被告人は精神的にも肉体的にも追いつめられ、またマスコミによつて先導されて出来上つた図式にそつて捜査官から自白を強要された。」というものである。

(一) 本件に関する厚生省の調査および捜査の開始がマスコミの報道に触発された面のあることは前にも述べたところであるが、その後の新聞報道の消息は弁護人提出の朝日、毎日、読売三紙の記事の抜すい〔符四五八、四五九、四六〇〕および中央公論昭和四一年六月号菊村到「チフス菌事件と社会部」(符五六三)のとおりである。被告人がこれらマスコミの対象として登場してきた後のその内容の大部分は、厚生省、千葉大、捜査機関のいずれかがすでに把握していた情報あるいは判断に基づいたものと認めて妨げなかろう。しかし、なかには、四月二日朝日新聞朝刊記事(「鈴木医局員を逮捕へ、傷害致死または殺人の疑い」のように当時未だ強制捜査の方針すら捜査当局にはなかつた(強制捜査は既述のとおり同月四日決定されたことで、逮捕状請求は六日に行なわれている)にもかかわらず余りにも大胆な見込み記事を登載した例もみられる。

一方、被告人が葛城病院に入院中、報道各社は病院をとりまいて取材をきそい、ときに公開質問状を発し(東京、読売、朝日、共同の各社。符三八二――三八六参照)、四月七日の退院、任意同行にあたつては、一〇〇人以上の報道関係者が被告人を包囲し、頗る混乱をきわめ、また四月一〇日の勾留質問時における裁判所内外での情況も大同小異であつた。

総じて本件に関する報道の傾向は、弁護人引用の次の言葉――「わが国における犯罪についてのマスメデイアの報道は……捜査の段階における事件の端緒ならびに発展に重点がおかれ、しかもその報道ぶりはきわめて詳細であり、ときに興味本位でありかつ断定的である。被疑者は起訴前においてすでに悪人のレッテルを貼られ、社会的には有罪と断定されてしまう場合がしばしばである。(『人権白書』昭和四七年版)」に典型的にあてはまる報道ぶりであつたといえよう。これは単なる営業上・編集上の方針というより、むしろ読者の要求に答えようとする言論の自由のもつ一面の姿なのかも知れないが、法の運用あるいは被疑者の人権との関係で、この“ペーパー・トライアル”とも評すべき状態はもつと自制されるべきものと思われる。

ところで、本件において被告人は幸か不幸か自己を対象とした新聞記事の閲読の機会は少なかつたようである。しかし、葛城病院入院中および逮捕勾留の前後におけるマスコミの態度には直接触れているのであり、これが苦痛のたねの一つになつたことはうかがえるけれども、その圧迫が因となつて自白をあえてしたというのは考え方として余りにも飛躍的である。現に、被告人は報道関係者の質問状に対しては終始潔白である旨答え、また前記の混乱を惹起した逮捕・勾留後しばらくは犯行を否認する態度を持していたのである。地方、捜査官がマスコミのミス・リードのまま自白を強制したとの証拠は全く存しない。もちろん、捜査の端緒にマスコミの報道が一役を演じており、その後の記事が捜査官の決意になにがしかの影響を与えたには違いないであろうが、本件逮捕の被疑事実たるカステラ事件はマスコミからえた情報によるものではなく、逮捕後の諸記事は犯行動機に関するものも含め、かえつて捜査機関の発表を追いつつ、若干各社特有のカラーを打ち出していたにとどまるものとみるのが事実に合する。

(二) 本件でマスコミの影響は実は、自白の任意性の点で問題となるのではない。それは弁護人も付加的に言及しているように、むしろ被害を受けたとする者に対して与えた影響である。本件のように連続犯行の可能性が打ち出された事例では、マスコミの報道によつて従来浮上していなかつた被害者群がぞくぞくと名乗りをあげ、すべてを被告人に結びつけようとする傾向の生ずることである。現に逮捕当時未だ分明でなかつたいくつかのケースに微妙な影響を与えたかの如くうかがわれる(川鉄カルピス事件、焼蛤事件、みかん事件、三島バナナ事件、バリューム・舌圧子事件等)。しかし、これは言論の自由のもたらす或る程度やむをえない結果である。マスコミに影響されない真実の証言を当事者に求めると共に、裁判所の慎重な洞察力によつて解決するほかはあるまい。いずれにしても、マスコミの問題は直接被告人の自白の証拠能力の問題にはつながらないと判断する。

三 「弁護権の妨害」について

この点に関する弁護人の主張は、要するに、「捜査官らは(イ)被告人の弁護人に対する信頼関係に動揺を与える言動をくり返し、(ロ)弁護人との自由な接見を妨害し、(ハ)接見室における被告人と弁護人との会話内容を盗聴したりした。これらは、すべていわゆる秘密交通権侵犯の違法行為であり、そのもとで作成された被告人の自白調書は排除されるべきである。」というのである。

(一) 弁護人の(イ)の主張は、具体的には、捜査官らが、いやがらせ、すなわち「弁護士を多く選んだら家屋敷など財産をとられてしまう」「多くの弁護士はまだ卵にすぎない」とか、鈴木元子弁護人を軽ろんずるようなことを被告人に向つて口にしたという被告人の供述を根拠としているのであるが、被告人の取調にあたつた、鈴木美夫、大矢、日色各捜査官らはいずれも強く否定するところである。もつとも、捜査の全期間中にあるいはこれに類するような、弁護人に対しエチケットを欠く発言が全くなかつたとまでいいきる資料を裁判所はもたないが、自白排除の効果を付与すべき程の非倫理的言動があつたとは認めがたい。

(二)(1) 弁護人のいう(ロ)の接見妨害をめぐる事実関係は以下のとおりである。

被告人が勾留された後である四月一四日鈴木元子弁護士が被告人の弁護人となつた。被告人は四月二九日カステラ事件で起訴されたが、五月中旬になつて鈴木弁護人の先輩同僚の弁護士たちが本件につき同弁護士を応援し被告人のための弁護団を結成することになり、五月一六日鈴木弁護人と同道して小島将利、山口博久、川越憲治の三弁護士が、弁護人となろうとする者の資格で中央署に勾留中の被告人に接見を申し入れた。ところが、検察官山岡文雄、司法警察員日色義忠は鈴木弁護人以外の右三弁護士について、誰の依頼を受けて弁護人となろうとしているか明らかでないとの理由でその接見を拒否した。このため、三弁護士は千葉地方裁判所に準抗告の申立をしたが翌一七日弁護士山本幸子もまた弁護人となろうとする者として被告人に接見しようとしたところ、検察官富田康次、同山岡文雄によつて同様の理由でこれを拒否されたので、同じく準抗告に及んだ。当庁第一刑事部(当時)はこの二つの準抗告の申立を一括して棄却した(これを甲事件と呼ぶ)。他方、五月二三日弁護士水島晃同岩崎千孝もまた被告人と接見しようとしたところ、刑訴法三九条三項に基づき検察官にこれを拒否され、当庁に対し準抗告を申し立てたところ、当庁第一刑事部は同月二七日「検察官は申立人と被告人とを自由に接見させねばならない」旨の決定をした(これを乙事件と呼ぶ)。翌二八日、前記準抗告を棄却された四弁護士は甲事件につき特別抗告を行ない、これに対し最高裁判所第三小法廷は、七月二六日「右検察官および司法警察員は、被告人の弁護人(弁護人となろうとする者についても同じ)であつても、余罪の関係では被疑者の弁護人であり、したがつて刑訴法三九条三項の指定権に基づく制約をなしうるとの解釈のもとに四名の弁護士の接見を拒否した疑いが濃厚である。公訴の提起後は、余罪について捜査の必要がある場合であつても、被告事件の弁護人または弁護人となろうとする者に対し、刑訴法三九条三項の指定権を行使することはできない」との判断を示し、当庁第一刑事部の準抗告棄却決定を取り消し、当庁に差し戻した。(なお、この差戻事件は当庁第二刑事部((当時))において審理されたが、その後被告人が釈放されたため実体的判断はなされなかつた。)

この一連の接見拒否は(準抗告審で違法と判断された乙事件はもとより最高裁判所によつて差戻された甲事件も)、違法な処分であつたことは疑いない。

(2) ところで、刑訴法三一九条一項は任意にされたものでない疑のある自白証拠能力を否定するが、その根拠を虚偽排除や黙秘権保障(人権擁護)の思想に求める限り、本件のような接見制限は直接自白の任意性とはかかわり合いが乏しい。しかし、近時次第に有力に唱導され、また本件弁護人も強調するいわゆる違法排除説の思想は、被疑者、被告人の取調手続の違法をもつて自白排除の理由とし、憲法三八条二項、刑訴法三一九条一項は憲法三一条の適正条項の一つの説明規定と解するのであるから、この観点からは当然に問題視される。もつとも、違法排除説とても、すべての違法を等価値にみるわけではなく、程度の観念は必然的なものであろう。接見交通権の違法な制限といつても、各種各様の場合がある。したがつて、一律に違法即自白排除とつながるものではなく、具体的場合において防禦権侵害の程度を勘案して自白の許容性の有無を案ずべきものと考えるべきである。これを本件についてみると、次のような特殊事情がある。

(イ) 検察官らは、本件で鈴木弁護人以外の弁護士の接見を拒むについて一応その接見資格の疎明を問題としており、このため正式に弁護人として選任されていた鈴木弁護人に対しては一貫して比較的自由に接見を認めていた。鈴木弁護人は被告人の父母から真先に弁護の依頼を受け、同人らおよび被告人の最も信頼した弁護人で(1)にあげた問題の当時は唯一の弁護人であつた。他方、接見拒否を受けた各弁護士は鈴木弁護人との関係で応援に参じた者で当時の資格は未だ弁護人となろうとする者であつた(なお、後に弁護人となつたが、何らかの事情があつたとはいえ、いずれも昭和四四年弁護人を辞任している)。もちろん、鈴木弁護人と他の「弁護人となろうとする者」との間に接見について法的な格差があつてはならないはずのものではあるが、被告人に与える影響としては事実上両者に相当の開きがあつたのは明らかである。

この鈴木弁護人の接見関係は左の如くである。

まず、被疑者段階をみると、検察官の接見指定により四月一一日(約一〇分)、一四日(約一五分)、一六日(約二〇分)、二一日(約二〇分)、二五日(約三〇分)の五回にわたり面接が行なわれている。

つぎに、四月二九日の起訴後は接見指定は行なわれず、五月中には五月一日(約二時間、ただし鈴木弁護人の証言によれば実質は三〇分という)、五月六日、五月一六日、五月一八日(約二〇分)、五月二一日(約四〇分)、五月二四日(約一時間)、五月二六日(約五〇分)、五月三〇日(約五〇分)の面接が行なわれている。(なお、これらの接見に関し弁護人は、捜査官は弁護人のする接見を短時間に制限し、場合によつては取調に藉口して接見の機会を後印に引き延ばしたり拒否したりしたともいう。しかし、第一回の起訴前の勾留期間中、検察官が鈴木弁護人に対し認めた接見関係は前記のとおりで、その指定はやや短時間であるうらみはあるが、ことさら他事件と違つた取扱いをしたわけではなく、必ずしも不当とはいえない。起訴後は鈴木弁護人に対し、上記五月一日および五月二四日、それぞれ取調の必要が生じたとの理由をあげて接見の中断を求め、また五月三日の接見の申入に対し五月六日に切替えることを要請した事実があるものの、鈴木弁護人としては当時の情況に処し、起訴後も接見の機会については検察官と協議しながらこれを行なう方針をとつていたとうかがわれるし、検察官の態度が同弁護人にとつて満足すべきものでなかつたにせよ、その場合むしろ漸進的な是正を期待する選択を行ないつつ接見を積み重ねていつた事情にあると認められるので、右のような検察官の措置につき高度の違法があつたと難ずるのは当らないというべきである。)

五月三〇日被告人が千葉刑務所に移監された以後は、鈴木弁護人のみならず、他の弁護人に対しても接見の妨害が行なわれた事実は全く認められない。

(ロ) 被告人の自白はこの接見妨害問題のおこる前から行なわれており、その問題が一応解決された後にも自白が続いた。弁護人は、この接見に関する紛議の途中こそ最も微妙な段階にあり、この間に被告人に重大な転機がおとずれたと主張するが、たしかにこの期間の被告人の自白には注目すべきものはある。しかし、それらの自白が接見の支障の影響を受けたとみうる証左はなく、たとえば後に問題にする五月二五日の供述の前後にも鈴木弁護人との接見が十分に行なわれていたことは上記のとおりである。

(ハ) 本件では最高裁判所が疑いを投げかけたように、検察官は、起訴後余罪捜査の必要がある場合には、被告人は余罪の関係ではなお被疑者としての特色があり、これに対しては刑訴法三九条三項、刑訴規則二七条等の適用を妨げないものと信じていたと考えられる(乙事件参照)。この点は、勾留を事件単位に考え、また起訴後の勾留を利用しての余罪捜査(被告人の取調)を肯認するとき、おそらく捜査官としては魅かれ易い見解であつたろう。昭和四一年当時の状況として、よるべき先例はなく、わずかに、起訴前の勾留と起訴後の勾留とが競合する場合、起訴前の勾留については接見指定ができ、弁護人は被告事件については自由に接見できるものの、その際でも被疑事件についての指定処分を受ける、とした昭和三八年五月二二日岐阜地裁決定をめぐつて論議があつた位のものであつた。本件はこのような未成熟な状況のもとで惹起されたもので、最高裁決定によつて帰一され、その後の指針が与えられるに至つた。検察官らの接見拒否処分はまぎれもなく違法なものであつたが、自白排除の形でいま再びその違法をとがめる理由は減じている。

(3) 以上、(イ)の事情を主とし、(ロ)(ハ)の事情を従として本問題を考えるとき、弁護権の妨害は部分的なもので、当裁判所としては本件自白の証拠能力を失わせるまでもないと判断する。

(三) 昭和四一年四月二五日鈴木弁護人が中央署で被告人と接見した際、物の授受を監視するためと称して接見室出入口の外側に警察官二名が位置していたので、これに対して同弁護人が抗議したけれども、警察官の椅子を二、三メートルずらさせることができただけで接見を続けざるをえなかつたことは同弁護人の証言するところである。そこで、このような監視、盗聴はむしろ常態であつて、現に接見内容が取調官に筒抜けになつていた節も見受けられ、秘密交通権が侵害されたというのが弁護人の前記(ハ)の主張になる。

たしかに、当裁判所の検証の結果によれば接見室出入口外側からは中の会話がききとれる位置にある。四月二五日の警察官二名はおそらく看守たる警察官であつて、捜査に直接従事する者ではなかつたと推察されるが、そうであつても弁護権に対する配慮を欠くことであつた。しかし、捜査官らの証言によれば看守が立聞き、盗聴していたとは断定できず、まして取調官らが立聞きの内容を自白の勧誘に利用したとの証跡はない。したがつて、弁護人の主張には同調しがたい。

結局、弁護権妨害を理由とする主張はいずれも採用できないものといわなければならない。

四 「取調方法の違法」について

この点に関する弁護人の主張は、要するに、「自白は強制、誘導によるものである」というのであるが、その理由は多岐にわたつている。

(一) 連続取調の点

被告人の供述調書、当公判廷の供述、検察事務官大地数栄の昭和四七年六月一六日付、同月一五日付、七月三日付報告書、ならびに鈴木美夫、大矢房治、日色義忠、鈴木元子の各証言等によれば被告人に対する取調の状況は次のとおり認められる。すなわち、被告人は昭和四一年四月七日中央署に留置され、五月三〇日千葉刑務所に移監、昭和四三年一〇月一八日保釈により出所したものである。まず、中央署在監時(五三日間)における取調日および取調時間をみると、(警察官による取調については動静簿の紛失により不明の点を残しているが)警察官と検察官との取調がほぼ並行的に行なわれ、双方をあわせると、日曜日など二、三の日を除き連日にわたつている。一方取調時間は警察官のみの場合、検察官のみの場合、双方とも行なつた場合があつて区々ではあるが、午前二時間、午後(夕食前まで)三、四時間は普通のことで、夜(夕食後)三、四時間の場合も少なからずあつたものと思われ、したがつて最も長時間に及ぶのは一日一〇時間という例もあつたと推察される。

つぎに、千葉刑務所に移監後の取調状況は前掲大地事務官作成の昭和四七年六月一五日付および一六日付報告書によつて明らかである。これによると、五月三〇日から七月七日(第五回起訴の日)までは六月一七日の一日を除き連日(三八日間)検察官または警察官の取調が行なわれ、その約半数は日に五時間をこえ(長いものは九時間)、約半数は夜間に及んでいる。

なお、七月八日以降は最終起訴のあつた七月二一日の前々日たる七月一九日までの間に散発的に四回、いずれも短時間の取調がなされ、同日をもつて供述調書の作成を終えている。

すでに述べたとおり、本件の勾留はカステラ事件の被疑事実をもつてはじまり、同事件の起訴後、昭和四三年三月八日、その他の起訴事件によつて重複勾留がなされるまではカステラ事件が唯一の勾留事実になつている。しかし、捜査なかんずく取調は起訴の前後を問わず終始被告人が作為的に赤痢菌あるいは腸チフス菌を利用した疑いのある諸事実(傷害だけではなく監禁その他の罪も含んでいた)に向けられた。したがつて、カステラ事件以外の事実からみれば、別件の勾留状態を利用する取調であつて、結局被告人に対する取調は四月七日から七月一九日までの一〇四日間のうち約九〇日にわたつて行なわれたことになる。

これらはまことに異例のことといわなければならない。単に連続取調の点だけでなく、それが勾留事実以外の事実におよんだ点を含めて問題とすべきである。

(1) 被疑者の段階で、勾留事実以外の関連事実をも取調の対象とすることは、いわゆる違法な別件逮捕、勾留のような脱法的捜査に当るとみられる場合は別として、一応許容されると考えてよい。他方、起訴後、元来は裁判所の審判作用のためのみに存する勾留による身柄拘束状態を利用して余罪について被告人の取調を行なうことも、一定の場合、やはり許容されるものと解する。それは、逮捕、勾留の反覆くり返しを避けかつ同時審判を受けうるような被告人側の利益と均衡を保ち、また起訴後の勾留本来の目的を著しく害しないような取調期間・方法・程度を規準に判定されるべきものと思われる。そして、いずれの場合でも、勾留事実以外の事実に関する取調の本質は任意捜査で司法審査を経ていないのもであるから、被疑者、被告人の供述拒否権については慎重な配慮が必要であり、刑訴法の建前である事件単位の令状主義から著るしく離反しないよう留意しなければならない。

これを本件について考えてみると、本件には冒頭Ⅰ第三(二)3に概括したような特色があり、勾留事実とされていたカステラ事件はそれ自体もとより一つの自足的な、しかも重大な被疑事実ではあつた。そして、捜査の過程を詳さにみるとき、被告人の容疑は千葉大、三島、御殿場あるいは川鉄などと、被告人のあらわれるところ赤痢・腸チフスの流行があるという点に発し、かつ、それがまた重要な情況証拠となつており、これら犯行の動機、犯行方法等は共通する疑いがあり、各事件は相互に密接に関連し統一して解明する必要性を捜査官は考えていたものと推察される。当時の情況判断としてそれは大綱において首肯できるものであつた。したがつて、起訴前の勾留期間中にカステラ事件を主としつつも、それ以外の事実も取調べたことは捜査としては当然のことであつたろうし、四月一三日の自白に引続き、この期間中に親族関係(ただし堀内十助方事件については自白)、三島病院関係事件を除くその余の事件の自白をえたことは、とくに別件勾留中の自白として不当性を鳴らす必要はない。次に、カステラ事件の起訴後、右の自白にかかる余罪やその他疑いの濃い事件について捜査がつづけられたのは当然であろうが、この場合、カステラ事件の勾留状態を利用して捜査をつづけるのもやむをえないものであつたか、別に逮捕状、勾留状をえて捜査を行なうべきものであつたかは、容疑が甚だ広範囲なものであつた(カステラ事件以外の起訴事実一二、正式には不起訴裁定のあつた事実だけでも二)だけに前記基準に照らし頗る判定が困難である。けだし、たとえば川鉄カルピス事件の如きは被害者が多数で事案も錯雑しているところから、また堀内十助方事件の如きは密接な親族関係者に対するものであることから、従来の標準によれば一〇日間の勾留期間の延長は必至であつたかも知れない。その他の事件も医学上の特殊領域の事案であることから、一つ一つがかなりの難件である。機械的に事件単位の原則を適用して算出すれば起訴前の勾留期間は優に百数十日にのぼることが想定されよう。しかも、各事件は犯罪日時、場所等が接近し社会的事実は一個とみられるにかかわらず実体法上併合罪の関係に立つため訴訟上別個の事実と評価される類いのものではなく、社会的事実としても複数とみられるものであり、それでもなお相互に密接するという複雑な構造をもつていた。したがつて当裁判所としては、起訴後の勾留中、約三カ月にわたり起訴事実以外の事実の取調をも行なつた措置につき、妥当性の問題はあるものの(カステラ事件は、前々年の、しかも赤痢関係の事件である。しかるに、捜査の対象とされた事件の大部分は前年または当年の腸チフス関係の事件であつたから、腸チフス関係のいずれかについては令状の発付を受けるのが適切ではなかつたかと考えられる。)、違法と評する態度はとらない。

(2) だが、前記のような最終起訴までの一〇四日間の勾留中約九〇日にわたる連続取調が行なわれたことについては被告人(余罪の関係では被疑者)に対する取調の限度を超えているのではないかとの疑問をもつ。しかし、次にあげる諸事情を勘案し、被告人の本件自白を証拠から排除しない。

(イ) 自白は逮捕後早くも七日目から始まつている(カステラ事件、川鉄カルピス事件、チ葉大バナナ事件)。そして、起訴前の勾留期間が切れ、カステラ事件が起訴されたときまでに大林事件、堀内十助方事件、焼蛤事件、みかん事件の自白も行なわれていた。もちろん、これらの自白は精粗さまざまであり、変転も一再ならずあつたので、さらに追及の必要を生じた。したがつて、その後の自白の中心点は、バリューム・舌圧子事件を除けば、どれも当初の自白のいわば正中線上にあつたといつてよい。その意味でカステラ事件起訴後における連続取調と自白との密着度は高くないと考えられる。(ただ、最も遅い時期になされたバリューム・舌圧子事件の自白は、長期連続取調の影響が多少あつたかの如き感もするが、任意性を疑わせるとまでは断定できない。)

(ロ) また、前掲のように本件が専門的知識を必要とすること、被告人の自供以外には直接証拠のないことは必然的に取調回数をます。かかる知識の乏しい捜査官としては、知識の吸収は別途求めることもあつたがむしろ被告人に「教えられつつ」捜査を続行せざるをえなかつた模様である。しかるに、被告人は意識的にか無意識にか虚構の事実を供述し、それを後日訂正するような状態が多くみられ、捜査官としては逐一それをただす必要があつた。ふり返つてみれば、それでもなお足らざるところがあつたのではないかとさえ思料される。

(ハ) 被告人が葛城病院退院前後ごろから逮捕時に、隔離ないしマスコミ陣の影響を受けて、精神的に懊悩していたとしても、その健康にとくに異常のなかつたことは既述した。つぎに中央署における逮捕、勾留中の状態については、符四七四、大御恒久調書(員)によれば、被告人は四月九日、一九日、五月一三日の三回井上病院医師の診察を受けているが、便秘、頭痛などの訴えはあつたが、とくに拘禁症状とか取調にたえられないような健康状態であつたとは思われない。千葉刑務所在監中の状態については、符四七五、四七六によつて明らかなように全く異常はない。そして四月二八日、五月一五日の二回にわたつて採取された録音テープ(符五三七)の音声、五月二五日に採取された八ミルフィルム(符五三八)の映像等からうかがわれる被告人の心身の状況はとくに甚しく消耗した色は認められない。

当裁判所は、本件における捜査官の連続取調を決して是なりとはしない。しかし、以上の客観的・主観的事情にかんがみ、その自白は辛ろうじて証拠能力をそなえていると認め、あとは信ぴよう性の分野で検討を加えるものとする。

(二) 捜査官による供述の強制の点

(1) 弁護人のあげる具体的事実のうち、たとえば

(イ) 四月一〇日裁判所における勾留質問を終えて中央署に帰るや否や日色警部補が被告人の下腹部を蹴りあげた

(ロ) 鈴木美夫、大矢、日色の三名の捜査官による取調で、反抗的供述をすると机を被告人に押しつけて壁の間にはさみ、ために被告人は脱糞してしまつた

(ハ) 警察官が手錠をかけたまま、大学や郷里を引廻してやると恫喝し、あるいは差入の食糧を与えず空腹感を利用して自供を迫つた

(ニ) 検察官の取調には日色警部補らが在席し、警察における供述と異るや怒声をあげ、後刻詰問したりした

などについては、いずれも右捜査官らの強く否定するところである。被告人は医師として社会的地位ある者であるため、捜査官らは上司より失態のないよう強く戒められていたというし、叙上の弁護人の主張は、いずれも被告人の当公判廷における供述を基礎としているものであるが、その供述には、後にもその一端についてふれるように、多くの誇張や粉飾があり必ずしも信用することができない。

(ホ) 弁護人はまた、昭和四一年四月九日付朝日新聞記事を引用し、捜査官は無理じいに予定された供述を求め、無罪の根拠を提出しない限り犯人であるといつて被告人を追いつめる態度をとつたと非難する。

右新聞記事に対しては当時県警本部長名で朝日新聞千葉支局に対し事実に反するとして抗議したが、新聞社は独自の取材によるものとしてこれをしりぞけたという。したがつて、右記事の正確性には疑問もないではない。しかも、記事は断片的で取調全体の雰囲気を把握できず、いずれにしても、これをもつて、捜査官が被告人に無理な供述を求めたとの資料となすわけにはいかない。かりに一部そのような問答もあつたとしても、程度をこえた理詰めの尋問とか、黙秘権を侵害したとかいう性格のものではない。

(ヘ) 弁護人は、また、捜査官は被告人と家族相互の愛情を巧みに利用して捜査官の意にそう供述を求めようとした、ともいう。これにそう証拠として、取調に当つた鈴木警部らは四月一三日、早く自白しないと父母が自殺するかも知れないという一方、他の捜査員をして実家に赴かしめ父母に自白をすすめる手紙を書かせようとしたという被告人の供述あるいは父繁の証言がある。しかし、四月一三日被告人がはじめて自白したときの経過は、鈴木、大矢、日色各警察官の証言を総合すれば次のとおりである。

四月一二日夜川鉄関係の電話のことを自供した。そこで捜査官はここで犯行の自白をえられるのではないかと思つたが、被告人から気持の整理をさせてくれというので翌日に期待して取調を打ち切つた。翌一三日の昼間は研究関係の話しか供述をえられなかつたが、午後八時ごろ、妹の自殺のことや家庭のことに話が及び、「私の話をきいて下さい」と涙ながらにカステラ事件などについてはじめて自白した。なお、その際三輪教授あてのメモ(大地数栄作成の昭和四五年一一月六日付報告書添付のもの)をしたため届けてもらいたいと依頼した。午後一〇時すぎ捜査官が取調を終わつて立とうとしたら、「いま立たないでくれ、一人になつたら淋しくなる、また、自分が自白したとなると、テレビやラジオで放送され、両親が自殺するかも知れない。新聞発表はあすにしてくれ」というので捜査官らは了承して午後一一時半頃特捜本部に帰つた。しかし本部では新聞発表をのばすわけにはいかないというので大矢警部補がこのことを被告人に告げるとともに篠塚警部、日色警部補を実家に派遣し、同人らは一四日午前四時ごろ実家に到着、被告人が両親のことを種々心配している旨を父親に告げ、とくに母にあやまちがないよう懇請した。父親は承知し、チューリップの花二、三本を日色警部補に預けた。同人らは弟収方によつて帰庁したが、チューリップの花は調室に飾つておいた。

右の経過について被告人らと捜査官らとの供述にはくいちがいが見られるが、細部の点はともかく、自白させるため捜査官が実家に派遣されたとみるより、自白後、万一の場合をおもんばかつて派遣されたのが主眼であつたと見るのが筋がとおつている。

(ト) さらに、弁護人は、山岡検事作成の供述調書には冒頭に必ず「黙祷」とあるが、これは黙つてうつむいていたものをそのように記載したものだといい、同旨の供述を被告人は公判廷でしている。しかし、山岡検事、内田検察事務官、日色警部補の各証言によれば、黙祷はまぎれもなく事実である。また、黙祷について述べた被告人の調書(4.16検四六、4.25検六四、4.16員二九)も存するので、被告人のこの供述は信用できない。

(2) 右(1)(ト)に類する被告人の供述は多々みられる。すなわち、自白調書はすべて自分の述べなかつたことを勝手に書かれ、署名もむりやリボールペンをにぎらせて書かされたとか、葛城病院で書いたいわゆる鈴木メモ(符五七七)は福永講師のいうまま、また三輪教授あての前記メモは警察官のいうままに、それぞれ書いたものだと強調したりするなど。しかし、被告人の実声を録音したテープ二巻、被告人の挙動を実写した八ミリフィルムの存在は、本件各供述調書が決して被告人のいうような形で録取されたものでないことを余すところなく表現している。この録音等にあらわれた供述・挙動が、従来の供述の復習ないし集大成であつたとしても、それは被告人の自白調書が被告人みずから語つたことをほぼ忠実に再現したことを証する有力な資料であることは疑いない。たとえば、被告人は、白金線のことを供述調書にあるような「白金棒」と供述したことはないというが、右録音テープによれば、みずから「白金棒」と述べているところが数個所も散見され決して捜査官の創作用語でないことがはつきりしている。被告人としてはもとよりはじめて捜査官、それも数々の強力犯の捜査を担当してきた県警捜査一課のベテラン捜査官と相対し取調を受けたので、かなりの圧迫感を蒙つたであろうことは想像にかたくない。その印象と、被告人としていわば追いつめられた立場から、公判廷における捜査官を非難する過剰な供述となつた面もあるやと思われる。しかし、それだけでなく、被告人の供述には首をかしげざるをえない不自然なものが数々あり、結局これを根拠とした自白強制の主張は説得性に乏しい。なお、検察官が論告において指摘した次の諸点、

(a) 被告人がはじめて自白した四月一三日以降にも黙秘(5.11員三四、三六)、あるいはさらに署名まで拒否し(6.21検、6.23検)、数多くの否認調書が作成されていること、

(b) また調書の内容に対し訂正申立をしていること(4.24員九、5.11員三六、5.4員三九、6.20検七五)

(c) 余人では書けない図面を作成していること(4.12員二三、7.5員四二、6.9検四七、6.10検四八、4.27検五二、4.23検六三、5.14検六九、6.5検七三、5.17検七六、6.3検七七)

(d) 自白から否認に逆戻りした供述を行なつていること(5.7員三三)これらも自白調書の任意性を肯定する裏づけになるであろう。同様に、前記鈴木メモや三輪教授あてのメモも被告人の意思によつて書かれたものであり、他の人から強制されて書いたものではないと推定して妨げないと考えられる。

(三) 検察官による「行動観察」の点

弁護人は、検察官が公判直前になると被告人に面接し、被告人の審理を受ける心理に影響を与えたことを指摘する。

前述のとおり、検察官による被告人の供述録取は昭和四一年七月一九日をもつて終了し起訴も同月二二日で一応終わつている。もつとも、その後も松田医師死亡の件や相葉久男関係の捜査の必要が皆無ではなかつたのかも知れないが、供述調書の作成はないまま、第二回公判期日(八月八日)の直前、七月二二日、三〇日、八月二日、五日には山岡検事の、同月六日には富田次席検事の面接が行なわれており、その後も第一〇回公判期日までは期日の中間に必ずといつてよい程検察官が二〇分〜一時間の面接をしている。これは直接自白調書の証拠能力には関係ないことであるし、この面接によつて被告人の黙秘権侵害の証左もないので不問に付するが、捜査官・起訴官の立場としては――勾留の執行の面等でとくに必要のない限り――避けるのを妥当としよう。戒心すべき点である。

五 「自白調書と呼べない調書」について

(一) この点に関する弁護人の主張の一は、「被告人の検察官に対する供述調書中には犯罪事実の最も重要な部分につき『やつたかも知れない』『したように思います』という表現で記載されているのが少くないが(5.5検六七、5.6検六六、5.7検八六、5.9検五五、5.14検六九、5.17検七六、5.19検五六、5.21検八七、5.24検七四など)、これは半面『やらなかつたかも知れぬ』という意味をも持つものであつて、刑訴法三二二条の不利益事実の承認にはあたらない、」というものである。

刑訴法三二二条の不利益事実の承認には、犯罪事実の主要部分を認める供述(自白)のほか、犯罪事実の一小部分を認め、あるいは自己に不利益な間接事実を認める供述を含むと解されるが、弁護人指摘の各供述調書には、問題の「かも知れない」との供述の前後には、少なくとも自己に不利益な間接事実(五月五日調書の一〜八項に例をとると、昭和四〇年九月五日当直でバナナを買つたこと、それを看護婦に渡したこと、その看護婦らが腸チフスに罹患したこと、その菌株を保存しておいたこと等)が述べられている。他方、一般に「やつたかも知れない」との供述記載は、(a)実際犯行を犯したことをあいまいにぼかしながらした供述をそのまま如実に記載したもの、あるいは(b)弁護人強調の如く「やつたかやらなかつたか分らない」との趣旨の供述について前半だけに力点をおいて記載したものなどいろいろなケースが考えられ、(a)はそれ自体不利益事実の承認とみてよいが、(b)は独立してこれと同視することはできない。通常は(a)の場合ではないかと考えられ、本件でもその公算が強い(5.25検七〇の一項には「私は今迄腸チフス菌を人に喫食させたことについてその方法や気持をあいまいにしておいた。例えば、バナナやミカンに白金棒で菌を刺したかも知れないと述べていたが、これはたしかに刺しているのです」とある)。が、いずれにしても、この「犯行をやつたかも知れない」との供述内容は完全自白に至る過程をあらわすものとしての意義を大なり小なり内包しているし、少なくともその前後の不利益供述と合体して考えるべきものであるから、全体として刑訴法三二二条前段該当と解して妨げない。前記(a)(b)のニュアンスの違いの判別は証拠能力の問題としてではなく証明力の問題として考えれば足りる。

(二) 弁護人はまた、「被告人の検察官に対する供述調書には、自己の行為としてではなく、犯人という第三者を想定し『私が犯人の立場であつたらこうであつたと考えられる』という形式のものがあるが(五月一四日、一七日、一九日、二一日付など)、これは、自らの不利益事実を述べた調書とはいえない」と主張する。

しかし、供述者の心理として、ときには自己の行為であることを率直に言いづらく考え第三者に仮託して事実を述べる場合もあり、他方取調の技術として被尋問者と同様の立場にある者を引合いに出して自白に接近する方法もありうる。後者の場合、誤導その他違法な欺罔が付随するおそれがあるが、それさえなければ禁じる理由はない。本件では、たしかに弁護人指摘のような第三者想定型の調書が存し、それが右のどの類型に属するものであるかは判別しがたいが、たとえば、5.27検五七の一項(「人体実験ということを今まで話すことができなかつたのでうそのことを言つたり、又自分の行動や気持を第三者的に批判した様に述べていましたが、事実は自分のことなのです」)のようにいずれもその後の完全自白につながつており、過程的な供述内容として意義があり、自白前の不利益事実の承認たる性質を失わないものと考える。

(三) 弁護人は、なお、右(一)(二)にあげた調書がその記載形式からして刑訴法三二二条の書面にあたらないとはいえないと仮定しても、これらは検察官の偽計による調書とも主張するが、偽計とみるべき特段の証拠はない。

B 自白の信ぴよう性

一(一) 当裁判所は前Aにおいて被告人の捜査官に対する自白調書の証拠能力(任意性)を肯定した。一般的にいえば、自白は任意に述べられたものであるときはその真実性も認められる場合が多い。そして、とくにその自白が動機において悔悟に基づくと考えられるときは、信ぴよう力が高いといわれる。被告人がはじめて本件について概括的自白を行なつたときの状況や検察官に対して黙祷までして取調に応じたことはすでにこれを明らかにしたが、その他被告人はしばしば自白の動機について語つている。その数例を挙示してみる。

(イ) 警察官に対してはじめて自白した4.13員一一1項

「千葉大、川鉄、三島等の赤痢、腸チフスについていままで意思の統一もつかなかつたので話さなかつたが、拘束をひしひしと感ずるとともに、何の罪もない人が私のためにいろいろな疾病にたおれもうこれ以上かくすこともできず深く反省したので一切申しあげる」

(ロ) 検察官に対してはじめて自白した4.16検四六1、9項

「深く反省している。供述する際にはこれからも気持を統一するためにしばらく黙祷させて貰いたいことをお願い申します(1項)。身分が不安定だつたとはいえ、自分の扱つていた腸チフス、赤痢菌等をいたずらして何の罪もない他の人に害を与えたのは申訳ない気持で一杯です(9項)」

(ハ) 5.19検五六1項

「黙祷――よく気持を統一して一生けんめい話しているのです私の本当の気持で述べております。……知つている範囲のことは良心に誓つて述べております。」

(ニ) 5.25検七〇1項

「私は今迄腸チフス菌を人に喫食させたことについてその方法や気持をあいまいにしておいた……が、本当のことを話す気持になつたのは、昨日父親や親族関係の人に渡したバナナで食べた人達がチフスの発病をしたことについて取調を受け、あいまいにしておいたことを本当にすまないと思つた、私がどんな気持でこんな危いことをしたかと本当に話し親や親戚たちも『充がそんな気持でやつていたのか』と判つてもらい許してもらいたいという気持になつた」

(ホ) 供述調書としては最終日付のものである7.19検八五8項

「現在では……当時のことを十分反省している。私の行為についてはいずれ裁判でその責任を問われることと思うが私としては十分反省している。できるだけ処罰は寛大にしてもらいたい」

(ヘ) その他右に類する供述調書の記載は随所にあらわれている(4.13員一一7項、4.14員一八1項、4.15員一三1項、4.16員二九2項、4.19員二五1項、4.25員二七1項、4.27検五二1項、4.29員四1項、6.9検四七1項、10項、6.20検七五9項等)。

(二) なお、本件における被告人の自白はみずから体験した者でなければ述べえないような内容を具体的に暴露しているやに見受けられる。被告人の自白は変転が多く、それは犯行動機や細菌付着の方法の点でとくに著るしいが、最終的にほぼ固まつたその内容は、写実的で、迫真力に富む観を呈するものである。したがつて、それまでの変遷は捜査官の追及の過程をあらわすものであつて、結局は真実を吐露するに至つたと考えて妨げないように通観されさえするのである。しかし、この点は仔細にみると警戒を要するものがある。なぜなら、細菌をいじるようなことは一般人にはきわめて特殊的なことと観察され、したがつてこれを用いて人体を汚染すべく菌液を作り、食品類を汚染し、運般その他の所業に出たことについての内容はまさに体験者の言そのものの如く迫真的に映るのであるが、実は細菌の研究者にとつて、菌液を作るようなことは日常の作業であり、これを犯行につなげていくいろいろな動作についての供述も決して想像を許さない範囲のものときめつけうるものではない。そのような眼をもつて本件自白をみるとき、自白内容に体験者でなければ知りえない秘密性が蔵されているかといえば、それが案外に少ないことに気づく。しかも、この秘密性は客観的な裏づけをえたとき最も効果的なはずであるが、その裏づけはきわめて乏しいのである。

二(一) ともあれ、検察官は、警察の捜査を経て煮つまつたと思える自白を真実としてこれを基礎に訴因を特定し、冒頭陳述の構成を行なつたとみられる。ところが、訴訟の最終段階において、検察官の訴訟行為として二つの、きわめて注目すべき措置がとられた。一つは、第一〇八回公判における犯行態様に関する択一的訴因の追加であり、二つは、論告における犯行動機に関する全面的変改である。検察官をして、これらの措置をとらしめた理由は、(イ)訴因追加については、本件は大量の菌が摂取されたとみなければならないところ中谷鑑定、善養寺鑑定によれば菌液穿刺の方法よりも直接穿刺の方法がはるかに菌が多量検出されることが判明し、その結果被告人の捜査初期の段階における直接穿刺の供述があるいは真相に合致しているのではないかと考えられたため審判の範囲を拡張すること等にあつたという(訴因追加請求理由書参照)。そして、(ロ)犯行動機については、公判における審理の結果、人体実験なる動機を立てるには被告人の行動が矛盾しており証拠に即しないことが明らかにされたためであつたと推測される。もちろん、訴因は公訴事実を法律的に構成した検察官の主張であり、訴訟の進展に応じ変更の余地あるものであるし、犯行動機の如く構成要件事実外のことは右にもまして浮動的なものであるかも知れない。しかし、ここで考えなければならないのは、これら犯行方法にしろ犯行動機にしろ、当初(追加または変改前)のものはいずれも被告人の捜査官、とくに検察官に対する供述調書に述べられたところから検察官が最も真実に近いと判定したものに基づいて主張していたはずだということである。やや具体的にいうと、被告人は5.25検七〇、および5.27検五七の検察官調書において、それまでに供述していた腸チフス菌による各汚染方法について、ここではじめて統一し、カルピス、バナナ、焼蛤、みかんにつき、すべてクロマイを混入した蒸溜水に腸チフス菌を入れるやり方で菌量を一定にしておいて上記食品を汚染したものだ、と供述した。そしてそれはクロマイ耐性をもつ菌を人体に喫食させ、耐性の変化をみたかつた(人体実験)というのである。その後、クロマイを混入したとの点は否定し、人体実験論の動機に関する供述には若干の起伏がみられるが、この菌液による汚染方法の点は一貫して変わるところはなかつたものである。このため、検察官はこれを採用し、かつ人体実験を本件全体を通ずる最も主要な動機の一として冒頭陳述を構成したものと考えられる。ところが、犯行方法については検察官に対する供述よりも早い時期の司法警察員に対する供述をよみがえらせてこれを択一的訴因として掲げるに至り、また犯行動機については人体実験論に関する限りおおむね当初の主張をみずから否定したことは、結局、検察官自身みずからが信じていた被告人の供述調書の内容が頗る不安定なものであつたことを公判の過程で自認したことを物語る。この点に関し、検察官は「被告人が捜査官に対し任意に供述したもの……がことごとく真実かというと必ずしもそうではなく、虚実あい混つておりいわばこの玉石混交の中から健全な常識と客観的精神によつて真実を選び出さなければならない」(論告要旨二九丁裏)と述べる。一般論としてはたしかにそのとおりであろうが、しかし、任意な、しかもさきに詳述したような悔悟の形で述べられた自白のなかになぜにかくも重大な虚偽が含まれていたのかはもつと精密な探求がなくてはならない。

(二) 犯行方法や犯行動機に関する被告人の供述は捜査官の誘導によつたものであろうか。もとより捜査官としてはこれらの点を各方面から追及したことは当然であろう。しかし、犯行方法の面で、被告人がバナナに関し細菌混入の水液を摘下散布したとか(4.13員一一)、カルピスに関し菌液を示指につけてヤカンに入れたとか(同上)、カルピスに関し、金棒の先の菌を左手示指につけてヤカンをかき廻したとか(4.27検五二)、クロマイ混入の菌液を作つたとか(5.25検七〇)、クロマイは一ミリグラム力価のものであつたとか(同上)、バナナにつけた菌液は12.5ガンマーの耐性のある菌であつたとか(6.1検七一)述べているのは到底捜査官の誘導によつたものとは考えがたい。けだし、の諸供述は素人から見ても甚だ非常識であり、は専門家でなければ述べえないことであり、これらはいずれも後に被告人が捜査官の追及にあい供述をひるがえしているものであるからである。つぎに、人体実験なる犯行動機の点に関しては、被告人がそのいわゆる実験結果の収集測定を行なつていない事実に照らし、検察官自身疑問を提起しながら供述を求めた時期もあるのであり(6.1検七一、6.5検七三、6.6検七八)、また動機の記載を省いた起訴状を提出する異例の方法をとしたことなどにも徴すると、検察官独自の図式設定に応じて被告人が供述した性格のものであつたとも思われない。

もつとも、被告人にはかなり迎合的な傾向があるようにうかがわれる。たとえば、本件についてまだ自白するに至らない前の4.10員一二によるとカステラ事件に関し、昭和三九年一二月中に関医師に対し、アイソトープ室から電話をしたように思う旨述べているが、これは関医師が電話を受けたといつているとの捜査官の尋問に符節を合わせたものの如く臆測される。しかし、各説第二で明らかにする如く、一二月中に同医師に電話した事実はないのである。したがつて、このような迎合をもつて事実に反する供述をした部分も少なからずあつたともいわなくてはならない。しかし、それにもまして問題にすべきことは被告人にはかなり目だつた虚言傾向のあることである。証拠によつて確定できる二、三の例証をあげよう。

(1) 捜査前の事実 (イ)被告人は昭和三九年一二月二九日六研実験室で三島病院から持つてきてあつた赤痢菌の薬剤耐性の検査をしたが、松田副院長の分のブイヨン(M試験管)を流しに放置したまま日影祀子の往診に出かけた。その後一月四日、加藤医師からこのM試験管のことについてたずねられたが、自分の関係したものではないと答えている。

(ロ) 昭和四一年一月ごろ横田医師の発病後、福永講師から国立予研へ千葉大の腸チフス菌株を持つていつていないかとたずねられたとき、事実は前年九月発生の腸チフス患者(本件千葉大バナナ事件の被害者とされたものを含む)の一三株を持つているのに被告人はこれを否定し細菌学教室のがいつているのだろうと答え、同年三月、同講師が土屋技官からえた情報に基づき「二株は君が持つていつているそうだね」と問いただしたのに対し、それのみ肯定し、一三株全部を持つていつたことについては沈黙した。また、被告人が葛城病院に収容された後、福永講師に対し、もはや培養室に菌株の保存はないと明言したにもかかわらず、さらに多くの菌株が発見された。

(2) 捜査中の供述その真否がまさに問題なのではあるが、たとえば自白前に、伊藤由一に対してした注射について大要次のように供述している。すなわち、注射器に胆汁液入りの試験管から一cc吸いあげ、それを右腕に注射した。こんな方法をとつたのは、胆汁が空気にふれることによつて、胆汁内に入る雑菌が少なくなると思つたからで、これが成功すれば定説が生れると期待した、と(4.12員二四)。この供述は後に否定するのであるが、被告人がいい加減な供述をする一つの証左ともいえようか。

(3) 公判中の供述 捜査官の取調べぶりについての供述に誇張ときには虚偽と考えられるものが多く含まれていることについては前述した。

以上の諸点には、真相をいいそびれる事情が伏在したり、犯人として追いつめられた者の自己防衛的な虚言として割り引いて考えなければならぬものもあろうが、本件の全体をみるとき、被告人は医師として教養を積んだ者であるのに、自己の「言葉」に対する責任の乏しさがどうしても目立つのである。

(三) このようにして、被告人の供述には自発的なものか迎合的なものかはともかくとして、事実に反する供述が少なくないが、しかし虚言は虚言として、その背後には必ずや何らかの誘引、打算があつたはずであろ。被告人は、なぜ検察官に対し起訴状記載の犯行方法や人体実験目的のような不可解な供述を敢てしたのであろうか。その理由が明らかでないと、検察官の主張する追加訴因にそう司法警察員に対する自白(とくに直接穿刺に関する供述)が真実であると認定するのが困難になる。なるべく真実を暴かれたくない心理からというのでは、犯行方法に関する初期の供述が正しいということの説明とはならない。不平不満のはけ口を求めて無差別に菌をばらまくという人倫に反する行動であつたというより人体実験目的であつたというのが医師としてはまだしも自己の行動を美化できると考えたからであろうか。専門家として素人を翻弄してみる誘惑があつたのか、自白にさらしたくない他の問題を隠蔽したい理由があつたのか。しかし、これらについて検察官の説得力ある説明はついに与えられていないのである。

三 検察官は犯行方法や動機に関する被告人の供述に不信をいだきその主張を修正した。しかし、新たな主張を支えているのもやはり旧態の証拠、とくに被告人の捜査官に対する供述であることにかわりはない。だが、とくに検察官調書についてはその核心を占める犯行方法や動機に関する内容を否定するのであるから、残るところは被告人が犯行に出たというかなり抽象化された内容だけでしかない。したがつて、これらの調書は比喩的にいうと、双翼をもぎとられた鳥の如きものにもたとえられようか。そして、検察官はこの残存する供述からは被告人の犯行に真の動機というものはなく環境に対する不平不満によつて暴発した異常性格を原因とする犯行という、いわゆる異常性格論で再び体系化を試みるのである。

この異常性格論の当否についてはやがて説く。しかし、検察官の構成はどのように変ろうとも自白調書の内容はいわばアプリオリに特定している。もし、検察官が捨て去りあるいは疑いをもつた個所が他の個所と断絶できるならその他の個所のみの真否を判断すればおおむね足りる。しかし、全体が有機的に結合して相互に影響しあうものなら、たとえ検察官が捨て去つた個所であつても、それを無視して判断する方法をとることはできない。犯行方法や犯行動機などは犯罪の核心部分を形成するものであるから概して後の方法によつて解明が進められるのもやむをえない。当裁判所が各説において細かに犯行動機の点の検討を行なつたのは、このような見解に基づくものである。

四 いずれにしても、被告人の供述調書は全幅の信を措きうるものではない。とするならば、そのなかから虚実を選別するのは他の客観的証拠との照合以外にはない。しかし、本件で少なくとも警察段階の供述が、その後入念な取調を行なつてえた検察官段階の供述に比し、信ぴよう力が高いということを裏づけうる証拠は何もないといわざるをえない。単に前者のほうが菌量が多くなるとの理由だけでは、結果を自明と前提しての逆推にすぎず、犯行の有無、したがつて結果の存否が争われ明白でないときには恣意的な判断に陥るおそれがある。

第四 赤痢および腸チフスをめぐる医学

検察官の主張によれば、本件は被告人が赤痢菌・腸チフス菌という細菌を犯行の手段として赤痢・腸チフスを発症させたというのであり、これに対し弁護人は被告人の捜査官の自白を争い、かりに赤痢・腸チフスの発症があつたとしても、それは自然的な流行現象にすぎないとするのであるから、本件の解明には、被害者とされた者またはその周辺において赤痢あるいは腸チフスの発症がいかなる状況であつたかといういわば客観的側面と、被告人犯行を最も直接に示すものとされる自白が信用できるかといういわば主観的側面の双方に関し、つねに赤痢および腸チフスの病理、臨床(診断、治療)、検査、疫学的調査等の専門的知識に基づく十分な照明をあてる必要がある。そして、このために法廷には多くの資料が集められた。。ただここでその資料の全容をすべて明らかにすることはできないし、必要な点は個々的に言及するが共通する若干の基礎的事項について概括的に説明を加えておく。

A 病理と診断一般

一 赤痢

(一) 細菌性赤痢は赤痢菌の経口感染により大腸粘膜のおかされる局所性の急性伝染病である(法定伝染病)。

赤痢菌は非運動性のグラム陰性の桿菌でA群(志賀菌等)、B群(フレキシネル菌)、C群(ボイド菌)、D群(ソンネ菌)の四群に分けられその中にもまたいろいろな型がある。この菌型の分布は時と所とによつて異り、わが国ではA群は姿を消し、B群が最も多く、ついでD群となつていたが、最近の傾向はB群が減り、その反対にD群が増加しつつある。一般にB群による赤痢よりD群のそれは軽症であるといわれている。

(二) 赤痢の発症は一般に全身倦怠・頭重感などを伴う発熱で始まるが悪寒、まれに悪寒戦慄が先駆する。ついで特有な症状として粘液・血液または膿を混じた頻回の下痢・腹痛・しぶりはら(テネスムス・裏急後重)をきたす。患者の定型的な熱型は、最初三九度以上の高熱が出るが、全く発熱しないのもある。下痢回数は一日二、三回から五〇〜六〇回、ときには一〇〇回以上におよぶ。――もつとも、以上の説明は典型的な赤痢の症状である。ところが、近年赤痢は軽症化し、最近わが国で発病の多いフレキシネル菌、ソンネ菌による赤痢ではこの傾向が目立つとされている。

(三) 赤痢の診断は菌の検出によるのが決定的であるが、つねに菌が陽性に出るとは限らないので上記の臨床的症状によることもあるが、軽症赤痢と単純大腸炎や腸炎ビブリオとの鑑別は困難であるとされている。

赤痢菌は腸管内だけに存し、血管内に入ることがないので、菌の検査は腸チフス等と違つて血液から検出することはできず、もつぱら糞便から培養検出する。

(四) 治療にはかつてサルファ剤もきき目があつたが、そのうちにほとんどの赤痢菌がこれに対し耐性をもつようになつた。そこで、抗生物質のクロラムフエニコール(クロマイ)、テトラサイクリン(TC)ストレプトマイシン(SM)が効果的であつたが、最近は以上四剤の耐性をもつ赤痢菌も出現しており、このためカナマイシンが有効なものとして用いられている。

二 腸チフス

(一) 腸チフスは、腸チフス菌の感染によつておこる伝染病である(法定伝染病)。腸チフス菌は口腔を経て小腸内のリンパ装置、すなわち小腸の孤在濾胞およびパイエル板から侵入し、ついでこれからリンパ管を介してリンパ節を侵し、さらに胸管を経て血行内に入り身体各部(脾臓、肝臓、骨髄、肺、胆のうなど)に伝播する。このようにして、腸チフスは主として消化器のリンパ組織に特異な病変を生じ、菌血症を伴う全身性の感染症である。

腸チフス菌はパラチフスその他多くの食中毒の病原菌とともにサルモネラ属を構成する運動性のグラム陰性桿菌であるが、現在九二位のファージタイプに分類できている。わが国では国立予研だけがこのタイピングを行なつている。ファージタイプからみたわが国の腸チフスはD2、E1、M1などが主なものといわれる。

(二) 腸チフスの発病後の症状は次のように説明されている。

前駆症状として多くは全身倦怠、不快、、食欲不振、頭痛・四肢疼痛(関節痛)、便秘などを訴える。発病後の経過は典型的な場合次のとおりで、治るまで約四週間を要する。

第一病週 熱は階段状に日日高くなり、四〇度前後になる。全身倦怠等上記の症状はその度を加え、口内、口唇は乾燥する。後半頃から脾臓が腫張し、脈博は熱の割りには少ないが重複脈を示す。

第二病週 熱が四〇度位の高熱に稽留する。腹部膨満し、脾腫は最大となり肝臓も肥大する。舌は褐色の舌苔におおわれ、脈博は普通一〇〇をこえることはない。難聴をきたし、特有のチフス顔貌(心神昏蒙して無欲状)を呈する。バラ疹(ロゼオラ)もこの期に最もよく現われる。白血球の減少、好酸球の欠如をきたし、また尿ジアゾ反応が陽性となる。

第三病週 熱は弛張しはじめ(一日の動揺が一度以上のものを弛張熱という)、次第に低下する。バラ疹は消失する。

第四病週 回復期に入り平熱となる。

以上は典型的な場合のことであるが、菌の量や毒力の相違、患者の抵抗力・免疫の程度、合併症の有無等から様々な臨床像を呈する。とくに、クロマイの使用は病気の全経過を大きく短縮する(クロマイ投与後の平均有熱期間は4.1日といわれている。治療されないときは14.6日。)

(三)(1) 腸チフスの臨床診断には上述の熱型その他特有の症状や血液・尿検査などに注目することのほか、ヴイダール反応によるテストが用いられる。その原理についての詳細な説明は省略するが、要するに、腸チフス菌はH抗原、O抗原、ⅵ抗原をもつており、これらの抗原は患者にそれぞれ特有の抗体を作らせるので、検査対象者の血清からその存在をヴイダール反応と呼ばれる疑集反応によつて抗体価を知り腸チフスの診断に利用するものである。そして、H抗体とO抗体の測定は患者の診断に、ⅵ抗体の測定は主として保菌者の診断に用いられるが、H抗体のほうはO抗体のほうほど診断用として価値はないといわれている。このヴイダール反応は平均第二病週以降になると出現し、O抗体価は一六〇倍以上、ⅵ抗体価は二〇倍以上が陽性とする向きもある(各説においてヴイダール反応「何倍」と表示する場合は特にことわらない限りO抗体価を示すものとする)。しかし、ヴイダール反応の腸チフス診断における意義についてはいろいろ議論があり、抗体価の数値自体よりも経過中に再三検査し抗体価が上昇する過程をみることが大切であること、抗体価は予防接種によつて人為的に上昇させうること、クロマイの使用によつて抗体価の上昇が著明でなくなる場合があること、結果判定に主観が入り易いこと、などの諸点に照らし、あくまで腸チフス判定の補助的手段にすぎないことに留意しておかなければならない。

(2) 最も決定的な診断は菌検索によるものである。第一病週には血液の培養によつて、第三病週からは糞便、尿の培養によつて菌が証明される(なお、骨髄穿刺液、胆汁からの培養も行なわれる)。しかし、クロマイを投与すると菌検出は困難になる。

(3) 腸チフスを臨床的に早期診断するのは容易でないといわれている。往時は原因不明の熱性疾患はまず腸チフスを疑えと説かれていたが、この疾患の衰退に伴い(全国における届出のあつた発生件数は昭和二一年は四四、六五八件であつたが次第に減少し、昭和四〇年七八九件、昭和四一年八九三件。ちなみに昭和四六年二七六件)、この観念は近時とみに薄れてきており、早期発見がむずかしくなつている。その初期症状は風邪に類似し、またその後の経過も腎孟炎などとまぎらわしい。

(四) クロマイが腸チフスの特効薬である。その発見によつて致命率は激減し、劇的な症状の緩解をもたらしている。その反面、自然治癒の場合より免疫抗体の産生が低下するため再発率が高くなりまた完治しないまま治療をおわる場合があることから、保菌者を多くしているといわれる。適量のクロマイを投与すると、大部分は三〜五日で下熱するが、再発を防止するためにはさらに一定期間の投与を続ける必要がある。なお、腸チフスは終生免疫があり、再感染はありえないといわれたこともあつたが、再発の場合とほぼ同様の理由で再感染のありうることは理論的に承認され、実験的にも証明されている。

B 発症率および潜伏期

赤痢・腸チフスなど細菌の人体への侵入によつておこる感染症においてその発症の有無(発症率)および発症までの期間(潜状期)は病原菌の性質、感染発症の病理が異るに従い各疾病ごと必ずしも一様ではないが、同一種類の疾病においては概して一定しており、ただ、宿主である人体側の条件、すなわち感受性と、病原菌側の条件、すなわち病原性、なかでも、その量および毒力(ウイルレンス)とに左右されるものと解されている。

一 赤痢

(一) 赤痢は局所性感染症であつて、その潜状期は従来二ないし七日といわれることかがあるが、臨床経験によると一ないし三日と考えて妨げないとされる(小張一峰「急性感染症の臨床」、谷茂岡証言)。そして臨床的にみても最も短かい潜状期としては一七時間(小張上掲)、一四または一五時間(鈴木義雄鑑定)の例などが報告されている。

菌量や毒力との関係は実験によるしか確認の方法がないので、これを一べつする。

(1) 古屋、小酒井の人体実験――ソンネ菌使用。106〜107個の菌を肛門から注入した場合、一八ないし二四時間頃から便が血性を帯び軽微なテネスムスが現われたが発熱はなかつた。104〜105個では臨床的な異常は認められなかつた(符五六一。一九五六年発表)。

(2) ショーネシイらの人体実験――フレキシネル菌使用。(イ)ミルクとともに経口投与した場合、108個では軽い頭痛・腹痛・倦怠感を除けば定型的発症はなく、109個では四名中一名が二日後に四回の水様便排泄、1010個では四名中二名が激しい頭痛と軽い腹痛、四日目に二回の水様便。(ロ)水とともに投与した場合、109個の投与で四名中三名が腹痛、うち二名は頻回の下痢をおこした、この腹痛は投与後数時間ではじまつた。結論として十分な量の生菌を経口投与すれば通常は一二時間以内に自覚症状があらわれはじめ、下痢は一八ないし二四時間から始まるとされている(符五六〇。一九四六年発表)。

(3) 本庄重男らのカニクイザルによる実験――(a)フレキシネル2a菌使用。109個をカテーテルによつて直接胃に菌注入した場合、普通飼育の四〇頭のサルのうち二六頭発症(発症率六〇%)、潜伏期は一ないし四日(平均2.5日)。106個では軟便や菌は出るものの典型的な発症はない。(b)ソンネ菌使用。109個を(a)と同様注入した場合、発症率は四〇%に下るが、潜伏期は変らない。(c)その他攻撃方法を変えたことによつても一二時間以内の発症例は見られなかつた。(d)そして、赤痢感染の成立に必要な最低菌量は105個程度であろう、という(本庄証言、符四六一、符四六二。一九六四〜一九七一年発表)。

ちなみに、猿と人とは一般に体重に差があり、赤痢に関し猿は人と異り固有宿主ではない等の差があるので、猿による実験結果が人の場合にどれほど妥当するか確定は困難であろうが、本庄らが指摘するように少なくともかなりの近似値がえられると考えて妨げないであろう。

(4) 毒力の関係

赤痢菌の毒力は、かつては猿に摂取させた場合の症状の変化によつて測定されていたが、近時は(a)兎の腸管結索法(b)モルモットの角膜炎法(c)培養細胞法の三方法も行なわれている。国立予研中村明子技官らが右三方法を用い細胞内での菌の増殖の有無をもつて毒力判定の基準として実験を試みた結果では、いわゆる新鮮分離菌(体内から排出されたそのままの菌)が最も毒力が強いことのほか、フレキシネル菌の場合、実験室内保存の培地植え継ぎ菌は殆んど病原性がないこと、菌保存のためには四週間以内に植え継がなければならないが、植え継ぎによつて毒力は次第に低下し、継代数が八代以上にもなると毒力は分離当初の百分の一以下になることが現象的に明らかにされている。他方、ソンネ菌も時間の経過によつて一相菌から病原性のない二相菌に変化する傾向が著明であるという。もつとも、このような結果は実験上のものであるから、社会事象としては、たとえば八代継代のものでも病原性をもつ可能性はありうるが、継代によつて毒力・病原性が低下していくことは否定できないと思われる。

(二) 以上の考察からすると、ある赤痢の発症を人為的なものと断定するにあたつては、赤痢菌の摂取時から発症までを潜伏期と考え、これに相応する菌量の投与があつたか、また菌が発症に至らしめうる毒力をもつ保存状態にあつたか等の検討が肝要であることがわかる。

二 腸チフス

(一)(1) 腸チフスは全身性の感染症であるからその潜伏期は比較的長い。発病時をどの時点とするかは問題であるが、継続的発熱のはじまつた時と解してよい。それまでの潜伏期は経験的には七〜一四日を通常とし、例外的に二日または三日の例があり、また一カ月に及ぶこともあるといわれている。相当短い潜伏期の臨床例としては、昭和二四年一一月豊島病院における集団発生があげられる。これは日本伝染病学会雑誌二四巻一一――一二号に「腸チフスの一集団発生について」と題して登載されているもので同病院内でインターン生らが喫食したコロッケ等を推定感染源とするのであるが、喫食後七日以内発症者が一二名(二日目三名、三日目三名など)であり、その後発症者を含め発症率は五〇%位であつたという。これは潜伏期二日というきわめて特異な実例を提供するものなのであるが、しかし、右の調査等に関与した鈴木義雄鑑定人によれば、このケースは、某インターン生の犯行による疑いが生じ捜査の対象とされたものの、発症者のなかにコロッケ等の喫食を否定する者がいて捜査は打ち切られた事情があるようである。したがつて、弁護人はコロッケ等が感染源であつたとみる根拠は薄いと主張している。なお、外国における流行調査例として弁護人から提出のあつた資料によれば(イ)一九六三年ツエルマットにおける上水道の汚染によるものの最短潜伏期は四日で、平均一六ないし一八日とされ(符五五六)、(ロ)一九五〇年エジプトにおける二次感染によるものの最短潜伏期は五日、大部分は約一週間であつたとされている(符五五七)。

(2) 菌量と潜伏期および発症率の関係を調べた実験例としては弁護人援用の(イ)グライスマンらが109個の腸チフス菌を人に投与したところ九日目に発症した例(符五五九。一九六一年発表)、(ロ)エドサールらがチンパンジーに109個以上の菌(TY2株)を経口投与したところ二五頭中一九頭が発症し、大部分は四日から一〇日間で発症した例(符五五八。一九六〇年発表)もあるが、(ハ)最も有力な実験例は、メリーランド大学医学部伝染病学科教授(来日当時までは助教授)ホーニックらが囚人の中から希望者を募つて行なつた人体実験であろう。その結果は次表1、2のとおりである。

1―菌量と発症

チフス菌

生菌数

投与者数

発症者(率)

潜伏期

(注)

クワイルス

株使用

中央価

範囲

109

42

40(95%)

5

3―32

108

9

40(89%)

107

32

16(50%)

7.5

4―56

105

116

32(28%)

9

6―33

103

14

0(-)

2―各チフス菌株による発症率(約10

7

個の攻撃菌量での毒力に関するⅤⅰ抗原の効果)

人間毒力

発症

感染

感染なし

クワイルス

16/30

12/30

2/30

ツエルマット

6/11

4/11

1/11

TY2V

2/6

3/6

1/6

計(ⅵ(+)株)

24/47(51%)

19/47

4/47(9.7%)

0―901

6/20

6/20

8/20

TY2W

4/19

10/19

5/19

計(ⅵ(-)株)

10/39(39%)

16/39(41%)

13/39(33%)

右各表は一九七〇年の論文(「腸チフス・病因と免疫学的予防」)から引用したものである。同教授は、これより前の一九六七年(昭和四二年)来日し、四月一二日疫学研究会において講演を行なつたがその内容は厚生省寺松技官によつて防疫情報四七六号(「実験的腸チフス」―ホーニック博士の講演から)で紹介されている。前記論文と右講演の内容はほぼ同趣旨であるが、菌量が多くなれば潜伏期は短かくなるが、菌量による臨床症状の差異はなく嘔吐、嘔気、とくに下痢症状はいずれの例でも認めることはできなかつた、とされている。

なお、ホーニック教授の実験に関し若干の参考事項を掲げておく。

(a) 前記疫学研究会において中谷林太郎博士の質問に対しホーニック教授は「投与菌が多量であつても自分らの実験では食中毒様の症状は呈しなかつたが、可能性としては否定できない。」と答えたという。

(b) 寺松技官は前記防疫情報中の紹介において「一般にいうならば、食品を介しての感染である場合、菌量108、109、少なくとも107であろうから少なくとも半分以上、場合によつてはほぼ全員が発病することがわかる。一方、水を介して感染した場合、おそらく105以下であろうから、その際は発病率はぐんと低く三〇%以下であると考えてよいと思われる。」とコメントを付している。(一般に食品感染と水系感染とでは潜伏期に長短があることも斯界の常識となつている。)

(3) 毒力の関係 腸チフス菌の毒力については菌株の種類によつて異り、とくにⅵ抗原の有無が重要な関係をもつといわれる。しかるに、腸チフスについては赤痢の場合のように動物実験ができないため不明の点が多いが、前掲ホーニック教授の人体実験では、表2において各種菌株の毒力の比較、ⅵ抗原の有無による比較がなされている。ところで、同表には、記載を省略したが、なお人間に対す毒力のほかマウス毒力があげられておりこれによるとクワイルス株のマウス毒力はツエルマット株のそれより約一、〇〇〇倍低いことになつている。そこで、検察官は、ホーニック教授が前表1で用いたのはクワイルス株であつて、その毒力はさほど強くないとみられるとして、同教授の実験結果を本件にそのままあてはめるわけにはいかないと主張した。これに対し、弁護人はマウス毒力と人間毒力とは関係ないものであり、現に人に対する発症率は両株ほとんど差異はなく、ホーニック教授が表1の実験に用いたクワイルス株はごく平均的な毒力をもつ菌株と推定されると反論した。後に述べるとおり、毒力の関係は発症率に重要なかかわり合いをもつのであるが、いずれにしても本件の菌株は右の両株と異るものであるから、裁判所としては菌量と発症率が実験の結果表1、2のようなものであつたことをそのまま受けとめて本件の解明に資するほかはない。

なお、推定ではあるが、腸チフス菌も赤痢菌と同様、保存状態、時間の経過および継代によつて毒力の低下を来たすものと思われる。

ちなみに、本件の鑑定を依頼した善養寺鑑定人は、昭和一〇年代に腸チフス菌の凝集反応を見ていた際、あやまつて生菌をピペットから吸いこんでしまつたところ、六日目に腸チフスに罹患したとの体験を明らかにした。このときの菌は保存菌で、正確にはわからないがかなりの菌量が入つていると思われる旨述べている。

(二)(1) 以上の考察からすると、腸チフスの潜伏期は他の諸条件の関係もあるが、概していえば109個の菌量の場合、ほぼ三日が標準的限界ではないかと考えられる。それでは投与する菌量が109個を超える場合どうなるか。ホーニックの実験では109個を超える場合は試みられていない。前掲エドサールのチンパンジーに対する実験では「二五九三株」で1011個の例があるが、観察例が少なく参考価値に乏しい。(不顕性例すら出ている。)しかしこの点は別にしても、もともと腸チフス菌を人体に投与するにしても投与方法の制約があるし、他方腸チフスが全身性の感染症である以上、病理上の限界も考えなければならない。したがつて、潜伏期二日というのはありえないか、きわめて稀な事例、一日というのは現代医学ではありえないことと解釈されるのではあるまいか。

(2) しかし、この関係で注目すべきものとして高橋貞三郎に対する殺人・同未遂被告事件(第一審浦和地裁昭和一三年七月四日判決、控訴上告を経て死刑確定)がある。

同事件は医師であつた右同人が腸チフス菌を使用して殺人または同未遂の犯行を五たびにわたつて行なつたものであるが、そのうちの柳田昌雄の家族に対する関係は次の如きものである。

「右同人は、昭和一一年一一月二二日柳田昌雄の家族に対し、一箱五〇個入りの君衣(小型栗まんじゆう様の菓子)表面に自己培養の腸チフス菌を塗布、上野松坂屋支店から翌二三日頃配達到着させ昌雄の妻ヨ子および房子ほか四名計六名を同月二七日頃から二九日頃までに(第一審では二八日頃から三〇日頃までに)腸チフスに罹患させた。」

第一、二審の判決文によると、汚染された君衣の喫食日は認定されていない。しかし、挙示された証拠中の柳田昌雄に対する予審調書では、房子以外の者は二七日頃の夕方、房子は二八日頃の夕方に食したというのであり、いずれもほぼ喫食当日から翌日昼までに発病したことになつている。この件で高橋が使用したのは、一白金耳分位の菌を一〇グラムの水道水に混攪した菌液であることから、君衣に塗布した当時の菌数の推定はほぼ可能である。また、この菌は昭和九年七、八月頃から培養を継続してきたものとされている。この腸チフス菌(予審判事による秋葉朝一郎に対する証人尋問調書によれば腸チフス菌であることは間違いないとされている)をもつて上記のような発症を呈したとすれば、さきに述べた医学上の定説をくつがえすに足るものであるが、第一に、一、二審とも喫食日を認定しておらず、果して柳田昌雄のいうとおりであるか確定しがたいこと、第二に、高橋は同じ年の三月に塚田方、六月に小野診療所従業員ら、一〇月に妻、一一月に同愛記念病院医局員らにもそれぞれ同様の腸チフス菌入りの食品を喫食させていて、これらの潜伏期はほぼ三日以上と推定されるのに、柳田方のみ特別早く発病した理由が果してあつたのかどうかはわからないこと、などからして、この事例を本件に適用するにはいささか躊躇せざるをえない。ただこの高橋事件における菌株は約二年間培養を継続してきたものとされ、しかも大量の腸チフスを発症させえたのであるから、継代培養による腸チフス菌であつても相当の毒力を保存せしめることができるといわなければならない。もつとも、その保存がどのように行なわれていたかは必ずしも明らかではない。

なお、ホーニックの実験例その他人体実験や動物実験については次のような指摘がある。

「ある外国の某所ではチフス菌をヒトに飲ませる実験が、かなり大々的におこなわれている。また……実験的にサルに赤痢菌をのませることも多くおこなわれた。しかしそれらの成績で注目すべきことは、感染、発病の成立が予想外に困難であることである。なるほど発病させることは可能であつても、それに要する投与菌数はとてつもなく大量であることがむしろふつうであつた。……実際に(自然界で)感受性のある動物が、なぜ実験的に罹りにくいか、そこには考えられるいろいろのことが、宿主の側にも、病原体の側にもあるであろうが、究極にはもう一つ不明のヴェールを除くことができない現状のようである。」(牛場大蔵「感染と免疫」一〇〇頁、初版が一九六五年=昭和四〇年であるからホーニックの実験より前の記述と思われる)。

したがつて、高橋貞三郎の事件で潜伏期が一日内であることも、あるいは真実なのかも知れない。科学的には未知の分野であつても経験的に認識可能としてよいことがある。そして、医学上の進歩は実験と臨床上の経験と相互の切磋の累積・統合によつて進められてきたし、今後も進められていくべきものであるからである。しかし、刑事裁判における事実認定としては医学的にほぼ確立された規準を超えることは、その然るべき根拠を与える十分な証拠の質と量を必要としよう。そうでなければ法律家の独断になる。経験を無視するのでもなく、単純な不可知論をとるわけではないが、現代の科学の達した知識を指標としつつ事案を解明することが本件の如き特殊なケースには必要不可欠であろうと信ずる。問題はその規準の把握のしかたであるが、学問上のある説が「定説」として評価されているものはもちろんのこと、かりにそこまでに至つていないものでも、国内または国際的専門家集団において高い評価が与えられ、学問的貢献をしていると認められるものに対しては、裁判所として十分な敬意を払うべきものと思料する。すでにあげたホーニックの実験などは一つの実験にとどまり、決して定説ではないであろう。しかしその実験は高く評価されていると思料され、いまこれを超える実験例はない。これを貴重な参考資料とすべきは当然である。

なお、関連して一言するに、当裁判所は本件の審理を通じ、多くの科学的資料に接し、また数々の鑑定を求め、現代医学の最高のレベルに接近したいと試みた。そして、判決の全編を通じ、権威ある専門家の所説を重視した。しかし、それは決して科学や鑑定に埋没したわけではない。信頼できる直接証拠の乏しい本件では、まさに客観的精神に則る事実認定の方法と考えたからである。もとより、学問は日々進歩をつづけている。採用した学理が将来あるいは揚棄されるものがないとは保しがたいかも知れないが、それまでの予測を強いることは、おそらく裁判の能力を超えることである。

C 菌量の鑑定

一 前述のとおり赤痢および腸チフスの発症と潜状期は感受性と病原性(毒力・菌量等)に左右される。そのうち感受性や毒力に対する研究はなお将来に期待しなければならないことが多いが、これにくらべ菌量の測定に関する技術はほぼ完成している。もとより、その実施には各種の困難が横たわつているが、そのなかで、本件犯行方法を対象として行なつた次の資料が法廷に提出された。

(1) 千葉衛研作成の実験結果(七通)これは県警本部から捜査中に同衛研に対し実験依頼をしたもので、その内容等は実施担当者の一人池田武夫(当時衛研細菌室長)によつて補充された。(ⅰ)硫酸マグネシューム (ⅱ)カステラに赤痢菌を付着させた場合、(ⅲ)カルピス (ⅳ)アリナミン・グロンサン注射液 (ⅴ)バナナ (ⅵ)みかん (ⅶ)焼蛤に腸チフス菌を付着させた場合の各菌の生存、増殖状況を実験したものである。

これは捜査時に、火急な要請のもとになされたため実験依頼事項が概括的でとくに条件設定が厳密さを欠いていたことや、時間的制約、人的物的態勢の不備等もあつたのであろうが、その精度は必ずしも高いとは認められない。とくに、食品等に接種した当時の菌数の正確な定量がなされておらず、その後の検出菌数も大部分が卅、廿、十、一などと半定量的な表現にとどまつていること、ときに定量的に表現されているものでも成績の変動が激しすぎること、などを指摘して弁護人は科学的評価を著しく低くするものだと主張し、国立予研坂崎利一博士もかなりの不信感ををもつと述べている。当裁判所の関心事は、検察官主張の犯行態様によつて果してその主張の時期にその主張のような発症がありうるかということであるので、食品等に接種した菌量とその消長が数量をもつて概算されない限り本件の認定に当り参考とする価値はほとんどないと考える。

(2) 中谷鑑定 これは弁護人の請求により、裁判所において訴因ないし検察官の冒頭陳述に基礎をおいた条件を設定し、各場合における生菌数の鑑定を求めたものである。鑑定人中谷林太郎は国立予研勤務を経て国立公衆衛生院衛生微生物学部長を歴任した斯界の権威者の一人であり、その鑑定結果およびこれを補充した公判廷の供述は信頼するに足りる。検察官は善養寺鑑定書と比較して精度を云々するが(論告要旨六五頁)、その多くは誤解に基づく立論としか思われないので、あえて詳言を避ける(弁論要旨下五一八頁以下参照)。

(3) 善養寺鑑定 これは中谷鑑定の取調後、検察官が、本件は細菌という極小世界を問題とする特異事件であるから実験上些細な取扱の相違によつて菌量の判定が著しい変化をもたらすことがありうる、として中谷鑑定と同一事項の再鑑定を求めるとともに、後に訴因変更を行なつた態様による細菌付着の方法による場合の生菌数の鑑定を求め裁判所が採用したものである。鑑定人善養寺浩は都衛研細菌部長で、鑑定補助者である坂井千三博士もともに斯界の権威者の一人というに妨げなく、その鑑定結果ならびにその内容を補充した公判準備における各供述と併せ、十分な信頼を措くべきものである。

(4) 桑原鑑定 これは善養寺鑑定が試みられている途中、検察官が独自に東邦大学理事長桑原章吾に鑑定嘱託をした結果のものである。鑑定嘱託事項は主として赤痢菌をカステラに滴下した場合の生菌数を求めるに主眼がおかれたはずであつたが、全体として未完成で、検察官主張の犯行方法によるカステラ汚染の場合の菌量は示されておらず、その他前掲中谷、善養寺鑑定の結果を支持こそすれ否定するものではなかつた。

二(一) 以上述べたところから、当裁判所は各説において菌量の検討をなすにあたつては中谷、善養寺両鑑定を基礎とする。両鑑定とも鑑定人の適切な指導のもとに国立公衆衛生院(中谷鑑定の場合)、都衛研(善養寺鑑定の場合)各関係者の力を結集して実施されたもので、わが国のこの種実験では現段階においてこれ以上の精度は望むべくもないところと考えられる。両鑑定とも使用した菌株の種類白金線(後述(二)参照)接種対象等は可及的に本件訴因にあげられたもの自体またはこれに近似させてある。鑑定内容は、

(イ) 検察官主張の犯行方法で接種対象たる食品等にどの程度の菌量が入りうるか、(ロ)その菌量の消長、および(ハ)カステラ事件において主張されているような条件・方法で小豆大のカステラ片から検出される赤痢菌数、の三点に大別される。

(a) まず中谷鑑定できわめて重視すべき実験結果として出たところは、当初訴因による方法(菌液穿刺)を前提とする条件のもとでは、バナナ肉質部・ミカンから検出されたチフス菌数、あるいはカステラから検出された赤痢菌数は腸チフスあるいは赤痢を発症させるに足るほどのものではなかつたこと、および右の(ハ)の点に関し、カステラ片から検出されうる菌数はゼロ(五以下)で、直接培養で検出されるようなものではない、ということであつた。

(b) 次に善養寺鑑定では、後日追加された訴因による方法(主として直接穿刺)は当初訴因による方法(主として菌液穿刺)よりも大量の菌が検出されることが明らかにされた。そして、とくに注目すべきこととして、カステラにおいては赤痢菌をふりかけた直後すでに著明な減少傾向を示したことであつた。

(c) なお、当初訴因について両鑑定を比較すると、中谷鑑定よりも善養寺鑑定による結果が約一〇倍程度多く菌を検出している場合が多い。これは、おもに白金線でかきとる手技の相違によるものと思料される。そこで、裁判所としては各説での検討にあたつては両鑑定のうち、菌数の多く出たものを中心にして潜伏期・発症率を考えることにした。

これらの詳細については各説で詳しくふれるが、両鑑定の結果は検察官の主張の大幅な変更をもたらさざるをえなかつたのであるし、被告人の自供のままでは赤痢ないし腸チフスの発症をみるには不可能か至難なのではないかという重大な疑惑に直面させた。いずれにせよ、多くの障害を克服してなされたこの両鑑定の結果は尊重に値するものである。

(二) 白金棒と白金線

被告人は、培地から菌を削り、あるいは菌を食品等に穿刺するについては多くの場合「白金棒」(符九と同種のもの)を用いたと述べている。これは通常の用語例にしたがえば「白金線」の範疇に属するものであるので、中谷鑑定、善養寺鑑定では符九の「白金線」を白金線と表示してある。判決文でも、とくにことわらない限り白金線、白金棒は、この符九と同種のものをいうものとする。

なお、両鑑定を依頼するにあたつては、鑑定事項に、一白金耳分の菌液(二〇cc)内の生菌数の算定をも含ませたが、本件訴因および証拠の関係からは特段に必要があるものとはならなかつたので、各説においてその結果については言及していない。

D 疫学との関係

疫学は集団現象としての疾病を研究する学問である。はじめ疾病は伝染病の範囲にかぎられていたが、その後疫学の対象は疾病多発の諸場合に拡大され、さらには災害の場合などにまで及んでいる。ただし、本件では疫学の内容は原初的な伝染病の関係に限定して理解することで足りよう。

一 疫学調査の意味

(一) 伝染病における疫学調査の目的は流行の実態を知り、その原因を探究して効果的な防疫対策を樹立することにあると考えられるが、その最も中核となるものは流行原因(とくに感染源)の追求である。その順序を系統だてていえば、(イ)まず、問題となつている流行像を的確に把握し、(ロ)これと最も相関度の高い要因を選出し、(ハ)そこから共通因子を発見して、(ニ)流行発生のメカニズム(機序)に関する仮説を設定し、ついで(ホ)実験あるいは野外調査によつて仮説の験証・効果判定をする、と要約できるであろう(平山・「疫学」七八頁、一六七頁、「疫学調査」一五頁)。このような疫学調査は、ときに「謎ときの手法」と呼ばれたりする。要するに証拠による推理の一場合である。したがつて、捜査や裁判における事実認定の作業と本質的に異るものではない。しかし、そこで専門的な視角からの検討を経た調査項目・調査順序・解析方法や確立された法則的事項は、本件のような訴訟事件の処理上貴重な準拠を与えるであろう。もつとも、疫学調査は主として自然的流行の場合を射程範囲においているので、本件のような人為的流行が問題とされ、かつ捜査の手続がとられたケースでは、それが生まの形で活用されるわけではないことを知らなければならない。その相異点を二つほど明らかにしておく。

(二) 疫学調査と刑事裁判における証明――目的の相異

(1) 伝染病に関する疫学調査は、いわば「流行の攻略」が主眼であつて、流行原因の確定を唯一の目的とするものではない。したがつて、その確定を断念し、あるいは後日に廻しても、速かな流行の根絶が図られれば当面の目的は達せられたとしてよい場合がある。いいかえれば流行原因はおおまかな推定で足りたり数個の原因を仮定したりすること(多因論)も許されよう。これに反し、捜査や事実認定は犯人の確定あるいは訴因事実の有無の認定を厳密に立証しなければならないものである。この点は、いわゆる「疫学的因果関係論」の評価と関係してくる。

(2) 近時、いわゆる公害訴訟の場において「疫学的因果関係」なる概念が提唱され、あるいは因果論に蓋然性を導入すべしとする傾向も強い。それは公害の私法的救済にあたつて因果関係証明の困難性を緩和する試みである。もともと、因果関係とは自然的因果関係の謂にほかならず、「疫学的」因果関係といつても、それは因果関係証明の一つの方法論をあらわしたものにすぎない。ふつう因果法則の最も確実な認識方法は実験による再現可能なことだといわれているが、公害などの場合、実験による再現はほとんど不可能であるから疫学(統計学・生態学的観察による)によつてえられた結果をもつてこれに代替させ因果関係を論定しようとするものである。問題はその精度にある。あえて実験を試みなくても、疫学上の手法によりそれと同じ精度をもつて因果関係が確認されるならば、それは決して緩和された証明ではない。ただ、民事訴訟においては、証明は証拠の優越で足りるとされ、また立証負担の分配が説かれるのであり、なかんずく公害訴訟においては被害者側に過重な負担を負わしめるのは公平でないという見地から、前記の蓋然性説の導入やこれに匹敵するゆるやかな「疫学的因果関係」論が唱導されているやに観ぜられる。しかし、刑事裁判においては同一に論ずることはできず、因果関係もまた他の事実と同じく高度の蓋然性をもつて立証されなければならない。したがつて、民事裁判の現状における疫学的因果関係論を本件に持ち出すことについて弁護人が甚だ警戒的であるのはもつともである。しかし、検察官もまたこれを正面から主張してはいない。それゆえ、この点についてこれ以上深入りして論ずる必要はないと思われる。

なお、右の疫学的因果関係論は、原因探求の関係、すなわち、原因から結果を推論していく場面ではなく、むしろ原因の所在を結果から逆推する場面で重要性をもつと考えられるが、その点は本件でも軌を一にし、被告人が腸チフス菌等を投与したことと被害事実との結びつきを明らかにするというよりも、被告人が腸チフス菌等を投与した事実を確認できるかということが因果関係としての争点を形成している。ひとしく因果関係の問題といわれても、原因探求の関係の証明のほうがしぜん困難となりやすいが、もし、因果を律する精度の高い法則があれば、この困難はかなり克服される。ただ、すでに見たように、細菌学の分野はなお未知のものが少なくない。もちろん、細菌による発症の因果の連鎖のすべてが明らかにされる必要はないし、またある法則が専門領域において全く異論のない程確実に論証されている必要もない(この点については前掲B二(二)(2)参照)。裁判所は諸種の(次に述べる自供も含め)証拠の積重ねから自由な心証で因果関係を認定することが許される。ただ、それはいわゆる疫学的因果関係を超えなければならないこと上述のとおりである。しかし、逆に、疫学的にみても整合性を欠くという関係の場合は刑事訴訟法上の因果関係の証明があつたとはいいにくい場合が多くなるであろう。

(二) 疫学調査と自白――方法の相異

疫学調査において追求される感染源とは伝染の原因となる病原菌を保有し散布するもので、患者、保菌者、保菌動物等がこれにあたる。しかし、これら感染源とて、もともと病原菌を保有していたわけではなく、ある機会に病原菌の侵襲を受けたものである。いずれにしても、人が伝染病に感染するのは、病原菌が直接または間接に人体に侵入するからであるが、通常はこの侵入経路を直接にあるいは確実に知る者がいることはない。ただ、例外的に病原菌を管理できる者において意識的にまたは過失によつてこれを侵入せしめた場合が別に考えられるだけである。したがつて、前者、すなわち疫学調査の通常の例ではこの侵入経路は、いわば語られることのない沈黙の道筋であつて、諸般の客観的資料から疫学を用いて追跡していく方法しかとりえないであろう(したがつて、疫学調査だけでは真の原因がつかめなかつた例が多い)。しかし、後者、すなわち人為的な侵入の例では語りうる者が現実に存するのであるから、真相発見への近道としてこの者の報告が重視されるのは当然である。この後者の場合、必ずしも犯罪に当るとは限らないが(たとえば自傷、許された人体実験)、もしその疑いがあつて捜査の対象となるならば捜査は該当当事者の報告、つまり自供を求めて活動するであろう。したがつて、自供がえられたときの裁判の事実認定は通例の疫学的手法による推理過程にとどまらない。疫学の成果と自供とが相ならんで原因究明に奉仕すべきものとなる。すなわち、(a)疫学調査は往々にして原因不明に陥ることが多いが、自供があればこれを加えて原因を求めることができ、一方、(b)自供は往々にして虚偽をまじえることが少なくないが、疫学はその誤りをただすことができる。しかるに、本件において概して検察官は前の立論をし、弁護人は後の立論を展開している。裁判所は自白に偏せず、疫学に偏せず、両者を統一して探求を進めていきたい。

ともあれ、これらの論旨に即し本件に疫学の照明をあてることは不可欠である。個々の解明は各説にゆずり、ここでは流行原因追求に用いられる疫学上のいくつかの技術的事項に言及しておく。

二 疫学の技術的事項

訴因指摘の本件各被害を疫学的に翻案すれば、その罹患形態は、被告人の手による共通経路感染が大部分を占め、しかもその殆んどは単一暴露(富川方の一名のみ二次感染)だということになる。

(1) 暴露日 暴露日とは病原菌が人体に侵入した時をいう。食品による罹患の場合は喫食の日である。一般に、同種疾病の流行がある場合には、まず、できる限り疾病集団の全容を把握し、そして各患者の発病日を知り潜伏期を推定し、暴露日を算定する。そして、喫食調査等によつてこれを裏づけ、感染経路を求めることになるわけであるが、疾病集団に対する検病調査の完全を期することは困難であり、潜伏期のばらつきも少なくないので(前掲ホーニックの実験結果参照)、暴露日の推定も巾があるものとならざるをえない。本件の訴因では暴露日の主張自体は一応なされているし、これにそう証拠によつて不動のものもあるが、不明確なものもある(例、富川正雄方事件)。いずれについても、その主張の日をもつて真の暴露日といえるかは疫学的にも慎重な検討が必要である。

(2) 共通経路感染の決定 既に述べたように、感染経路を客観的資料から決定することは容易ではないが、自白があればこれを一応のめどにすることができる。しかし、この場合でもその信用性の吟味は不可欠である。一般に共通感染と認めうるには(イ)患者はすべてその共通食品をとつている、(ロ)患者と条件を同じくする健康者はその食品をとつていない、(ハ)その食品だけを取つた例外的な特殊事例(例外例)が発生している、の三条件をみたす必要があるといわれている。

(3) 地域集積性・家族集積性 患者が一定地域、一定家族に多く分布しているかどうかをみることは流行の性格や汚染物件の推定をするうえで重要である。本件における患者の発生が被告人との関係地域にみれらたと着目したことは広い意味では地域集積性の問題と考えられる。また、家族集積性の高いことは水系伝染よりも特定食品を介しての感染の場合の一特長にあげられている。

(4) 菌型、薬剤感受性値など (a)赤痢菌、腸チフス菌ともに細菌学的にいくつかのタイプに分類されるものであることはすでに述べた。流行が同型の菌によつて占められていることは共通経路感染の徴憑であり、逆に異型菌が混合していることは、感染源を異にしている公算が大きいと一応はいえるし、現に菌型ないしフアージタイプによる追跡で共通感染源をつきとめた成功例もあるようである。しかし、地方水系流行の場合は単一汚染から発生したときでも数型の菌の出現はありうるといわれるし、この点はともかくとして、近時わが国では、赤痢菌についてはフレキシネル菌に代わつてソンネ菌が優位となつており、腸チフス菌のフアージタイプとしてはD2型の発生が最も頻度が高いとされているので、この種のタイプのもつ追跡力は余り重視できない。本件で問題となつた腸チフス患者から分離された菌はすべてD2型であり、被告人が保存していた菌株もまたD2型ではあるが、右の意味で、すぐさま被告人の保存菌が本件発症の原因とされたと即断するわけにはいかない。(b)他方、薬剤感受性値も流行の共通性を知る手がかりとなる可能性はある。検察官は①国立予研所長中村敬三作成の昭和四一年六月一四日付「捜査関係事項照会書について(回答)」と題する書面と、②国立予研所長柳沢謙作成の「腸チフス菌株の再確認について(回答)」と題する書面とを比較し、被告人の保存菌と本件被害者らからの分離菌とはCP(3.13)にしても、TC(1.56)にしても感受性値がすべて一致していることは決して偶然ではないとする。しかし、符五五一の大橋技官の所見によれば、腸チフス菌の感受性値は、大部分(約九〇パーセント以上)がCPに対して3.13、TCに対して1.56の値を示しているということであり(なお、検察官は前記①②の各回答にある実験は、大橋技官がともに担当したものであるところ、同一事項の実験であるにもかかわらずSMの感受性値が両者で異つていて不可解とするが、後の回答内容は前のそれを補正したものとみて差し支えない。)、そうだとすれば現状ではこのような感受性値は感染源の追跡にさほど有意義なものとは思われない。

(5) 効果判定 流行調査の方法として、仮説的原因因子を除くことによつて当該疾患発生の変化を観察することが指摘されている(平山「疫学」一六七頁、マクマホン「疫学」三一頁)。被告人が原因因子を作出できる者であつたとしたら、その収容あるいは逮捕・勾留によつて影響は遮断されたはずである。しかるに、被告人が逮捕された後千葉、三島、御殿場、小田原各保健所管内における腸チフスの発生は皆無に近い(検察事務官大地数栄作成の昭和四七年九月一一日付「報告書」と題する書面)。さればこそ、検察官はこの事実は被告人原因説を裏づけるものだというのである。これに対し、弁護人は、逮捕以後でも昭和四一年四月以降一二月末までに千葉川鉄関係で一三名、千葉大関係で一九名の赤痢(疑似を含む)患者が届出されていると応酬し、その他の流行の終息は徹底的な防疫の結果だと反論しているところである(Ⅳ結言の所で判断する)。

第五 犯行動機、とくに性格異常論について

一 犯行の「動機」とは、犯人をして当該犯罪を実行させる契機となつた内心の情動である。動機は立証過程の種々の面で問題となる。構成要件の主観的要素(故意、目的、知情など)や責任能力、情状などの面で立証の対象となる場合が多いが、行為自体の面でも重要性をもつ場合がある。けだし、動機のない犯罪というものはありえないことではないが実際上甚だ稀れであるため、動機の存否によつて行為の存否を推認することになる。もちろん、動機は構成要件事実そのものではないから(このことは厳格な証明の対象とならないという趣旨ではない)、動機の確定がなくても犯罪の成立を認めることができる。しかし、首肯するに足る動機が――直接証拠たる自白によつても、間接証拠たる外部的諸情況によつても――証明されえないときは、行為の外形がよほど明確な状態にない限り、行為の存在に対し、合理的な疑いをもたらすこともありえよう。

本件は動機が行為の存否と関連して重要な争点となつている。

二 検察官がかつて主張した人体実験論や不平不満論は、その成否はともかくとして犯行動機の主張として格別異質なものではない。しかるに、論告において強調した性格異常論について、検察官は、これは犯行の原因として指摘するものであつて、実は本件には明確な動機といつたものはないと主張した。だが、この点については少しく検討を要する。

何よりもまず、これは、いわゆる悪性格をもつて犯罪行為を立証しようとするものではないかということである。弁護人はまさにそうだと指摘する。英米法では犯罪行為そのものの証明のために当人の悪性格を証拠として提出することは特殊の例外を除き一般的に許されないとの法則が樹立されており、わが最高裁判例も消極的姿勢を示しているやにうかがわれる(昭和二八・五・一二刑集七巻五号九八一頁)。もつとも、この法則は犯罪行為立証のため被告人の性格をおよそ考慮してはならぬとまでいつている趣旨ではないと解される。けだし、犯罪行為あるいは故意の立証のために動機が重要な働きを営むことを認めるとすれば、その動機は(自供がない限り)これを形成する原因事実から推認することになるが、この原因事実が犯人に対しどのような意味をもつものかは、個人差があつてその犯人の性格をぬきにしては考えられないからである。しかし、その原因事実を立証することなく、悪性格だけからストレートに犯罪行為や犯意を推認することは禁ぜられるべきであろう。また、かりにその原因事実の反応のしかたをみるためであつても、犯人の全生涯を暴露しなければならないような性格証拠の上程はつつしまれねばならない(その程度は裁判所が、個々の事案ごとに合理的に検討して必要な限度にとどめるべきである。当裁判所が被告人の多古中央病院における動静に関する検察官の証拠申請をすべて却つ下したのは、この点を考慮し争点の無用な拡大をおそれたからである)。

このような観点から、本件論告を考えてみる。そうすると、検察官のいう性格異常論は、詮ずるところ、被告人の本件犯行の動機を冒頭陳述のように人体実験論を主体にして理解するのは無理な点があると考え、しかも他に犯行を統一的に説明できる動機も見当らないが、さりとて、犯行が了解できないわけのものではないとして再構成を試みた所論と思料される。したがつて、検察官は被告人の性格異常をとりあげ、これをもつて行為自体を積極的に立証しようとするのではなく(これは、論告の全趣旨からうかがわれる。とくに論告要旨七丁裏〜九丁裏参照)、犯行を性格異常の一点に帰一させて体系化しようとするにすぎないものと解される。いいかえれば、被告人がもし本件犯行を犯したのが事実とすれば、まさにそれは異常性格の発露と評してはばかるところはないであろうが、逆に異常性格なるがゆえに犯行を犯したと推理するのは危険であり禁ぜられるところといわなければならず、検察官があえてこの禁を破つているとまで目する必要はない。検察官は被告人の犯行を疑いないとする立場から被告人の犯行心理を記述し、特段の動機はなくとも本件犯行は衝動的に行なわれたものとして理解すべきであるとの所論を展開したものとみるのがその趣旨に合致しよう。

したがつて、弁護人のように悪性格で犯行を立証しようとしているとの論駁とはかみ合わないわけであるが、しかし検察官は犯罪行為の立証方法としての動機の役割を軽視している感を免れない。本件公訴事実の如き犯行態様が何らかの動機なくして行なわれるとは到底考えられないからである。「衝動的」というのは第一に、いわゆる激情犯や責任無能力者の如き者の行為にあてはまるかも知れないが、本件はそれらと全く性質を異にしている。第二に、検察官の主張するところによれば被告人の犯罪実行には、細菌を食品に付着せしめることと、その食品を被害者に喫食せしめることとの二つの段階点でそれぞれ決意の飛躍的表動を要するはずのものであるが、そのいずれに際してもこれを抑止しようとする反対動機が全く生まれなかつた場合であるとは考えがたい。しかも、検察官は、通常は犯行動機の一つと考えてもよい不平不満論まで、そのいわゆる犯行原因説に解消させてしまつている。

したがつて、当裁判所としては、検察官の論告における立論にはとらわれることなく、犯行を立証しうる動機の有無を自白調書の内容を中心にして精査すべきものとする。

この場合、当裁判所は前述のような一定の制約のもとでは被告人の性格を全く無縁のものとは考えない。ところで、5.19員八によると、被告人は小学校時代、体操の時間中同級生の本をかくしたこと、高校一年のとき父がドブロクを密造していたのを税務署に密告したこと、千葉大受験失敗後お稲荷様の屋根をこわし、部落の南瓜や父愛用の万年青を切つたこと、山形の篠田病院にインターン生として在院していたころ同僚のラブレターの中身をとりかえたり、守衛の自転車や、内科部長の印鑑をかくしたりしたこと、多古中央病院に出張派遣されていた際、患者の診療録をかくし、フロを熱くし、時計の針をとめるなどの奇行をしたこと、家庭内において妻のネックレスや下着類をわざとちぎつてしまい、かえつて高い品を買わされてしまつたことなどを自認している(その他多古中央病院で薬品がなくなつたり、下痢患者に下剤をかけたとかが、被告人の所為として疑われたこともあつたが確証はない)。家庭内のことを除き、以上自認の諸事実や、いわゆる密告電話その他証拠に断片的にあらわれている被告人の行状をみるとき、被告人の性格は内攻的で嗜虐性があり、また物事に対する執着心が強く、心中に鬱積したものを晴らすため陰湿な手段を選ぶ傾向があるのは否定できないと考える。このような性格傾向は被告人の行動の評価にあたつて常識的な考察を許すものかの点にも意味をもつてくるが、本件動機を形成する基底的事情としていささかは考慮する。しかし、その性格だけから本件犯行に飛躍したと結びつけるものでないことは前述したとおりである。

Ⅲ各説――訴因の検討

第一  大林事件

一 大林忠雄の赤痢罹患の事実

大林忠雄は、川鉄検査課第二熱圧検査係に勤務していたが、普段から胃の具合が悪く、とくに夜間勤務に従事するような場合には胃痙攣・胸やけなどを起し、また下痢などしていた。その間、昭和三四年に十二指腸潰瘍で約三カ月入院し、昭和三九年一月には、千葉大付属病院で慢性胆のう炎の診断で約三カ月間治療をうけていた。そして同年八月五日、川鉄医務課で郡司昭男医師の診断で二カ月間昼間勤務に勤務制限されていた。

同年九月一〇日、大林は、午前六時頃から下痢するようになり、同年八月頃川鉄で集団赤痢が発生したことを知つて不安を覚え、川鉄医務課に検便を受けに行つた。その日は、郡司医師が不在で、被告人が大林を診察してから衛生検査技師石崎礼三に指示して大林の検便をさせるとともに、同人の勤務制限を解除した。そして翌日、保健婦今井博子を通じて大林に胆汁検査する旨伝えた。なお、検便の結果について石崎検査技師は後日赤痢菌がないと判定した。

同年九月一二日午前九時頃、大林は絶食して医務課に来て、遅れて出勤してきた被告人とともに同課レントゲン室に入り、同日午前九時三〇分頃、同室のレントゲン透視台に横たわつて、被告人が持参したリオンゾンデを約一時間くらいかかつて十二指腸内に飲みくだした。そこで被告人は、大林から胃液・胆汁(A胆汁)を吸引してゾンデが十二指腸内に入つたことを確認後、ゾンデを通して硫苦水(硫酸マグネシユウム二五パーセント水溶液)約四〇ccを大林に注入し、そして胆汁検査用の胆汁(B胆汁)を吸引した。

大林は、右胆汁採取をうけて後、勤務に就いた。ところが、同日午後二時三〇分ないし三時頃になつて急に腹が痛むような緩るむようになつてきたため、夜勤を断わつて、午後四時頃会社を出た。そして帰途国鉄蘇我駅前のパチンコ店に立ち寄つたが、同所で二、三回軟便をしたため午後五時二九分発の電車に乗るべく同駅ホームに急いだ。しかし階段の昇降もままならず、乗り遅れてしまつた。つぎの電車を待つ間二、三回下痢(水様便)をくりかえすなどしたが、どうにか午後六時一九分発の電車に乗車できた。しかし、腹痛・便意がこらえきれなくなつて、午後六時三〇分頃、国鉄千葉駅で途中下車し、便所にかけ込むなどするうち身動きができなくなつてホームにうずくまつてしまい、そこを鉄道公安官に助けられて、救急車で千葉県千葉市所在の柏戸病院に運び込まれた。

大林は、同病院で、症状から赤痢と診断され、同日午後九時頃、同市内の千葉市立葛城病院に収容され、葛城病院で検便の結果赤痢菌(ソンネ菌)が検出された。葛城病院での大林は、同日および翌一三日夜間までの二日間、粘血および膿便が頻数で、ベッドと便器の間を往復する状態であつたが、一三日夜半から次第に回復し、同月二一日同病院を退院した。

ところが、退院後自宅で静養中、数日して夜間高熱を発するようになり、前記柏戸病院に通院していたが、赤痢菌が排泄されたため、同年一〇月三日前記葛城病院に収容され、同月一二日に同病院を退院した。

二 自白の不合理性

(一) その変遷

被告人は、公判廷において、大林に対し、硫苦水を注入して胆汁検査をした事実は争わないが、硫苦水に赤痢菌を混入したことは絶対にない旨供述している。そして捜査官に対する自白は次のように変転している。

最初、望んでいた川鉄医務課に就職する話が進展しなかつたため、硫苦水に赤痢菌を入れた(4.24員九)、次に赤痢菌と大腸菌相互の薬剤耐性の伝達を調べるための犯行(4.27検五二、4.29検五三)と変わり、つづいて、死菌を飲ませて免疫を試めそうと考え、硫苦水がまだあたたかいとき赤痢菌を入れた旨(5.2検五四)の供述を経て、川鉄就職が実現しないことの不満、および赤痢菌と大腸菌の薬剤耐性伝達を調べるために赤痢菌を混入した(5.27検五七、5.31検五九)と変つている。しかし、この変遷は単に思い違いや忘れたことを思い出したために変つたという性格のものではなく、かといつて被告人が公判廷で力説するように捜査官が想定したとおりに供述したと断じうるものでもない。むしろ被告人がみずから作為しつつ、あれこれ述べたてたとの感を禁じえない。そして、捜査官の知識の不足からか、調査を怠つたからか、十分な吟味が加えられず、このため自白内容にいくつかの疑問が残されたままになつている。

(二) 犯行方法について

(1) 潜伏期が短かすぎること

被告人は、「九月一二日朝、六研実験室に立ち寄つて、硫苦水(硫酸マグネシユウム二五パーセント水容液)を作り、これを高圧滅菌釜で滅菌してからさまし、水薬を入れるビンに約五〇cc入れ、その後、中試験管寒天斜面培地に培養保存してあつた赤痢菌を白金棒で一回削りとつて水薬ビンの中に入れた。そして、この硫苦水を前判示のようにリオンゾンデを通して大林に対し注入した」と供述している。この自白でまず気がつくのは、被告人は本件についても他の場合と同様菌を削りとつたのは「白金棒」であつたと述べていることである。しかし、4.16員二九を信用するかぎり、本件の時点ではそこでいわれている「予研式」の白金棒の作られる以前のもので、善養寺鑑定に用いられた白金線(符九号)よりもつと細いものである。それをしも被告人は「白金棒」と呼んでいたのであろうか。しかし、この点はさておいて、右の犯行方法で大林の赤痢を発症させ得たかをみると、その潜伏期が余りにも短かすぎるのである。すなわち、前記認定のように、大林が赤痢の発症をみたのは、川鉄で腹が痛むような緩むようになつた時を発症時とすると、硫苦水注入後約四時間であり、また国鉄蘇我駅で下痢をしたときとして、約七時間後である。しかるに、総説(第四)で述べたように、赤痢の潜伏期は、通常二ないし七日といわれている。これを基準とすると大林の潜伏期は異常に短かい。もつとも感染症は宿主である入と細菌の相互関係により潜伏期の長短、症状の軽重、変化を生ずるので、個体の体質、体力、体内に生棲する諸々の細菌の状態や空腹であるか否かその他諸々の条件、細菌の量や毒力(菌株の種類)等様々な条件を検討する必要がある。

本件において一白金線分の赤痢菌を硫苦水に混入させたとしてその菌数を善養寺鑑定によつて算出すると、最大108個位である。しかも、前記のように白金線の大きさや硫苦水の温度等を考えると、これよりもつと減ずる可能性がある。その毒力はもとより確定できないが、新鮮分離菌でないことは確かで、弁護人のいうように二、三代継代のものを念頭においてよい。そうすると、その菌数や毒力は前記諸実験例の潜伏期から相当隔つた結果をもたらすようなものであつたとは考えられない。他方、大林は、もともと胃腸が弱いうえ朝食もとらずに強力な下剤の薬効のある硫苦水を注入したことを考慮すると、その潜伏期はあるいはもつと短縮されうるケースであつたかも知れないが、鑑定人鈴木義雄の臨床経験からしても一二時間以内の発症は考えられないという。またカニクイザルおよび人体実験上もこのように潜伏期の短い赤痢の例もないことすでに説示したとおりである。なお、リオンゾンデによる赤痢菌の注入の場合は、菌が胃を経由せず直接十二指腸に達するので、胃に存在する胃酸などの影響を受けず発症を早めるのではないかという点も検討の必要があるが、右鈴木義雄はむしろ消極的な見解であつた。また本庄らのカニクイザルの実験では盲腸腔内注入や浣腸式注入をも試みているが、それも十二時間以内で発症しておらず、古屋・小酒井の腔門注入による人体実験でも軽微なテネスムスがあらわれるのは一八時間以降である。注入方法のいかんは潜伏期を顕著に縮めるとは考えがたい。

本件訴因は、この意味でまず疑問がある。

(2) 胆汁検査の結果について

被告人は、「大林に対し、リオンゾンデを使用して硫苦水を飲ませたのは、一つには、胆のうがおかしいと思つたので、胆汁液をとつて調べてみたかつたし、十二指腸に赤痢など腸内細菌がいるかを調べようかと思つた。十二指腸に赤痢菌はいないのであり、こんな検査は意味がない(四項)。採取した胆汁は石崎技師が阿部技師に渡し、培養した菌の有無を調べてもらつた。その結果は診療録記載のように赤痢菌はマイナスだつた。赤痢の検査は意味がないことだつたが、結果を診療録に書いておいた。胆汁液自体の検査結果は記載していない(六項)。」と述べている(5.9検五五)。

大林は赤痢を心配して九月一〇日自発的に検便に来たものであつた。これに対し検便の結果マイナスであつたにもかかわらず十二指腸内の胆汁検査を施すことは必ずしも通例のことではない。

このため、捜査官が被告人の措置に不審を抱いていたことは一応もつともであろう。しかし符一五二に記載してある「リオンゾンデ……マイナス」とあるのは赤痢菌マイナスの意であるとの供述に対し、何らの疑問ももたず、結局胆汁検査は赤痢菌注入のためで、採取した胆汁は捨ててしまつたとの被告人の自白をうのみにしたのはうなづけないことである。けだし、大林は以前に胆のう炎を患つていたのでその診断のため胆汁検査を行なうことは考えられるところであるし、医師が十二指腸ゾンデ法で(腸チフス菌ならともかく)赤痢菌の検査をするはずがなく、また、その結果赤痢菌がなかつたという意味でマイナスと診療録に記載するのは自分の無智を暴露するだけのことだからである。被告人は当公判廷で胆汁検査は胆のう炎診断のためにしたことで採取した胆汁は六研に持ち帰つて胆汁内の細菌の検査を行ない、一部は石崎医師に渡し、色調・濃淡等の一般検査をしてもらつたと供述する。これについては石崎の証言では裏づけられないが、胆のう検査を実施することは石崎も知つていたのであるから、採取した胆汁を被告人が捨ててしまつたとは考えられない。しかも、リオンゾンデの検査結果は上述のようにともかくも記載されているのであり、被告人の弁解はあながち否定できず、自白内容こそかえつて不合理である。

(三) 犯行の動機、目的について

1 被告人は本件犯行を赤痢菌および大腸菌の薬剤耐性の伝達を調べる目的であつたというように自白している。被告人が、昭和三九年七月、三島病院に派遣されて、集団赤痢の治療に携わつたのち、千葉大福永講師の指示で、三島病院から赤痢菌および大腸菌の菌株をあつめて、その薬剤耐性値を調べ、また右両菌相互間の薬剤耐性値の変動を調べていたこと、当時六研では薬剤耐性伝達が話題になつていたことは明らかである。しかし、昭和三九年九月当時の被告人の赤痢菌および大腸菌研究の段階および能力からは被告人が人体を介して、薬剤耐性伝達を調べようとまで考えるに至つたとすることは疑わしいと判断せざるを得ない。被告人が赤痢菌および大腸菌の研究に着手したのは昭和三九年七月末であり(それ以前はブドウ球菌だけの薬剤耐性)、それも、赤痢患者、保菌者から得られた菌について、単純に薬剤耐性値を検査し、比較対照していたにすぎず、真実赤痢菌および大腸菌相互間に薬剤耐性が伝達しているか否かまでを追及していたとは認めがたいうえ、研究をはじめて二カ月にも満たない被告人に、それほどの能力はなかつたと考えるのが相当である。被告人の検察官に対する昭和四一年六月九日付供述調書(四七)によると昭和三九年九月頃試験管で赤痢菌と大腸菌の薬剤耐性伝達の実験をして、失敗したため、大林に対して実験してみた旨供述しているが、当時被告人は、国立予研に実習に行つていたのであるから、同所の研究者から、これに関する研究方法、研究成果等知り得る立場にあつたにもかかわらず、これをなした形跡は全くない。かえつて、証人兼鑑定人中村明子に対する当裁判所の尋問調書および押収してある被告人から中村明子に宛てた封書(符一一五)によると、昭和四一年一月下旬になつてやつと中村に赤痢菌および大腸菌の薬剤耐性伝達などについて教えを受けている状態でその内容も初歩的なものである。これからすると、右試験管内での実験をした旨の供述も信用できない。被告人が本件当時、試験管であるか人体であるかに限らず、赤痢菌と大腸菌相互間の薬剤耐性伝達を自らが作り出そうと着目する程の能力があつたとは認め難い。

さらに、大林を使つて実験したとすると、大林から赤痢菌および大腸菌を得ていなければならないが、これもしていない。予期に反して同人の発症が激しく入院してしまつたために得られなかつたといえばいえないことはないとしても、九月一〇日実施の検便から大腸菌を集めてもいない(4.29検五三によれば、大林に硫苦水を飲ませる前に採便し、その結果大腸菌は各薬剤一〇〇ガンマー以下であつた旨の供述があるが、証人大林<一三回、一八回>、同石崎礼三<一三回、一八回>の各供述部分に照らし信用できない)。

結局、赤痢菌と大腸菌の薬剤耐性伝達を調べるための犯行であるとする被告人の供述は全く信用できない。

2 なお、ここで付加的に、被告人に本件犯行をおかす他の動機があつたか、とくに川鉄に対する不満等から赤痢菌を用いていたずらをしたいというような状況にあつたかを考えておく。

被告人は、昭和三七年一二月から川鉄医務課に勤務するようになつたが、川鉄の職員としてではなく、一内が川鉄から委託をうけて、一内から派遣されたもので、そのため川鉄職員ならば享受できる福利厚生上の利益もうけられず、身分も不安定であつた。被告人はなんとか川鉄に就職し、安定した身分を得て細菌の研究を続けたいと願い、昭和三九年一月頃および七月頃、郡司昭夫に川鉄就職の斡旋方を頼んでいたが、なかなか進展しなかつたこと、また、赤痢菌および大腸菌の薬剤耐性研究に着手するようになつたが、その頃小林章男が渡米して、被告人を親身に指導する者もないなかで研究を遂行しなければならなかつたこと、しかも、川鉄および三島病院に勤務するかたわら研究に没頭していたことなどの事実および被告人の内向的性格からみて、不安定な精神状態にあつたかも知れない。しかし、それだけではなぜに何もうらみなどのない大林に対して犯行をなすに至るか理解し得ない。

三 まとめ

以上に述べたように、被告人の自白に基づいて本件を被告人の犯行と解するには疑問がある。この点に関し、弁護人は、大林は九月一〇日被告人の診察を受けた当時すでに赤痢に感染し、数日前から発症を見つつあつたところ、九月一二日リオンゾンデ服用の作業を強いられ、かつ硫苦水という下剤を注入されたため、頻回の下痢、ついで激しい赤痢の症状を呈するに至つたのではないかとの推測を行なつている。

大林はたしかに九月一〇日下痢症状にあつたことは疑いない(符一五二の診療録に「粘血便」とあるが、血便のあつたことは大林の否定するところである)。また、当時、川鉄内に赤痢の流行が続発しており、さればこそ大林も赤痢を心配して被告人の診察を受けたのであつた。しかし、検便の結果は赤痢菌マイナスであつた。もつとも、一回の検査であり、分離同定の不完全によつて菌検出がない場合もあるので、それだけで感染者でなかつたとは断定できない面もあるが、大林の職場および家族から赤痢の発病者が一人も出ていないので、弁護人の推測も、文字どおり推測の域を出ない。しかし、いずれにしても本件公訴事実は証明不十分というほかない。

第二  カステラ事件

一 カステラの喫食と喫食者の発病

(一) 昭和三九年一二月二八日朝、日影祀子が六研に出勤したところ、研究室の関隆と加藤直幸の机の境に包装していないカステラのボール箱が置いてあつた。その後関隆、川口光、福永和雄、加藤直幸も出勤してきたが、皆カステラが置いてあるのを不審に思つていた。しかし、六研では普段医師が患者などから贈られた菓子類を研究室に持ち寄つて誰彼となく食べていたので、格別詮索せずに食べることにした。そこで同日午後〇時三〇分頃、日影祀子がカステラを切りはじめたが、そこにたまたま一内外来勤務の看護婦中村ますが来合わせた。日影はカステラを一〇余切れに切り、これを日影および中村が各々二切れ、川口が二、三切れ、関が二切れ、福永が半切れ食べた。加藤はそこに居合わせたが食べなかつた。

(二) 喫食者らの発病状況

(1) 日影祀子の病状

日影祀子は、カステラを食べた後、千葉大地下食堂で五目そばを食べ、千葉市内のデパートを歩いてから、夕刻知人方を訪ねた。ところが午後六時三〇分過頃になつて急に倦怠感および悪寒をおぼえ、そのため同県東金市内の自宅に帰つた。同日午後一〇時過頃帰宅して床に就いたが、一一時頃、腹痛とともに体温が四〇度位に上がつた。一一時三〇分頃になると、嘔吐、悪寒戦慄と下痢をするようになりその夜は頻回の下痢がつづいた。翌二九日も同症状で、起き上がることもできず、昼頃にはさらに倦怠感を伴うようになつた。同女は同日朝千葉大に電話をかけてもらい、往診を頼んだ。そこで日直であつた被告人が同日午前一一時頃同女を往診してカナマイシンを注射して帰つた。午後かさねて往診を依頼し、同日午後五時頃、千葉大伝染病病棟に入院した。入院した同女は、下痢のほかに悪寒戦慄、全身倦怠感および意識が混濁し、呼吸困難に陥るなどしたが昭和四〇年一月二日頃から次第に回復して、同月一〇日に退院した。

(2) 中村ますの病状

中村ますは、カステラを食べたのち、千葉大地下食堂でラーメンを食べてから帰宅し、二八日午後六時三〇分頃家族(夫、子供二人)と夕食をたべた。ところが同日午後九時頃になつて急に腹痛を覚えた。そして入浴して出たところ、急に嘔吐とともに下痢(水様便)が始まつた。そこで、一内の当直医をたずねて、クロマイなどを貰つて帰つてきたが、午後一一時過頃再度悪寒戦慄に襲われ、クロマイを内服したが嘔吐してしまつた。それ以来、頭痛、腰痛がつづき、下痢、嘔吐をしながら夜を明かしたが症状おとろえず、翌二九日には一段と下痢が激しくなつた。そして一内の医師の往診治療を受けたのち、同日午後五時頃、一内伝染病病棟に入院した。入院後は嘔吐もなおり、全身倦怠感、腰痛、下痢(泥状便)はつづいたが、年が明けてからは次第に回復し、昭和四〇年一月九日退院した。

(3) 関隆の病状

関隆は、カステラを喫食後帰宅し、夜晩酌にジン約一八〇ccを飲み夕飯を食べて就寝した。ところが午後一一時三〇分頃胃痛とともに嘔吐し、つづいて下痢(水様便)するようになつたが、翌二九目昼頃自然に下痢もやみ、三〇日にはほぼ治癒した。回復後にアクロマイシンを約一週間内服した。

(4) 川口光の病状

川口光は、カステラ喫食後、海老フライを食べて帰宅した。ところが午後一〇時頃から下痢(水様便)し、午後一二時頃から四、五時間悪寒戦慄におそわれ、翌二九日昼頃から脱水症状になつた。その間、クロマイ投与をつづけたところ、一二月三〇日になつて下痢の回数が少なくなり、昭和四〇年一月一日には下痢もとまり、その後数日、脱力感がつづいて治癒した。

(5) その他

福永和雄は、カステラ喫食の翌々日たる一二月三〇日夜から倦怠感があり三一日朝泥状便を呈し、午後抗生物質を服用した程度であつた。二八日六研に在室しながらカステラを食べなかつた加藤直幸および当日在室していなかつた六研室員に当時身体に異常をきたした者はない。

(三) 症状は赤痢といえるか

右日影、中村、関、川口四名とも、嘔吐、下痢、腹痛など一見赤痢の症状を呈しているが、しかし、これらは赤痢に限つて起きる症状ではない。そして、日影および中村については、一内主任教授三輪清三が関与して、いずれも急性胃腸炎と診断名がつけられており、また医師である関隆および川口光は当初自己の病気を食中毒と判断していた。この点について、西村弥彦の証言によると、同人は日影および中村の治療にあたり、一二月三一日右両名の検便を行なつた結果、一月一日か二日にいずれも赤痢菌が検出されたという。検便の結果は治療を進めるうえで重要なことであるから、西村が、忘れたり、思い違いをしているとは考えられないが、伝染病の届出はされておらず、診療録にも検便の結果の記載がなく、同人の証言はきわめてあいまいである。その検討のために、その他の者の証言を一べつすると、六研室長の福永講師は「西村から、日影と中村の菌が出たとの報告は受けていないし、届出の相談を受けたこともない。加藤直幸医師からは日影らの菌が出たことをきいたのは確かだ。むしろ一月二日か三日、被告人が自分の家に来宅したとき、被告人自身が日影の検体から赤痢菌を検出したと語つていた」旨、加藤医師は「一二月三一日に西村から症状をきいたときには食中毒みたいだし、赤痢みたいだし、と言つていた。赤痢菌が分離されたと同人からきいたのは一月二、三日頃のことである」旨証言している。他方患者である日影は、「一月一日ごろ医師の誰れかから赤痢菌がでたと聞いた」旨、中村は、「検便の結果を西村にきいたら、はつきりいわず、サルモネラ菌かね、といつた。私は赤痢ではなく食中毒と思つたし、便も赤痢の便と違つていた」旨述べている。

本件の他の関係でもしばしば見られるように、病院では、その内部の者が伝染病に罹患したとき、これを秘匿する傾向が多分にある。したがつて、日影、中村が赤痢にかかつていたのを当時なるべくぼかしてしまおうとしていたことから、右のように証言が区々になつていると考える余地はあるが、それよりも、果して西村が実際に赤痢菌の検出されたことを現認していたものかを疑わしめる。同人は結核菌を専門としており、後に問題としてとりあげるカステラ小片からの菌培養に関し「私は凝集には弱い」ことを自認しており、また検察官から伝染病患者の発生を届出なかつた件につき取調を受けた感想として「こんなベラボウな赤痢菌があるか」と思つたとか、日影に赤痢と話した記憶はなく、こんなすごい赤痢があるかと驚いたとも述べている。西村医師がかりに菌検査をしていたとしても、その精度には疑いがあり、またあるいはカステラ小片から加藤医師とともに赤痢菌が検出されたと信じた時点で、これと相まつて日影、中村の菌を赤痢菌と考えるに至つたときの推測さえもはたらく。いずれにしても、右両名から赤痢菌が検出されたと断定することはできない。

総説(第四)でも述べたように、菌検出がない限り、赤痢と他の急性大腸炎、腸炎ビブリオ等との峻別はむずかしい。関隆の如きは抗生物質の施用なくして早々に治癒している。裁判所としては、被害者とされた四名が果して赤痢に罹患したかにつき、まず疑問を表明しておく。

二 カステラ喫食頃の被告人の行動

(一)(1) 被告人は、昭和三九年一二月二三日以来、三島病院から同病院職員の検便を実施して得た検体を持ち帰り、また、その他の持ち帰れなかつた検体(シヤーレに塗布済)を取り寄せて、赤痢菌および大腸菌を分離、同定する作業をつづけていた。そして一二月二六日は、朝、川鉄出勤前六研に立ち寄り、前夜孵卵器に入れ培養しておいたシヤーレを取り出して赤痢菌および大腸菌を確認培地に植えるべく作業をしたが途中でやめ、残りはまだ出勤して来ていない日影に託して、川鉄に出勤した(残りは、日影と加藤直幸が釣菌)。被告人は、川鉄勤務後六研に戻り、誰れもいない実験室にひとり居残つて、赤痢菌の判定、液体培地の準備などをして帰つた。翌二七日は千葉市内のデパートで買物などしたのち六研に立ち寄つた。二八日は川鉄に勤務し、六研に立ち寄つた形跡はない。ついで、二九日は日直で朝六研に出勤したが、日影の往診をし、同日は徹夜で同女および中村の治療に携わり、三〇日および三一日は川鉄に勤務した。

(2) この間の一二月二六日、被告人がカステラに赤痢菌液をふりかけたか否か。犯行を目撃した者はないが、被告人の自白によると被告人は、「一二月二六日、川鉄の帰途、千葉県庁近くの長崎屋菓子店で五〇〇円位のカステラを購入して六研に持つて行つた。そして同日午後九時頃、中試験管の寒天斜面培地から赤痢菌を白金棒で一回削り取り、二〇ccアンプル入りの蒸溜水に混入して、右アンプルの三分の一位の菌液をカステラに振りかけた。」といつている。ところが、この自白を裏づけるべきカステラの出所については甚だ明確を欠く。

(二) カステラの出所について

被告人は、長崎屋菓子店でカステラを購入した旨一貫して供述している。そして、その「長崎屋菓子店」は、被告人が川鉄から千葉大に来る途中の千葉市市場町で営業しているものである。ところで、被告人の供述するカステラの大きさは長さ四〇センチ位、巾二〇センチ位、高さ一五センチ位のボール箱入り(4.15員一三)、あるいは長さ三〇センチ、巾一五センチ位のボール箱入り(4.17検六〇)であるが、被告人は長崎屋菓子店で現に販売している価格五〇〇円のカステラの箱を示されて、それは包装紙も違い、同店のボール箱より長さが六センチ位長く、巾は四センチ位狭いうえ、高さが二センチ位高い旨供述している(4.18員一四)。他方、前記発病者および福永、加藤らのいうカステラ箱の形体も区々であるが、おおまかにいえば、長さ三〇センチ前後、巾一〇センチ前後、高さ五ないし一〇センチ位というのであつて、被告人の供述するところとかなりくい違つている。捜査機関は捜査当時千葉県、静岡県下で、被告人の行動できたと考えられる範囲内のカステラを集めているが、被告人の自白に合致するようなカステラ箱を捜し出し得なかつたようである(もつとも、被告人の4.20員一五によれば、長さ三〇センチ、巾一三センチ、高さ六センチの木目模様のカステラボール箱を見せられ、これがカステラ事件のに似ているので、ドキッとしたと供述しているが、それがどこの店のものか特定されていない)。もちろん、捜査は本件カステラ事件後一年半余を経ているので、被告人も、また喫食者らもその大きさなどについて記憶の薄らいでいることは十分考えられる。しかし、被告人の自白が購入先のものと一致せず、また喫食者らの証言とも一致せず、しかも被告人の行動範囲内の店舗先からそれらしいカステラ箱が発見されなかつたことは、捜査官らの自白を求める態度に著るしい誘導が介在しなかつたことの証左にはなるとはいえ、被告人の自白に対する有力な担保を欠くことであり、ひいて自白の真実性を疑わしめる事情とならざるをえない。

三 カステラ内における赤痢菌の生存状態と赤痢発症の関係

(一) カステラに対し、赤痢菌を混入した蒸溜水を散布した場合の赤痢菌の消長については、中谷、善養寺鑑定のほか、千葉県衛生研究所および桑原章吾の各鑑定がある。しかし、すでに述べた理由により、当裁判所は前二者の鑑定に高度の信頼性を措いて本件を判断する。

(1) この中谷、善養寺各鑑定は、いずれも長さ三〇センチ、巾一三センチのカステラ(中谷鑑定は福砂屋製、善養寺鑑定は長崎屋菓子店製)に、被告人の保存していたものとして領置され、国立予研に保管してあつた赤痢菌(ソンネ菌)を普通寒天斜面培地で一夜培養したものを被告人の所持していた白金線(符九)で一回削り取り二〇cc蒸溜水アンプルに混入させ、その菌液の三分の一をカステラに散布したものを所定時間室温で放置し、その菌数を測定したものであつて、ほぼ被告人の自白に近い大きさのカステラについて、自白にそう方法で実験したものである。その結果によれば、カステラに赤痢菌液を散布して四〇時間(この時間は、被告人がカステラに赤痢菌液をふりかけたとされる一二月二六日午後九時から、カステラを喫食した同月二八日午後〇時三〇分頃までの経過時間に相当するものである)経過後のカステラ全量中の菌数は、

(イ) 善養寺鑑定では、中試験管普通寒天斜面培地で一夜培養した直後削りとつた赤痢菌については1.5×105個、一夜培養後一日室温に放置した後削りとつた赤痢菌については3.5×103個、一夜培養後五日、一〇日、一五日室温に放置した後削りとつた赤痢菌についてはいずれも〇であつた。

(ロ) 中谷鑑定では、右の善養寺鑑定に関して掲げたいずれの場合の赤痢菌についても〇、すなわち2×104個以下であつた。右の鑑定結果に照らすと、カステラ一切れあたりの菌数は右の菌数の約一〇分の一程度となる。

(2) なお、善養寺鑑定によると、赤痢菌液をカステラにふりかけた直前と直後の菌数の比較が明瞭に看取されるのであるが、その結果にしたがうと、赤痢菌をカステラにふりかけるや、たちまちにして菌数が激減している。これは専門家ですら意外に思われたほどである。カステラは小麦粉、牛乳、卵等が原料なので細菌の成育には適当なのではないかと想像されないでもないが(被告人の供述調書中にもその趣旨のことが述べられている)、実際には、右のとおり全く逆の現象となつてあらわれた。その理由は分明でないが、カステラ内の糖分その他の組成物や添加物の影響によるものであろうか。

(二) 以上鑑定の結果わかつたことは、赤痢菌はカステラにふりかけた直後から著明な減少状況を呈し、それは時間の経過とともに進行すること、そして、被告人が自白し、検察官が主張しているような方法では、通常最も菌量を多く保つものと考えられる一夜培養菌液をカステラにふりかけたとしても四〇時間位経過後のカステラ一切れに含まれている菌数は104個前後にすぎない。本件の罹患者らはカステラを二切れないし三切れ食しているので、摂取菌量はその二、三倍にはなるが、全体からみればさほどの違いではない。

そこで、これを前提にして本件発病者の経緯をみると、日影祀子の発病はカステラ喫食後六時間ないし一〇時間、中村ますは一〇時間、関隆および川口光はいずれも一一時間位である。しかるに、このような短時間での赤痢の発症は、自然感染、人体実験のいずれにも例のないこと既述のとおりであつて(総説第四)、まして、右のような少ない菌量しか認められないカステラの喫食によつて喫食者五名中四名(うち二名は重症)を赤痢に罹患させえたか、甚だ疑問とするところである。

四 犯行の動機、目的

被告人の自白調書にあらわれた本件犯行の動機は二点にわたつている。

(一) 人体実験目的について

被告人が人体実験の目的で本件犯行をなしたと供述したのは、四月二七日(検五二)からであるが、臨床上の実験をして発病者の菌を得、赤痢菌および大腸菌間の薬剤耐性伝達の関係を調べる目的であつたという点ではその供述に変化はみられない。ところが、

(イ) 使用した赤痢菌については、一二月に三島病院から持ち帰つた検体からの分離菌であつて(4.20員一五)、それはクロマイ、ストレプトマイシン、テトラサイクリン、サルファ剤の四剤耐性菌である(4.27検五二)と述べていながら、翌日にはサルファ剤を除く三剤耐性菌であるから一二月に三島病院からもつてきたものではない(4.28員一六)と訂正し、さらにつぎの日には、一二月二三日に三島病院から持つてきて二五日に確認培地に入れておいたもので、まだ薬剤耐性は調べておらず近く調べる予定で、翌年一月中に全部調べて紙に書いておいた(4.29検五三)と変化し、最後には、前記三剤について各一〇〇ガンマーの耐性菌であつた(6.9検四七)というように変転している。

(ロ) また実験の結果については4.27検五二では、日影および中村の便を培養したところ、日影は赤痢菌、大腸菌がはえており、中村はほとんど赤痢菌だけであつた。しかし、日影の激しい症状をみて薬剤耐性の検査をやめた、といい、4.29検五三でも耐性の追跡をする気になれなかつたと述べた(ただし、4.29員四では資料のことをいうと発見されるおそれがあるから話せないとしている)。6.9検四七では一転して日影および中村の病状が大丈夫という目安がついてしばらくして両名の便から分離した大腸菌について三剤の感受性(耐性)を調べた。しかしデータは作らないと供述を改めている。

被告人が本件当時赤痢菌および大腸菌の薬剤耐性の研究を進めていたことは明らかである(総説第一)。しかし、このようなめまぐるしく変転する供述からは、右(イ)(ロ)の両面にわたり、どの段階の供述を真とし偽とすべきか、まことに判定に苦しむ。かりに、最終日付の6.9検四七(これはカステラ事件の起訴後において、未だ起訴に至つていない他の事件に関する事項とともに一連の動機として述べたところを録取したものであるから、起訴後のものであつてもその自白の採取はやむをえなかつたものと考えておこう。)の供述をとつてみても、被告人がそこでいつているように、日影、中村の便の大腸菌について感受性テストをしたかは甚だ疑問である。これを裏うちする資料は何もない。また、このテストのことを、この六月九日の取調の日まで秘匿しておいたのは、日影らに「自発たちはモルモットのように利用されたという印象を与えてしまうから」と弁解しているが、人体実験目的であつたことはすでに四月の段階から述べていたのである以上、撞着した弁解というほかない。むしろ、被告人は日影、中村について検便の作業さえしていないのが真相なのではあるまいか。

もともと、本件の動機を人体実験に求めるには不審な面が多い。研究室にカステラをおくことによつて、かりに室員を赤痢に罹患させたとしても、被告人が果してみずから罹患者のの便を収集できると本気で信じていたであろうか、またその便から培養した菌の耐性関係をどのようにして資料にまとめ研究発表に資しようと考えていたのか。これらの点は被告人に対する本事件全体に通じる疑問であるが、腸チフス菌に関しては国立予研を通じて調査ができるという理由から説明が成りたちえないわけではないにしても、赤痢菌についてはその理由もたたない。人体実験に関する被告人の自白はおよそ信ずることはできない。

(二) 不平不満について

被告人が本件犯行に関して供述している不満は、六研の他の室員は皆一定の職場をもち、日中十分な研究を続けていられるのに、自分は一定した地位もなく不安定な生活をおくりながら研究せざるをえないこと、さらにさかのぼつていわゆる無給医局員制度の不合理、研究発表にあたつては共同研究者として名を連ねるのに他の医局員の誰れ一人として研究を手伝つてくれず、相談相手もないこと等に対する不満および自分が千葉大出身者でないため六研内において傍系としての立場にあることの悲哀感、常日頃父母から学位取得を激励されていたためのあせり等が重なつたものであるとしている。

被告人は一週間のうち川鉄に三日間、三島病院に一日勤務しながら、出勤日でない日および川鉄出勤前および退社後などのごく限られた時間をさいて、研究をつづけていたこと、他の六研の室員は、他に勤務をもつていたとはいえ日中研究をする時間が多く、また互いに相談し合える状況であつたこと、学会に年二回発表するほどの速度で赤痢菌および大腸菌の分離同定、薬剤耐性値の測定等をほとんど独力で行なつていたこと、そして本件当時、三島病院からの検体について寸暇をさいて分離同定していたことなどから考えると、被告人が年末の誰れ一人いない実験室で夜ひとりで作業をつづけている間、ふと他の医局員に対する羨望や医局に対する不満が昂じてくることはあり得ることであろうし、それが犯行と結びつく可能性は被告人の性向と照らしあわせて絶無とはいいがたいことかも知れない。その限りでこの事情は必ずしも犯行動機として成り立ちえないとまではいいきれないものがある。しかし、それは本件が被告人の行為であることの蓋然性についてもつと強く立証され、行為自体に対する疑問が払拭されていなければ、もつ意味に乏しいといわなければならない。

五 情況事実

本件は被告人がはじめて逮捕、勾留されるに至る、その基礎となつた犯罪事実である。そこで、捜査官がそもそも、本件を被告人の犯行と疑うに至つた経緯をみると次のような事実を千葉大関係者より聞知したからと思われる。その一は、加藤直幸らが六研研究室に落ちていたカステラの小片から赤痢菌を検出した事実であり、その二は、被告人が関隆に電話して日影らが赤痢に罹患したことを伝えた事実である。これらは厚生省土屋技官らが千葉大の腸チフス流行の調査を行なつた際すでに問題となつていて、本件の一連の罹患が被告人の犯行に結びつけられるについて、かなりの比重を占めるものであつたと推測される。

(一) カステラ小片からの赤痢菌の検出について

(1) 一二月三一日、加藤直幸と西村弥彦が、日影祀子および中村ますの発病の原因について話し合い、初め、同仁会食堂の中華そば類だと考えていたが、他に発病者がでていないことから、両名の共通食を考えていくうち、加藤が、日影らがカステラを食べていたことを思いだし、同じ機会にカステラを食べた関隆および川口光に問い合わせたところ、二人ともカステラを食べた一二月二八日夜から下痢などしたことが判明したため、カステラが原因食ではないかと判断した。そして、加藤、西村の二人で研究室の床に落ちていた小豆大のカステラ屑をさがし出し、これを有り合わせの培地で培養したところ、昭和四〇年一月一日頃、細菌が生えていたのを認めたので、赤痢菌の凝集反応を試みたら凝集した(ソンネ菌)。それで日影らの発病は赤痢菌の付着したカステラ喫食に原因があると考えるようになつた。その頃さらに、実験室の滅菌済の試験管などの入つている籠の中から、未滅菌と思われるブイヨンの入つた「M」と記入がある試験管(M試験管という)をみつけたので、これに対しても凝集反応をしたところ、赤痢菌(ソンネ菌)に凝集した。そこで、あるいはこのブイヨンをカステラにふりかけた者があるのではないかと考えた。加藤および西村はこのようにカステラの汚染は人為的な行為と考え、加藤と発病した日影とを除くと、一般細菌を取扱つている者は被告人だけであつたから被告人を疑うようになつた。そして、わざとM試験管を棚の上に移し置いて推移を観察していたところ、後日(一月三日頃)それは滅菌されているのを観取した。そこで、加藤が被告人に、そのM試験管を見せて、「これ知らないか」と尋ねたところ、被告人は「ソンネを僕はそんな培地で培養しない」と答えたので、加藤としては、被告人のその時の不自然な態度や、中味を知つていたことから、M試験管を動かし滅菌したのは被告人に違いないとの印象を強くもつた。このため、加藤は一月早々福永和雄や関隆に対し、以上のことを報告し、赤痢発病の原因と考えられるカステラは被告人が作為したものではないかと訴えた。しかし、両人とも半信半疑であつた。そしてこれが再び浮上するのは前記のとおり土屋技官の調査直前頃からである。

(2) カステラの小片から赤痢菌を検出することは加藤において行なつたものであるが、その検出方法は、たまたま研究室内に作つておいてあつたマツコンキー培地(あるいはSS培地)にカステラ小片を押しあて(スタンピング)てから、カステラ小片を右培地にのせておいたところ、翌日頃カステラに接した培地上に細菌のコロニーらしきものが出たので、ただちにこれをソンネ血清にあてて凝集反応を試みたところ前記のように凝集したというものである。しかし、右赤痢菌の分離同定方法は、検体であるカステラ小片を直接培地上に置く点で異例の方法であり、また、増菌させずにいきなり選択培地にうえ、しかもその後確認培養せずに凝集反応を試みただけで赤痢菌と判定している点で、不正確な方法といわざるを得ない(中谷証言および坂崎利一作成の鑑定書参照)。また、加藤らがしたとするカステラ小片は固く乾燥していたもので、細菌の生存に不可欠な水分のない状態であるからそのことだけからも赤痢菌が生存していた可能性はきわめて少ないはずである。

しかも、もつと決定的なことは、中谷、善養寺両鑑定によれば、カステラに赤痢菌液をふりかけても、赤痢菌は急速に死滅し、とくに訴因指摘の方法でカステラ汚染後、これをボール箱に入れて室温で四〇時間放置し、ついでさらに三日を経たカステラの小豆大の小片からは赤痢菌は全く検出され得ない結果が明らかにされていることである(この三日というのはカステラ喫食後加藤らが検査した日までの期間に該当する)。加藤らの赤痢菌検出の事実は否定されなければならない。

(3) なお、M試験管は被告人の培養していたものであることは明らかであるが、当時被告人は三島病院から持ち寄つた赤痢菌などを研究に使用していたものであつて、これがかりに滅菌済の籠に入つていたとすれば、このことはやや不自然であるにしても、M試験管の存在自体や、後日これを被告人が滅菌したことが直ちに被告人の犯行の有力な証拠となるものではない。

(二) 関に対する電話について

関隆の証言によれば、同人は昭和三九年一二月三〇日午後、被告人から電話を受けたが、被告人は関に対しその発病の有無をたずね、さらに、「日影がカステラを食べて赤痢になり大変だ、中村もおかしい」旨話したというのである。この時期はまだ日影らの発病の原因がカステラとも、また病気が赤痢とも考えられていないときであるので、このことから、本件が被告人の犯行であると疑われる一事由になつていつたと推測される。しかし、よく検討してみると、関は、一二月三〇日に被告人と川口光の妹文生から電話があり、最初は被告人からのものであつたというが、川口文生の供述調書(員)によれば、同女が関に電話したのは一二月三一日の午後であつて、関に対し兄の川口光の一月一日の日直を代つてほしい旨依頼したものである。しかるに、被告人は一二月三〇日および三一日は川鉄に勤務しており(符一六三)、かつ千葉大には出勤していない(加藤証言)。したがつて被告人がこの両日関に対し千葉大から電話した事実は認めがたい(被告人は4.10員一二でアイソトープ室から関に電話をし、そばに加藤がいたというが全く信用できない)。一方、関の妻関静の供述調書(員)によれば、関の病臥中電話があつたのは川口文生からだけであつて、これを聞いた関は妻の静に川口が二八日から下痢していることと、川口と関の共通食はカステラである旨話しているが、その他の事実、とくに日影らが発病したこと、それが赤痢であることについては全くふれておらず、かえつて一月四日千葉大に出勤し帰宅後はじめてカステラ喫食者全員が下痢をしていたと語つているにすぎない。さらに、関は、後日、加藤から、加藤らの前記一連の調査から、被告人を疑う旨の話を聞いた際、同人に証拠もなしに被告人を疑わないようにたしなめ、被告人から電話を受けた事実については何も話した形跡はない。これらのことを考え合わせると、被告人が関に電話した事実はないというべきである。

以上のとおり、千葉大関係者、したがつてまた捜査官がカステラ事件について被告人を疑うに至つた端緒にも判断の誤まりがあつたと考えられる。

六 まとめ

これまでに、本件カステラ事件については数々の疑問があることを指摘した。日影ら四名の者は赤痢に罹患したものか、カステラの出所、赤痢の短期発症に必要な菌量がカステラ内に存していたか、人体実験目的であつたとする自白の不合理性、その他被告人犯行説を導き出した情況事実の不確正さ等々。したがつて、本件公訴事実の破綻は著しい。

ただ、日影ら四名が赤痢を思わせる症状を呈し、このほか福永和雄を含め以上五名の者がカステラを喫食し、喫食者全員が大なり小なり身体に異常をきたしたことは事実である。そして、カステラを喫食しなかつた者(たとえば加藤直幸)は何らの異常もない。そして発病者のうち中村は六研室員ではないので、疫学上にいわゆる例外例に該当するように考えられる。当時六研はもちろん、一内あるいは千葉大に赤痢等の流行はなく、また発病者に他の共通食があつたとする証拠はない(日影と中村はカステラ喫食の日同仁会食堂でともに中華そばを食べているが、同食堂を利用した他の者からは一名の発病者も出ていない)。したがつて、発病の原因をカステラに求めるのは一応筋がとおつている。このカステラについては当時千葉大において若干の調査を行なつているが、少なくとも三島病院から贈られたものでないことははつきりしており、また関隆の調査では贈主をつかむことはできなかつたという。このように、カステラの出所は疑惑に包まれている。

しかし、またひるがえつて考えるに、カステラだけに発病の原因を求めるのも必ずしも確かなことではない。カステラが赤痢菌の生存に不適なことはすでに詳言したところであるし、かりに発病が赤痢以外の急性大腸炎であつたとしてもカステラがその病原菌を巣食わせていたとみるのも不自然である。当時千葉市内などでカステラによる食中毒症患者が生じた形跡もないようである。かといつて、六研が何らかの形で赤痢菌を含む腸内細菌によつて汚染されていたとみるのも、他の室員に異常がなかつたことに照らし、あまり合理的な推論とはいえない。

結局本件発病の原因を把握することはできない。しかし、いずれにせよ、被告人の自白を基礎とした検察官構成の本件公訴事実の証明が不十分であることはもはや歴然としているといわなければならない。

第三  カルピス事件

(はじめに)

本件は、事実の認定について困難な事情がある。後に述べるように、千葉大あるいは三島病院関係の事件でも事実の隠蔽はあるが、川鉄関係についてはそれがとくに著しい。すなわち、川鉄では毎年のように集団赤痢が発生していたが、昭和四〇年にも五月、七月に集団赤痢が発生し世上問題となつていたところさらに八月に医務課健康管理掛内に集団赤痢および腸チフス(本件カルピス事件)が発生した。健康管理掛長であつた郡司昭男(医師)は、これが公表されると、医務課が面目を失うこと、さらに先の集団赤痢と相まつて川鉄の操業停止にまで波及しかねないことをおそれ、上司にはかつてこれを隠すことにした。そこで健康管理掛員に対し他へ口外することを封ずるとともに、同掛員らが手分けして発病者の自宅を訪ねて注射および投薬などを行なつた。また、入院を要する者については葛城病院や蘇我病院に入院させたが、これらの病院にはたらきかけて法定伝染病を隠させるなどした(このため、葛城病院作成の診療録は事実でない記載が多々ある)。このようにただ秘密裡に疾病を消失させることに腐心し、症状の診断、諸検査をして病気の実体を追及し、これを記録する努力はしていない。検便およびヴイダール反応検査を行なつているが、検便は赤痢菌の有無について調べるだけで腸チフス菌など病原性の腸内細菌の有無を検査することに熱意を示していないし、ヴイダール反応も完全な検査ではなく、なかには虚無の数値ではないかと疑われるものすらある。そのほか、発病者自身、外部の医師の診断、治療を受けた者もあるが、医師に検便の結果を伝えなかつたり、川鉄内での発病の事実を秘匿しているので確実な診断ができていないものがあつたり、また医師にかかつていない者もいて、患者の容態を正確に知る資料が少ない。

さらに、川鉄では、本件に関して、被告人のいわゆる密告電話が原因になつて保健所から問い合わせを受けながらなおこれを隠した事実もあるが、そのほか本件に関する記録を焼却してしまつたり、捜査機関の要求に応じて資料を提出するに際し、事実と異る記載をした文書を作成交付などしている、要するに、客観的証拠の保全の点に甚だ遺憾なものがあつた。

A カルピス関係

一 カルピスなどの飲用

(一) 昭和四〇年八月六日、川鉄医務課健康管理掛では、掛長の郡司昭男とレントゲン検査技師の中村武信の二人が不在で、他は全員出勤していた。そして、同日午後、三時のお茶にはカルピスを飲むことになり、看護婦の石井節子がその準備をした。同女は、同課備品のやかん(符一九三)で湯を沸したのち、これを薬剤室の流し場で洗面器の中にやかんを置いて水道水でさましたのち、さらに氷を洗面器に入れて、やかんの水を冷やした。

そして午後二時五〇分頃、同女は、コップ一三個(符一九六と同種類のもの)およびカルピスを薬剤室に持参して、右コップにカルピスの原液を約二センチ位ずつ注ぎ、前記やかんの冷却水をコップ八分目位になるまで入れて薄めた。また金岡さよもコップ四個を持ち寄つて、石井節子と同様にカルピスを作つた。

石井節子は、カルピスを健康管理室の被告人、妻沼喜弥、植草規之、木村チカ子、小林俊夫、石井ミエ、今井博子および自己の机の上に一個ずつ置き、ついで、レントゲン室の伊藤由一、検査室の石崎礼三、阿部忠雄に各一個を、防疫室の清水勇治、佐川利英に各一個ずつを配つた。右の者らは各自配られたカルピスを飲んだが、木村チカ子はカルピスの三分の二位しか飲まなかつた。

他方、金岡さよは、カルピス四杯を治療室に持ち帰り、黒州仁太郎、塩月宇太夫、升沢博子および自己あてに配つた。ところが、たまたま輸送課運転手である稲川積が当時医務課に派遣されていた同僚の黒川、塩月のところに立ち寄り雑談していたので、金岡は自己の分を稲川に与えた。結局、黒川、塩月、升沢および稲川がカルピスを飲んだ。金岡は、同日午後三時三〇分頃、薬剤室に赴いたところ、どびんに冷えたジュースが入つていたのを見つけ、コップに約一杯半飲んだ。

(二) 右認定中、妻沼に関し、検察官は冒頭陳述において、同人は自分用に配られたカルピスのほか、被告人の机の上にあつたものも飲んだと主張し、妻沼も、茶ダンスの前にあつた誰の分かわからないのも飲んだと証言しているが、同人の証言にはあいまいなところがある。この点は、被告人がその際カルピスを飲んだか否かと関係してくるのであるが、被告人も全部飲んだものと認めるのを相当とする(被告人は捜査中も公判廷においても、そのように述べている)。

また、検察官の冒頭陳述によれば、植草は当日カルピスを飲んだ後、さらに粉末ジュースを作つて飲んだとされているが、同人は公判廷ではジュースの飲用を否定し、ジュースを飲んだのはその後二、三日してからだと証言している。この点は、金岡が薬剤室ですでに作つてあつたジュースを見つけて飲んだ事実の真偽と関係してくるが、金岡の証言は虚偽とも思えず、二、三日後にジュースを飲んだというのは植草の思い違いではないかと思われる。

二 カルピス飲用者の発病と腸チフス罹患の有無

(一) カルピスまたは、ジュース飲用者の発病状況は次のとおりである。各項の(イ)に発病、治療の経過等を、(ロ)に認定した診断を記述する。この診断については別掲の証拠のすべてを総合したものである。(ただ、この場合、平石鑑定として引用する平石浩・斎藤誠共同作成の鑑定書は、昭和四一年五月三日富田康次検事の嘱託に基づいて行なわれた鑑定結果であるが、その鑑定にあたつて用いられた患者一覧表および症状表中に記載されている症状その他は、公判廷における証拠にあらわれたものと若干異る部分がある。鑑定はその基礎となつた資料に異同が生ずれば結論にも異同を生ずるのは当然である。そして、右の鑑定資料中とくに異つているのは、葛城病院における伊藤、石井、塩月に関する諸検査の結果と、川鉄で行なつたというヴイダール検査の結果であつて、前者は改ざんされたものが記載されており、後者はきわめて不正確な数値であつて、ともに信頼性に乏しいものがある。しかし、平石鑑定人はヴイダール反応をさほど重視していないし、また公判廷において鑑定結果に対し補充的な説明を加えている。葛城病院の検査については室岡典昭証言のほか符三六〇ないし三六五によつて正しい資料が提出され、川鉄の検査についても関係者の証言によつて少しは正しい結果も出ているので、これを加味して考えることができる。結局基礎資料の違いが本質的に鑑定結果を左右しないと考えられる限度においては平石鑑定はなお意味をもつと思料されるので、この制約を付しつつ本件の証拠に用いるものとする)。

(1)(イ) 妻沼喜弥は八月八日朝倦怠感を覚えたが気にせず子供と海水浴に行つた。帰宅後の午後三時三〇分頃熱感があつた。翌九日朝も微熱、倦怠感があつたが出勤した。一〇日も出勤したが、午前一〇時頃、頭痛・吐気をもよおし、医務課内で寝ていた。関節痛をも伴い、体温は四〇度以上に上昇した。一一日から欠勤し、頭痛、発熱などがあつて、夜八時頃奥山医院の上原医師の往診をうけた。同医師は、妻沼の主訴(発熱三八度、頭痛)および咽頭発赤、脈搏一〇〇)などの所見から感冒を疑つた。一二、一三日も同症状がつづき、一三日午後奥山医院に入院した。入院後、頭痛、発熱がつづいたが、一三日および一四日の夜、三九度の熱があつたほかは、一五日以降おおむね三七度台の熱が二四日までつづきその後下熱した。頭痛は一六日に軽快、胸部に圧重感があつたほかは腹部、脾臓、肝臓等には病的反応はない。この間、一四日から一九日までクロマイ、一九日から二四日までカナマイシン、二三日から二八日までアクロマイシンが施された。同人は二九日に退院して、同年九月一四日まで通院加療を受けた。

(ロ) 妻沼について、腸チフスの罹患とは確定できない。同人の治療にあたつた医師は、諸検査を試みて、診断に困惑しており、最後に疑問の余地をのこしつつも腎孟炎の診断をしている。また、平石鑑定によれば他疾患の疑いがもたれるが、腸チフス菌で汚染された飲料水を飲用した前提に立てば腸チフスを否定することはできないとしているだけである。その証言によると腰椎穿刺の結果髄膜炎が考えられるので、腸チフス菌におかされたとしてもメニンゴチフスという特別型であろうとしており、いずれにしても腸チフスの断定にはかなり懐疑的である。事実、妻沼の症状中に、発熱、関節痛、倦怠感等はみられるが、白血球は、一四日七、〇五〇、二一日一四、六五〇、二四日一四、八〇〇であること、好酸球が一四日四、二一日一であること、クロマイ投与後体温が下がつているが、投与前および投与中止後の熱型と比較して必ずしもクロマイの影響ともいえない点のあること、脾臓、肝臓等に病的反応のないこと(なお、ヴイダール検査は一六日に一回試みられているが、いわゆる陰性であつた)などをも考えると、腸チフス以外の疾病が考えられ、腸チフスに感染しておれば腸チフスに罹患したことを否定できないにしても腸チフスと確定するには疑問の余地がある。

(2)(イ) 佐川利英は八月初め頃から、疲労および風邪気味で三七、八度位の熱があつたが勤務はつづけていた。七日、八日は休日、九日は倦怠感および熱感がつづいていたが出勤した。一一日になつて体温が三八度五分に上昇、頭痛、倦怠感を伴うようになつたため欠勤して中川医師の診断をうけるようになつた。一二日、一四日は出勤したが症状に変化なく、一五日には体温が三九度になつた。同人は一一日、一三日、一五日および一七日同医師や国立千葉病院の治療を受けた。そして、一六日以降クロマイを服用したところ、二五日までは午前三八度位、午後四〇度位の熱がつづいたが、二六日から下熱し始め、九月一日には平熱に戻つた。

(ロ) 佐川について、ヴイダール検査は九月に出勤してから「少しある」といわれただけで明らかでない。白血球は八月一七日国立千葉病院で行なわれた検査で七、六〇〇の数値が出ているようである(平石鑑定の資料となつた患者一覧表参照)。したがつて、熱型、クロマイ投与の効果その他の一般症状によつて判定するほかないが、平石鑑定および証言を参照すると、腸チフスの発症(推定発病日八月九日)を考えてよい病状であつたと思われる。

(3)(イ) 植草規之は、八月一一日終業頃熱感を覚え、一二日には倦怠感を覚えるようになつたが別段意識するほどではなかつた。ところが一三日夕刻、体温が三八度五分になつたため翌一四日欠勤して川島医師の治療をうけた。それ以後毎日三八度五分から四〇度の間を上下する熱および背痛、肩痛などがつづいた。その間一四、一五日はアクロマイシン、サルファ剤の投与、一六、一七日シンシリン、一九、二〇日アクロマイシン、二一、二二日パラキシンの投与をうけたほか、川鉄医務課から配付されたクロマイ等を服用しつづけたところ、二四日頃平熱に戻つた。

(ロ) 植草については八月二〇日川島医院で行なつた白血球の検査は五、五〇〇の数値を示した。平石鑑定で腸チフスと判定されているほか、越後貫鑑定によると、腸チフスの感染を経過したと想像することができるとされているので、上述の症状に照らし、腸チフスの病状であつたと認める。発病日は八月一三日頃である。

(4)(イ) 伊藤由一は、八月一二日終業後、水泳をしてから倦怠感を覚え、千葉市道場南町八九番地川鉄南町寮の居室に帰つて入浴したところ、寒気がして三八度の熱がでた。翌一三日多少熱感があるのをおして出勤していたものの、午後熱が高くなつたため医務課内で休んでいた。終業後寮に帰つてから、近所の長谷川医院で診察をうけたがその頃頭痛、発熱(三九度位)、関節痛などがあつて、解熱鎮痛剤の注射と鎮痛剤四日分を与えられた。長谷川医師は感冒を疑つていた。一四、一五日は三八度位の熱があり居室で寝ていた。一六日には気分がよくなつたので起きて洗濯したり、また翌日出勤する旨川鉄に連絡した。同日午後五時過頃、被告人が往診に来て、問診、触診などしたが、右腹部に圧痛があつた。被告人はその際、伊藤の左上腕静脈から採血し、クロマイを置いて同日午後五時三〇分頃帰つた。被告人が帰つて三〇分ないし一時間位後伊藤は急に悪寒戦慄に襲われ、四〇度位に熱が上昇、嘔吐した。一七日、は下痢(水様便)して立ち上ることもできなくなつて、同日午後一時三〇分頃救急車で蘇我病院に入院した。入院当日、嘔吐、腹痛、下痢、体温三七度、白血球六、四〇〇であつたが一九日には下痢がとまつた。体温は一八日以降三六度台で、徐脈(四四〜六〇)、下腹部圧痛、脱力感、便秘がつづくようになり、白血球も減少していた(蘇我病院の検査で、一七日六、四〇〇、二〇日一二、〇〇〇、二三日三、五〇〇、二五日四、四〇〇)。二三日腸チフス菌検出が判明したため、二四日葛城病院に転院し、九月九日退院した。

(ロ) 伊藤については、蘇我病院において腸チフス菌の検出があるので、腸チフス罹患の事実が認められる。もつとも、符一七一の同病院の検査伝票には腸チフス菌プラスマイナスと記載されていたり、葛城病院における伊藤の診療録(符一八一)の中のヴイダール検査や白血球の数は書き変えられ、検査伝票は破棄されたりしているが、宇都宮淳治証言、室岡典昭証言によれば蘇我病院における血液培養による菌検出の事実は間違いないことであり、葛城病院の診療録中の熱型、脈搏数、投薬関係は事実に合しているうえ、符三六〇ないし三六五には改ざんはないとみて妨げないので、そのうちとくに符三六二、三六三と室岡証言をあわせて検討すると、葛城病院入院後の伊藤の症状は腸チフスの病状経過を示しているものと判定される(ヴイダール反応は八月二五日一、二八〇倍を示した)。谷茂岡証言中、伊藤は腸チフスといえば腸チフスともいえるが、むしろ腎炎にあたるというのがふさわしいとの内容は措信できない。なお、伊藤の腸チフス発病日は発熱した八月一二日夕刻頃と推定される。

(5)(イ) 石井節子は、八月七日千葉市内のデパートで買物したりしていたところ、午後三時頃になつて気分が悪くなつたため、千葉市塩田町三五三の二番地の自宅に帰つた。帰りついてまもなく下痢(水様便)し、三八度位の熱がでたため、カナマイシンを服用した。翌八日には下痢はとまり、倦怠感が残つたが九日には下熱した。ところが、一〇日夜、川鉄から帰つてから、再び三七度二、三分の熱が出、一一日には三八ないし三九度に上昇、同日から欠勤して、関沢医師の診察をうけたが、その頃頭痛、倦怠感なども伴うようになり、熱は一二日以降毎日三七度から三八度を上下し、症状にほとんど変化はなかつた。この間、一六日には腹部圧痛はなかつたがはじめて下痢をした。二三日には肝臓が肥大、白色舌苔が認められるようになつた。この間一一日から二二日までクロマイ等の投与を受け、二六日頃には下熱した。その後家で静養していたところ、九月一日午後、被告人が同女を往診した。そして被告人は同女から採血するとともに、グロンサン二〇ccを静脈注射して帰つた。ところが、被告人が帰つて一時間後頃、急に悪寒が始まり、同日午後八時頃には四〇度二分以上の発熱、悪寒戦慄および嘔吐をした。しかし、同日午後九時頃から徐々に回復し、翌二日午後から平熱に戻つて九月中旬頃回復した。なお、八月一〇日頃の川鉄医務課での検便の結果、同月一六日腸チフス菌が検出された。

(ロ) 石井節子の便から腸チフス菌が検出された経緯は次のとおりである。川鉄医務課健康管理掛では八月一〇日頃掛員の検便を行なつた。石井の分は石崎検査医技師が確認培養等をしたが、赤痢菌は検出されなかつた。しかし、石井の分は特別の生物学的性状を示していたので、石崎はそのままとつておき、一六日に腸チフスの凝集反応を試みたところ腸チフス菌と判定されたというものである。この検出過程は信頼できると思われるし、その他の症状も腸チフスと判定するに支障あるものはない。ただ、発病日を八月七日とみるか、一一日頃とみるかは問題であるが、八日、九日に一たん平熱に下熱しているので、七日の発熱は他疾患たとえば赤痢(同女は八月一〇日頃の検便で赤痢菌は陰性であつたが、カナマイシンを服用していること等で赤痢に罹患したものの菌が検出されなかつたとも考えられる)によるもので、腸チフスの発病は一一日頃と一応推定する。

(6)(イ) 石井ミエは、八月七日昼寝から覚めた時、熱感および倦怠感を覚えたほか、下痢(水様便)があつた。翌八日も熱感、倦怠感、下痢がつづいた。同日および九日赤痢治療薬を服用したが、九日午後になつて症状がほとんどなくなり、一〇日、一一日に出勤した。ところが、一一日帰宅途中から倦怠感および頭痛とともに三八度六分位の熱がでた。一二日欠勤して終日寝ていたが、吐き気があり、脈搏も六〇なく、夜三九度以上の熱が出た。そして一三日および一四日佐野医師の往診をうけたが症状は変わらなかつた。一六日から別の大浜医師の治療を受けるようになつたが、熱は三八度を下らなかつた。一七日も同様で、白血球は減少し、一八日大浜医師は腸チフスを疑つた。そしてクロマイ一グラムを注射している。一九日には高熱(三九度以上)にもかかわらず脈搏が一〇〇、白血球二、〇〇〇位であつた。同日午後一一時頃、葛城病院に入院、S字状結腸圧痛がみられた。同病院では入院当日からリンデロンが投与されたが、二四日からはクロマイの投与もなされた。体温は一九、二〇日はほぼ三七度以下で、二一日からは三六度ないし四〇度位を上下したが、クロマイを投与した後の二七日以後三七度以下に下熱した。脈搏は一九日以降ずつと六〇〜八〇位を低迷した。九月一日退院。

(ロ) 石井ミエに関する葛城病院の診療録(符一八二)のヴイダール反応および白血球の数値の記載は改ざんされているが、その他は一応正しいと思われる。

そして符三六〇、三六三によると、白血球は八月一八日四、〇〇〇、同月二一日四、六〇〇、同月二三日五、八〇〇で、符三六二、三六三および室岡典昭証言によると、ヴイダール反応は同月二四日一六〇倍であつたと認めることができる。この場合、平石鑑定は(基礎となる資料に虚偽があるので)援用できないが、大浜医師が腸チフスを疑つたこと、右にあげた白血球の減少、徐脈、熱型、ヴイダール反応値、クロマイ服用効果、その他の一般症状に照らし腸チフスに罹患したものと認めるのが相当である。八月二〇日、二八日に便あるいは血液から菌検査が行なわれ、いずれもマイナスの結果が出ているが、必ずしも右認定を妨げないと解される。

石井ミエは七日から熱感があるが一たん下熱しているので、それまでの症状は赤痢(同女については八月一〇日頃の検便の結果赤痢菌の検出があつたかやや明確を欠くが<符五〇七によれば検出、同女の証言では不明>、かりに検出されなかつたとしても赤痢治療薬を服用していたためで、赤痢罹患の事実を認定して妨げないと考えられる)によるもので、腸チフスの発病は一一日頃と一応推定される。

(7)(イ) 木村チカ子は、八月七日から北海道旅行をしていたところ、一〇日昼頃から頭痛、悪寒を感ずるようになつたがそのまま旅行をつづけた。一一日札幌市内に着いたが悪寒がひどくなり、一四日まで同市内に滞在して医師の治療を受けた。しかし、その間三九度以上の熱および倦怠感が消失しなかつた。一四日に一時三八度に下熱したので千葉市内の自宅に帰つて来た。一五日にも三九度位の高熱、頭痛、腰痛および下痢があり、夜蘇我病院で急性腸カタルの診断で、医師からクロマイの投与を受けた。翌一六日からクロマイなどを服用しつづけたところ、熱が三七度五分ないし三八度位になり、頭痛、下痢も消失し、八月末頃下熱回復した。そこで九月八、九日、出勤したが、再度、頭痛悪寒を覚え、九月中には自宅で静養した。なお八月一七日頃川鉄医務課による検便の結果、赤痢菌が検出されている。

(ロ) 以上の症状ならびに平石鑑定および証言を参照すると、木村の症状は赤痢と腸チフスの重複感染によるものと考えられる。その発病は八月一〇日か一一日であるが、赤痢と腸チフスとがどのような順序・容態で発症したかは不明である。

(8)(イ) 石崎礼三は、八月八日宿日直で医務課に勤務していたが、同日および翌九日倦怠感を覚えていたところ、一〇日になつてさらに腹部異常感、関節痛、一一日には下腹部圧痛、下痢などをもよおすに至り、千種医師の治療をうけた。同医師は急性大腸炎と診断した。同日から医務課および千種医師よりクロマイをもらい服用しつづけたが、三八度位の熱および関節痛、倦怠感、下痢がつづいた。一三日、一五日は床についたが熱、症状に変化はなく、一九日郡司からカナマイシンをもらい、服用をこれに切替えたところ、二七日頃正常になつた。なお、八月一〇日頃の検便の結果赤痢菌が検出されている。

(ロ) 右症状、平石鑑定および証言によると、石崎は赤痢と判定するのが相当と思われる。石崎の証言では八月末ヴイダール検査の結果一六〇倍の値が出たといい、その他その症状から考えると腸チフスに感染したのであればこれに罹患していたことを全く否定はできないにしても、腸チフスであつたとは断定できない。

(9)(イ) 清水勇治は、昭和三〇年頃胃潰瘍、十二指腸潰瘍、さらに胆のう水腫でいずれも手術をうけたことがある。清水は、昭和四〇年八月六日午後一一時過頃になつて、腸内で異常発酵、腹が張るように感じた。七日か八日出勤したが、朝から下痢し(水様便)頭痛、倦怠感があつた。九日以降も出勤したが、頭痛、倦怠感、三七ないし三八度の熱がつづき、一〇、一一日はほとんど仕事もできない状態であつた。一二日から井手医師の診察を受けた。そして一一日から一四日および一九日から二七日までクロマイを服用(注射を含む)したが、一二日には頭痛、腰痛および下痢もつづき、熱も変わらない状態で起き上がれなくなつた。そのような状態で、一五日まで床に就いていた。一六日以後も熱および症状にほとんど変化はなかつたが、同日から出勤した。一八日午前、医務課内で、被告人から栄養剤など二〇ccの静脈注射を受けてまもなく意識を失い、悪寒戦慄および高熱がでた。一九日から二三、二四日頃まで熱が三九度位で無気力状態がつづいた。それ以後は下熱し、食欲も出て、九月一〇日頃回復した。なお、同人(八月一〇日頃)ならびに妻および長女(八月二三日頃)の検便の結果赤痢菌が検出されている。

(ロ) 清水について八月一二日診察した井手医師は急性大腸カタルと診断した。八月一九日被告人は意識不明になつた清水をその自宅に送つた後、主治医に渡すようにメモをおいていつたが、それには「敗血症」と書かれながら薬は赤痢に効くパンフランSをおいていつている。清水はその前に赤痢菌が検出されていたため被告人としてパンフランSを投薬しようとしたのはうなづけるが、敗血症とした理由はよくわからない。井手医師はそのメモを見て敗血症はおかしいと思い、また清水からは赤痢菌は陰性ときいていたのでパンフランSの服用をやめさせクロマイを投薬した。同医師は一四日、一九日白血球の検査をしているが、それぞれ八、〇〇〇と八、五〇〇であつた。以上の点からすると、清水の症状は赤痢とみるのが相当のようであるが、腸チフスであることも否定できない。越後貫鑑定によると、腸チフスの感染を経過したと想像できるとあるので、結局、赤痢および腸チフスを併発していたものと判定する。しかし、この両者がどのような順序・容態で発症したのかは確定できない(検察官は清水の腸チフス発症はカルピス飲用当日と考えている。これは牛場鑑定<口頭>が腸チフスの前駆症状として急性胃腸炎を惹起する可能性があるという見解を根拠とするが、清水は赤痢を併発しているので、その当初の症状は赤痢による可能性もある。なお、牛場鑑定については、稲川積に関する項参照)。

(10)(イ) 今井博子は、八月八日朝、熱感および倦怠感を覚えたが、二泊三日の旅行に出た。九日も熱感があつたが、一〇日になつて腹痛と七、八回の下痢(水様便)があつた。一一日以降も同様の症状で、熱が三七度二、三分あつた。その間、一一日から一四日までクロマイ、アクロマイシンを服用、一五日からカナマイシンに切替え、二〇日頃から再びクロマイ、アクロマイシンを服用しつづけた。一二日に下痢はおさまつたが依然腹痛、倦怠感、三七度位の熱がつづいた。その後一六日から三八度以上の熱がでたため、一六、一七日、一九ないし二一日欠勤して休んでいたところ下熱し、同月末頃回復した。なお、同人は八月一一日頃の検便の結果赤痢菌が検出されている。

(ロ) 今井が赤痢のほか腸チフスにも罹患していたかは判定困難である。

上述の症状、とくに有熱期間の長いことや投薬効果、八月下旬頃のヴイダール反応が六四〇倍位、一〇月下旬頃一六〇倍位であつたこと(今井証言)などを総合すると、腸チフスか、少なくとも腸チフスの疑いが強い。(しかし、赤痢を併発しているので腸チフスの発病が一〇日かそれ以降かは明確でない。)

(11)(イ) 阿部忠雄は八月六日夜行で岩手県に帰省し付近を旅行したが、九日夜から熱感および倦怠感を覚え、一〇日も同様であつた。そして一一日午後二時三〇分頃、急に腹痛とともに下痢するようになり、翌日も腹痛・下痢がつづき、熱も三九度以上になつた。一二日夜から医師の治療を受けたが症状に変化なかつた。一六日夜自宅に帰り、翌一七日に出勤、一八日休んだほか出勤した。その間依然熱・下痢等がつづいたが一七日からクロマイ、パンフランS、カナサイクリン等の投与を受けつづけたところ、二五日頃になつて症状がすべてなくなり回復した。なお、同人は一七日川鉄医務課で検便の結果赤痢菌が検出されている。

(ロ) 阿部は八月二六日頃および一〇月にヴイダール検査を受け三二〇倍および八〇倍といわれたと証言するが、符四〇七、四〇八と照らし合わせると信頼性がうすい。なお、八月二六日の白血球の検査では八、一〇〇となつている。同人の赤痢の発症は明らかであるが、平石鑑定および証言を考慮にいれても、腸チフスにも罹患していたとは断定できない。

(12)(イ) 金岡さよは、八月一〇日頃検便をした結果一一日に赤痢菌が検出されたと知り、なんの症状もないままパンフランSを服用しながら勤務をつづけていた。ところが、一二日午前一〇時頃全身倦怠感と熱感を覚え、体温を測つたところ、三七度五分、正午には三八度、午後三時頃三八度五分と上昇し、また頭痛も起きた。一三日から欠勤して床に就いたが、体温が四〇度位に上昇、悪寒戦慄も加わつた。一四日からクロマイ、アクロマイシン等を服用しつづけたところ、二〇日頃になつて、頭痛はつづいたが下熱しはじめ、九月初旬頃回復した。

(ロ) 金岡の上記症状は、赤痢に罹患していたほか、腸チフスの罹患を疑わしめるものがあるが、越後貫鑑定をも参照すると、腸チフスと断定することはできない。

(13)(イ) 塩月宇太夫は、川鉄輸送課員であるが救急車の運転手として医務課健康管理掛に勤務していた、同人は、八月九日、熱感および関節痛を覚えて、小田島医師の治療を受けたが、翌一〇日出勤したところ午前七時頃になつて、足腰が痛み三八度五、六分に発熱し、頭重、倦怠感に襲われ、午前中で早退した。同日夜前同医師の治療を受けたが回復しなかつた。一一日から欠勤したが、腰痛、熱も三九度以上になつて悪寒戦慄するようになり、さらに夜になつて下痢するに至つた。一三日からクロマイを服用しつづけた。そして一七日まで欠勤したが、その間、熱が三九度から四〇度以上を上下し、足腰痛、悪寒戦慄、下痢(水様便)がつづいた。一八日頃から軟便、関節痛もいくらかおさまり、倦怠感は残つたが、熱も三七度から三九度位に下がつた。そして一八日から出勤した。その後、二九日頃、被告人から医師の診察を勧められ、また熱も三八度五分位あつたことから、三一日葛城病院に入院した。同病院でもクロマイの投与をつづけたところ、ほぼ三七度以下の熱がつづいて倦怠感なども消失し、九月八日退院した。なお同人の入院当日脈搏約八〇、その後も七〇〜八〇位、九月一日白血球七、二〇〇、ヴイダール反応値一六〇倍、九月六日ヴイダール反応値一六〇倍であつた。また、同人は八月一二日川鉄医務課で検便の結果、赤痢菌が検出されている。

(ロ) 塩月についても葛城病院の診療録中の白血球、ヴイダール反応等の数値は改ざんされた。符三六〇等による正確な結果は前記のとおりである。しかし、脈搏や熱型、投薬関係の記載に虚偽はない。全体の症状をみると、赤痢と腸チフスの重複感染を受けて発病したものと判定される。腸チフスの発病は八月一〇日とみて差し支えないと思われる。

(14)(イ) 黒川仁太郎は、川鉄輸送課員で、レントゲン車の運転手として医務課に勤務していたが、昭和三五年頃胃潰瘍の手術を受けたことがある。同人は、八月八日、昼間ラッカーを使つて塗装などしたが、午後八時頃、熱感、頭重感を覚えた。一〇月朝から頭痛、三八度三分位の熱とともに五、六回の下痢(水様便)に襲われ、欠勤した。家庭薬を服用したが一一日および一二日も下痢、頭痛がつづき、熱感もあつたうえ、関節痛があつた。一二日朝三七度三分位に下熱したため出勤した。同日、前日行なつた検便の結果赤痢菌が検出された旨知らされた。クロマイの給付をうけて服用した。一三、一四日はいくらか頭痛および倦怠感はあつたが一五日には全快した。

(ロ) 平石証言によると、黒川は赤痢菌が出ており、水様便が約五回その後も数日下痢がつづき、有熱期間も短かい、という根拠から赤痢のみの発症と考えてむりがないという。この根拠資料は公判廷における証拠調の結果と合致しているので、平石証言にしたがうのが相当である。

(15)(イ) 升沢博子は、川鉄医務課健康管理掛の雑役婦をしていた。同女は八月八日頃から下痢気味であつたが格別気にもとめていなかつたが、一〇日になつて熱感があつた。ところが一一日朝から倦怠感を覚え、午後には熱が三八度五分になつて仕事ができなくなつた。一二日になると、下痢し(同日のみ)、体温が四〇度近くまで上昇した。一二日夜からクロマイを服用しつづけた(なお、パンフランSも飲んだと思われる)ところ、三日間くらい四〇度以上の熱がつづいたがその後徐々に下熱し、二〇日過ぎ頃平熱になり、同月末頃腰痛、倦怠感が消失して回復した。同人は八月一〇日頃川鉄医務課で検便の結果赤痢菌が検出されている。

(ロ) 升沢が赤痢に罹患したことは確かである。発病は一〇日前後頃と思われる。その後、高熱がつづいているので腸チフスに感染したとすれば、腸チフスにも罹患したことを否定できないが、必ずそうであつたとは、断定できない。

(16)(イ) 稲川積は、川鉄輸送課の運転手をしていた。同人は八月六日頃の午後八時三〇分頃から腹痛および下痢(水様便)があり、三七、八度の熱を出した。同日から一日二、三回の下痢が二日ないし三日つづいたが、その間家庭薬を服用するうち、下痢、腹痛、倦怠感も消失した。

(ロ) 平石証言によれば、稲川の症状は軽く、腸チフス菌で汚染された飲料水を飲用した前提に立たない限り、腸炎、大腸カタルが考えられるだけだとされている。腸チフスに罹患したものとは考えられない。

なお、検察官は牛場鑑定(口頭)を援用し、稲川がカルピス飲用当日から下痢症状を呈したのは腸チフスの前駆症状たる急性胃腸炎である、と主張するが、同鑑定人の見解は未だ実証されていない一つの仮説にとどまり、厳密な認定を必要とする刑事裁判に用いるには多くのためらいをおぼえる。

(二) 以上の発病状況をまとめれば次のとおりである。

(1) 病名

(a) 腸チフス患者と認められるもの=九名

うち(イ) 腸チフスのみを認めうるもの佐川、植草、伊藤

(ロ) 赤痢と腸チフスを併発したと認められるもの

石井節子、石井ミエ、木村、清水、今井、塩月、

(b) 腸チフス罹患者と断定できないもの=七名

うち(イ) 赤痢と認められるもの

石崎、阿部、金岡、黒川、升沢

(ロ) その他     妻沼、稲川

ただし、右(イ)(ロ)のうち、阿部、黒川、稲川を除くその余の者は、腸チフス菌に汚染された飲料水を飲用したとの前提があれば、腸チフスに罹患したと認めうる可能性がある。

(2) 腸チフスの発病日

腸チフス罹患者およびその疑いある者の発病日をみると、清水は八月六日からすでに病変がある。しかし、同人は赤痢を併発しているので腸チフスの発病日は結局不明である。他の者については、佐川利英の八月九日頃が最も早く、それ以外は不明の者もあるが早くみても同月一〇日ないし一三日頃以降である。

(3) 発症率等

カルピス飲用者のうち、小林俊夫および被告人は全く発病していない。したがつて、カルピスおよびジュース飲用者一八名中腸チフス罹患者またはその疑いのある者は一三名であるから、カルピスを原因と考えての発症率七二%位とみられる。

なお、稲川は前記のとおり、腸チフス罹患を否定するので、疫学上のいわゆる例外例には該当しないといわざるをえない。

三 自白の検討

(一) 犯行の動機について

(1) 人体実験目的

本件で被告人は、はじめ、他の腸チフス菌使用の訴因におけると同様に、腸チフス菌を投与して発病者から得られる腸チフス菌の薬剤耐性を調査する目的で、蒸溜水にクロマイ一ミリグラム力価と腸チフス菌を入れた菌液を使用したとか(5.25検七〇)、中試験管寒天培地でクロマイ耐性を順次高めておいた腸チフス菌による菌液を使用したとか(5.27検五七)供述していた。ところがその後クロマイ耐性の実験をしようとまでは考えてなかつたと供述を変え、使用した腸チフス菌にはクロマイは入れなかつた(5.30検五八)、本件は他の訴因の場合とちがい腸チフス菌による人体実験ははじめてのことなので、正直にいつて薬剤耐性研究目的ではなく腸チフス発病の経過と症状に興味があつたからだ(6.10検四八)と述べている。もし、被告人が当初述べていたように、本件の動機がクロマイ耐性研究のためであつたとすると、本件で被告人が発病者からの腸チフス菌を集めて保存していないことはその動機とすこぶる矛盾する。とくに伊藤および石井節子からはわざわざ採血までしていながら菌株を保存していない。(保存していたのはかえつて今井あるいは金岡らから検出された赤痢菌であつた。)そして、他の発病者からも採血する機会はあつたのにこれもしていない。このゆえか、やがて薬剤耐性研究の目的を否定する供述に変化し、本件が腸チフス菌を使つた最初の犯行という点でむしろ腸チフス発病の経過と症状を知ることに興味があつたとする供述が引き出されている。しかし、これとて検察官の誘導、あるいはこれに近い追及に迎合したことによるのかはわからないが、決して信用できるものではない。なぜならば、被告人は本件において他の事件の場合と異り発病者方を訪ねて診察、注射などをしているが、妻沼に対する見舞のほかはどれも被告人が独自で行なつたものではない。健康管理掛で本件発病を隠蔽すべく掛員が手分けして発病者方を訪れて治療投薬して廻るについて被告人もその一員として行動したにすぎない。しかも、まがりなりにも発病者の症状を調べたと認めうるのは、妻沼および伊藤に関してだけで、それも甚だ断片的なものである。到底被告人のいうような目的にそうような行動ではない。被告人の供述は矛盾にみちている。

(2) 不平不満等

被告人が本件の動機として供述する不満とはほぼ次のとおりである。被告人は川鉄に就職したいと希望し健康管理掛長の郡司にその斡旋を頼んでいたがなかなか進展しなかつた。昭和四〇年五月頃、郡司が課長代理に昇進し、健康管理掛長の席が空いたので、その地位で就職したい旨申し入れたが、郡司は小林薬剤師を後任にしたい意向であつたし、川鉄では被告人の大学卒業年次からはまだ掛長の資格はないとのことで、被告人はこれを聞いて医師の資格を尊重しないと不満に思つた。その頃さらに川鉄の寮長から被告人を無視する態度を示され医師としての面子を傷つけられたと憤慨した。そしてこれら川鉄に対する腹いせ、郡司を驚かせて会社からの評価をおとすため本件犯行をなした、というものである。

被告人が右供述にあるように、川鉄への就職を熱望し、昭和三九年一月頃から折にふれて郡司に尽力方を頼み、また副参事で掛長、給与月額六万円の条件を固執していたがかなえられたかつたことは他の証拠からも確認できる。しかし、被告人が川鉄の寮長から無視する態度を示されて慣慨したのは、妻沼の奥山医院入り院中のときで本件以後のことであるからこれを犯行の動機にしつえるのはおかしい。ただ、被告人は川鉄の正規の職員ではなかつたため健康保険や福利厚生上の便宜もうけられず、その他何かと自尊心を傷つけられることはあつたであろう。したがつて、以上の点から被告人が川鉄に対し不満を有していたことは事実であろうが、この不満をはらそうという動機だけでは犯行に結びつく必要性としてはかなり弱い。

(二) 犯行の方法について

被告人の供述する方法で腸チフスを発症させうるかについて検討する。被告人の自白によると、被告人は八月六日午前八時頃一内六研で中試験管普通斜面寒天培地に培養中の腸チフス菌を「白金棒」で一回かきとり、二〇cc蒸溜水アンプルに混入し、この菌液を中試験管に入れ、これを石井節子が準備していたやかん(約四リットル入り)の中の湯さましに混入したというものである。そして、石井と金岡は前認定(一(一))のようにしてコップにカルピスの稀釈水を作つた。

そこで、このことを前提にして右カルピスのコップ一杯中に生存する腸チフス菌数を中谷、善養寺鑑定によつて算出すると、次表のとおりである。(注、善養寺鑑定第二の五(a)は一ccあたりの菌数であるところ、本件のコップ一杯のカルピスの量は正確に把握できないので、一応一八〇cc以内であると考え、一八〇倍したものを表に掲げる。)

鑑定人

中谷 鑑定

善養寺 鑑定

カルピス稀釈後

経過時間

直後

1.4×106

(5.8×104)

9.9×106

(3.2×105)

一五分

8.0×105

(3.4×104)

8.1×106

(1.2×105)

三〇分

7.8×105

(3.3×104)

6.3×106

(2.0×104)

(注) カッコ外の数値は一夜培養菌を用いた場合

カッコ内の数値は一夜培養後室温で一〇日放置の菌を用いた場合

これを総合して考えると、カルピスコップ一杯あたりの菌数は一夜培養菌を用いた場合、おおむね105個から107個で、一夜培養後何日か室温に放置した菌を用いた場合は十分の一ないし百分の一位に減ずるものであることがわかる。またジュースも同程度であろう。この菌数をもとにホーニックの実験結果をあてはめると喫食者の五〇パーセント以下三〇パーセント位が腸チフスに罹患するように推認される。したがつて、被告人の自白する方法による限り前認定のような本件の発症率七二パーセント位に及ぶには菌量が不足する。この率に到達するには108個前後の菌数が含まれていなければならない。

つぎに潜伏期の点は、発病日の明確な佐川の場合、八月六日の飲用時を基準にすると三日位になる。これはホーニックの実験例によると、109個位の菌数がなければならないから明らかに矛盾する。(稲川や清水は当日から、また石井節子、石井ミエは翌日から身体に異常を来たしているが、稲川はもともと腸チフスに罹患していないと判断される者であり、その余の三名の症状は赤痢の症状とも認められるので、この際問題にしない。)

検察官の主張によれば被告人を除くカルピス等飲用者一七名中一六名が腸チフスに罹患し、その発病日はおおむね一ないし六日というものである。しかし、それではホーニックの実験を含む現代医学の支持を受けることは困難であろう。検察官は相当の腸チフス菌量を人体に摂取させた場合は、必ず発病するものであり、濃厚菌量であれば潜伏期はいくらでも短くなると考えているが、少なくとも菌摂取直後から顕著な前駆症状があらわれる(稲川、清水の例)と前提しているが、同調できない。

なお、附言するに、腸チフス菌液を試験管に入れて運搬することは危険があり、特別な目的がないかぎり細菌取扱者が行なう方法ではない。人体実験目的で、「常に菌量を一定にさせる」ためであつたというのであればまだしも、この耐性菌を作るという目的は上述のように、あとで否定しているのであるから、菌液を作り細菌取扱者のしないような運搬方法を行なう必要はないはずである。捜査官の追及が至らなかつたかも知れないが、菌液をカルピスに注入したというのは合理性を欠く。被告人の犯行方法に関する供述は信用しがたい。

四 情況事実

(一) 本件カルピス事件が被告人の犯行によるものと推測され、捜査の対象となるに至つたには、健康管理掛長郡司医師の所見が重要な役割を演じたものと思われる。郡司医師の証言によれば、それはこうである。同人は八月六日から四泊五日の家族旅行に出て一一日出勤したところ健康管理掛員の半数位が病気で休んでいることを知つた。一〇日頃に掛員に対して行なつた検便の結果が、一二日頃判明し、多数の赤痢菌排出者が出た。はじめ、七月末に赤痢に罹患したことのある石井節子らからの接触感染ではないかと考えていたが、一六日同女から腸チフス菌が検出されたとき驚いた。ただ、同女のみがポツンと腸チフスであるというのは検査に誤があるのではないかと考えていた矢先、後述の「密告電話」〔(a)〕がつづき、同時に伊藤が典型的な腸チフス症状を呈したので、腸チフスと赤痢との混合感染があると思い至つた。しかし、感染源は見当つかなかつた。前に「相葉久男」〔(b)〕が腸チフスになつたことがあるが、医務課と接触がないし、はじめは石井がどこからか腸チフス菌を背負いこんできたのかとも考えたが、いろいろ思いめぐらすうち密告電話は被告人だという者もあり、八月二〇日頃頼みもしないのに、被告人が「カルピスのチフス菌に対する殺菌効果」〔(c)〕を報告してきたので、被告人が八月の奇病をひきおこした張本人との疑いを深めるに至つた。そのほか、被告人は伊藤の腸チフス罹患を早期に見ぬいたり、いろいろ不審と思える行動があつた〔(d)〕、というものである。

(二) そこで、右郡司の証言にあらわれた点を逐次検討してみる。このうち(a)および(c)は検察官が冒頭陳述で援用しているものであり、(b)については論告で論及しているものである。

(a) いわゆる密告電話について、

被告人は、八月一六日、伊藤由一方を訪ねての帰途、伊藤、妻沼、石井ミエが治療を受けていた医院三軒(長谷川医院、奥山病院、佐野医院)に医務課長の名をつかうなどして三名が腸チフスであるかのような電話をした。この事実は被告人も争わないところである。被告人は、同日伊藤の症状を診、妻沼については前日の一五日に同人をその入院先である奥山医院に見舞い、医師から病状等をきいていたが、石井ミエについては、医務課内で話をきいた程度で同女の病状についてくわしくは知つていない。もし、当時、腸チフスの発生が知られていない状況であつてその時に被告人がすでに腸チフスを予言した電話をしたとすれば、被告人の犯行を証明しうる有力な証拠となる。しかし、被告人が電話を掛ける以前に、石井節子の糞便から腸チフス菌が検出されており、また同一掛内で多数の者がほぼ同じくして発熱していたこと、被告人は、小林康弘が三島病院で腸チフスに罹患したため、腸チフスの症状を知つていたこと等をあわせ考えると、被告人が上記三名を腸チフスと考え、各医院に電話したことをもつて、被告人がチフス菌を投与したから知つていたとは即断できない。被告人はこの電話をかけた理由につき、捜査中は、これらの者の病気が重くなつたり、他に感染しないようにしたい(4.18検六五)、あるいは、正式に資料を出させようと思つた(4.27検五二6.10検四八)旨述べているが、これはその時どきの犯行動機と符節を合わせたものにすぎず、すでに検討したような、患者の病状をみたかつたとか、川鉄に対する不満をはらすために犯行をしたとの最終供述(6.10検四八6.9検四七)とは必ずしも符合しない(なお、右の6.10調書の内容は同一調書でありながらこの点に関し前後統一を欠いている)。公判廷では、伝染病をかくすのはいけないと思い、正義感から行なつたとの趣旨をも述べたが、それならば前記三名についてだけ、なぜ電話したのであろうか。被告人はかつて、実父の酒の密造についてさえ密告したことがある。また、犯行とはおそらく無関係と判ぜられる三島病院における小林康弘関係での密告電話の事実もある。電話で他人をおどろかせ、騒ぎをおこす奇妙な性癖があるのかも知れない。本件の電話は被告人が犯行をおかしたとの一抹の疑念を抱かせるものではあるが、石井節子に腸チフス菌の検出がみられた後のことであるため、必ずしも十分な根拠とはなしえない。

(b) 相葉久男の件について

相葉久男は川鉄工作熔接課職員である。十二指腸等の胃腸疾患があり、昭和四〇年一月から三月まで入院したり家で静養したりして、四月一日から出勤した、五月八日頃医務課で被告人の診察を受け、検便された。そして同月一〇日職場の班長から腸チフスだから入院せよといわれ、体の調子も悪くないので不審に思いながらも同月一一日君津中央病院に入院した。診察にあたつた和田医師は郡司から便検査の結果腸チフス菌が出たとの連絡を受けていたが、そのときの症状は熱はなく脈八二で正常、肝脾はふれなかつた。便培養からは腸チフス菌検出されず、またヴイダール検査も腸チフスを疑う数値ではなかつた。ただし、白血球は三、七〇〇であつた。その後五月二一日にもヴイダール検査を行なつたが、抗体価の上昇はなく、入院中のその他の諸検査はすべて陰性であつた。同月二九日退院した。

川鉄における検便は前記のとおり被告人が行なつたものである。相葉に終始腸チフスの症状が出なかつたためであろうか、被告人はこの件に関し捜査官から取調を受けた。そして次のように自白した。「赤痢の発生では会社は驚かないだろうが、腸チフスなら驚くと思い、そのため医務課がその菌を検出したことで優秀性も認められると考えて保菌者でもない相葉の検体を培地にとつて六研に持ち帰り、これに保管中の予研由来の腸チフスを穿刺し翌日川鉄に持参し、阿部技師とともに県衛研に赴いて確認してもらつた、(4.22員一九、7.2員一〇八)」なお、動機として「(その後の)生体実験をやるにしても全然患者の発生していないところに突如発生すると疑われるのではないかという気持と人事問題で多少頭にきていたときだつたのでデッチあげた(6.9検四七)」と述べたこともある。

しかし、検察官は、この件については監禁罪として立件したものの起訴猶予処分にしている。事実は認められるが、被告人には他に多くの犯行があつて起訴対象を拡大するのを避けるというのがその理由であつた。裁判所としては起訴されていないこの相葉の件については起訴事実に匹敵する程深入りして審理することはできないが、一応の関係証拠の取調は行なつた。しかし、その真否はついに確認できない。すなわち、この件については前記のような自白はあるが、真に相葉が腸チフスの保菌者でもなかつたかどうか不明である。同人は五月八日川鉄医務課での検査では白血球数が四、五〇〇で、入院時(五月一〇日)は三、七〇〇に減少していた。また、被告人の自供する動機・方法もすぐさま首肯できる程のものではない。

相葉の件と同時に熊谷長六ほかに対する監禁(昭和四〇年五月赤痢菌の検出がないのにあると偽つて熊谷ら川鉄職員を入院隔離させた容疑)についても検察官はほぼ同様の理由で起訴猶予処分にしているが、この容疑は相葉に対するものより、よほど薄い。したがつて、検察官の当時の認定はいずれも中間的なもので、相葉の件について起訴猶予の裁定があつたからといつてその事実を肯認するわけにはいかない。

結局、もし、相葉の件が被告人の自白するとおりであるとするならば、これは本件カルピス事件の伏線として重要性をもつ事実である。だが、逆に相葉が保菌者であつたとしたならば、本件の腸チフス罹患と結びつく可能性がないともいいきれない。検察官は前説を、弁護人は後説をとるのであるが、しかし、裁判所としては上述の如くその真否を確認することはできなかつた。

(c) 被告人によるカルピスの腸チフス菌に対する殺菌効果の実験について

この点に関する郡司の前掲証言内容は今井博子の証言にもあらわれている。

郡司は五月二〇頃はまだ発病者について腸チフスを考えていなかつたとか、カルピスを原因と考える段階ではなかつたとか供述し、したがつて被告人の報告は意外なものであつたというところがあるが、全体の趣旨に照らし措信できない。たとえ被告人の実験が独自に行なつたものとしても、カルピスを汚染した当の本人だからこそ実験結果を報告したのだと推量するのはかえつて道理に合わないことである。

(d) その他郡司が被告人の行動に不審があつたとみている点は、すべて単なる印象であり、さほど重視できるものではない。その証言内容や符五〇六、五〇七をみると川鉄としては本件前後の職員の発病に関し責任回避のため何もかも被告人におしつけようとしている感を免れない。

B 注射関係

被告人は、八月一六日に伊藤由一方を、九月一日石井節子方を訪ねて、それぞれ採血および注射をしたところ、両名とも即日高熱を出した。このことについて検察官は、被告人が、伊藤については採血の際、石井については注射の際に、腸チフス菌液を静脈に注入したためであるとして本件訴因の一部に含ましめている。

(一) まず、被告人の自白を検討する。

被告人は、この腸チフス菌液注射の件については、全事件を否認している段階ですでにその一端を供述した(4.10員一二)。そして最終的には二〇ccの蒸溜水に一白金棒分の腸チフス菌を入れた液を一cc位小試験管にとり、これを持参して注射器に入れ、それぞれ注入した旨(5.25検七〇)およびその目的は腸チフスの免疫をみたかつた(6.10検四八)と供述した。もつともそれまでの間の供述はたびたび変転している。すなわち、伊藤に関しては当初新しい採血方法の実験として胆汁液約一cc位を入れたまま採血した(4.10員一二、4.12員二四)といつて腸チフス菌液を用いたことには言及しなかつたが、その後敗血症をおこさせて医師に腸チフスを確認、届出をさせるため腸チフス菌混入のブイヨン一cc位を注射した(4.25員二七、4.27検五二)と供述したこともあつた。また石井節子に関しては、当初、何かわからない水のようなものを注射した(4.10員一二)といつて腸チフス菌液を用いたことには言及しなかつたが、その後腸チフスの症状を出させて医師に確認させるため汚い試験管に入れたブイヨンを注射したとか(4.19員二五)、腸チフス菌混入のブイヨン一cc位を注射した(4.25員二七、4.27検五二)と供述したこともあつた。

このような供述の変転自体、その信用性に疑いがもたれるが、内容についても合理的ではない点が多々みられる。左のとおりである。

(イ) 免疫を調べる目的とするならば、腸チフスが治癒している者に対してなされねばならないはずであるが、伊藤、石井に対し治癒したか否か調べもしていない。かえつて、伊藤については細菌検査のための採血を行なつて検査すらしている(郡司証言)。もちろん、当初に述べた胆汁を入れて新らしい採血方法を実験したなどとは空想としかいいようがない。これに反し、腸チフスの症状を起こさせて医者に確認させようとしたとの供述は、ありえない考えではないが、すでに発病後二〇日以上経過し、外見上は回復期にあり、また、腸チフス菌も検出されていた石井に対して、なぜそれまでしなければならなかつたのか不可解である。

(ロ) 被告人が伊藤、石井宅を訪問したのは独断で行なつたものではない。石井の場合は当日依頼されたものではないが、伊藤の場合は当日になつて郡司の依頼を受けて訪問したものである(郡司昭男および中村武信証言等)。菌液を作つた際に具体的に注射をする相手が定まつていることが不可欠ではないとしても、当日何びとかを訪問することがわからずに菌液を作ることが一体考えられるだろうか。

(ハ) また、石井に対する注射については、伊藤および清水が被告人の注射の直後発熱したことが健康管理掛で問題になつていた時期である。あえて石井に注射して発熱させるのは変である。

(ニ) 菌液を試験管に入れて持ちはこんだとの点は、カルピスの場合に比し本件が注射目的であつたとするのであるからその供述を必ずしも理解できないわけではない。しかし蒸溜水に腸チフス菌を混入したとの点はカルピス稀釈水の場合と異り(カルピスその他食品に使う場合は味覚の問題がある。)疑問の余地がある。細菌取扱者が菌液を作る場合、生理食塩水を使い、蒸留水を使うことは特別の目的のないかぎりしない。それは蒸溜水だと滲透圧の影響で細菌が溶解してしまうからといわれ、このことはその世界ではほぼ常識化している(もつとも実験の結果では、その影響は少ない<中谷鑑定>しかし、これはこの鑑定ではじめてわかつたことである)。そこで素人ならいざ知らず細菌を取り扱つている被告人が注射目的で菌液を作る場合に常識を破つてまで蒸溜水を使用したというのは疑いがある。

これらの諸点を考えると被告人の供述はにわかに信用し難い。

(二) つぎに、伊藤、石井証言を検討してみる。

(1) 伊藤の証言によると、被告人は採血の際黄色い液体を注射したという。しかし、右証言にはつぎの疑問がある。

伊藤由一および中村武信の証言によると伊藤は採血された当夜発熱の最中、健康管理掛の中村武信から電話を受け、興奮して被告人の悪口をいつている。ところがその電話の内容中、黄色い液体云々の話があつた形跡はない。伊藤は翌日蘇我病院に入院したが、入院のため運ばれる途中、意識もうろうとしているなかで「鈴木(被告人)にやられた」と口走つていたが、自己の発熱原因を被告人に求める余り、注射を受ける際黄色い液体があつたことを後日何となく思い出しただけで、実は明確な認識があつたわけではないのではなかろうか。

ところが、このあいまいな記憶がもとになつて捜査官の追及となり、自白に進んでいつた可能性がある。なお、弁護人は血液抗凝固剤のチトラートが黄色い液と見られたものというが、それは無色のチトラートに消毒用のヨードチンキがまじつて黄色を呈したと考えるわけであろう。しかし、消毒はヨードチンキよりもアルコールで行なつた公算が強く、右主張はそのままで信じがたい。しかし、それでもなお、伊藤の証言には上述のように不確かな面があることを否めない。

(2) 石井の証言によると、注射の際、石井が注射筒の中に白つぽく灰色がかつたような不潔な水約一ccか二cc位入つているのを認めて再三被告人に捨ててくれるように言つたが、被告人はそれを聞き入れないでグロンサン二〇ccを吸引して注射したという。しかし、被告人は匿名で電話するなど陰に隠れてしか行動できないような性格である。被告人が汚い水を指摘されながら注射を強行したかどうか。この点はともかくとしても、もし、石井が汚い水のことが頭にこびりついていて離れなかつたなら、石井としては郡司にその話を強調するのが自然であろうし、またこれを聞いた郡司としては被告人に対し詰問し追及しているはずである。ところが郡司は伊藤の件については詰問したと断言しながら、石井の件についてはあいまいで、詰問したと断言できるほどの記憶はない旨証言している。九月頃には被告人に疑惑を抱いていた郡司がこの点について記憶があいまいであるとは考えられない。結局以上を総合して考えると郡司は詰問などしていないと認めてよい。他方石井自身被告人を詰問、非難した形跡もない。石井の証言は全体としてきわめて具体的ではあるが被告人が新聞等で問題となつたため付会したものはなかつたであろうか、疑問なしとしない。

(三) なるほど、伊藤は注射および採血の後、三〇分か一時間後に発熱、嘔吐をし、翌日立ち上がれなくなつたが、発熱は採血のあつた夜だけであつて翌日には下熱しているのであつて、注射によるシヨックとも考えられる。また石井も注射後一時間後頃から悪寒、発熱をしたことは認められるが、それも当夜だけであつて翌日には回復している。当時同女が二〇日余りの病臥で体力が消耗していたことを考えると、注射によるシヨックとも考えられる。

現に、清水勇治は、八月一八日健康管理掛の治療室で塩月宇太夫とともに被告人に栄養剤(ビタミンB1・C、チオクタン、ブドウ糖)の静脈注射を受けた直後めまい、戦慄、嘔吐をひきおこし、高熱となつた。しかし、これは被告人の悪質な行為に起因するとは毛頭思われず、注射によるシヨックと推定されていたのである。伊藤、石井もまた同様の現象が生じたにすぎないと考える余地は十分あるのである。

C まとめ――とくに赤痢発症と関連させて

一 本件ではカルピス飲用による被害者とされている者一六名中一一名が赤痢に罹患したと認められる。これらの者については赤痢菌が検出されていたにもかかわらず、検察官はこの点を全く不問に付し、したがつて、本件訴訟の過程でその赤痢の感染経路あるいは発病日については何らの主張もしなかつた。おそらく赤痢の感染経路を腸チフスのそれと異ると判断したためであろう。そして、これは被告人が終始本件やかんの冷却水に赤痢菌を入れたことはない旨供述していること、および当時健康管理掛内で赤痢に感染する機会はありえたことに基づくものと臆測される。

たしかに、川鉄では、昭和四〇年五月および七月に集団赤痢が発生したほかに、八月にも厚生施設職員中に集団赤痢があつた。さらに本件被害者とされる石井節子および黒川仁太郎は、七月二〇日頃赤痢菌が検出されていたが勤務をつづけていた。そのうえ、健康管理掛に勤務していた者は、防疫、検便作業等に携わつていたので、これから考え、本件被害者とされる者らが赤痢に感染する機会は十分あつたと考えられる。

しかし、これらの大部分は本件カルピス飲用直後一せいに発病している。同じ医務課の他の掛には全く発病はなく、また健康管理掛員の共通食として適当と考えられるものは証拠上カルピスだけである(審理の過程で「最中」が問題となつたが、証拠調の結果、これは健康管理掛員の発病がはじまつた後の八月九日に喫食したものであつた。そして、これを食した水道部事務掛の三浦吉昭がその後赤痢に罹患しているが、この「最中」が原因かどうかはわからないし、健康管理掛の者でこれを喫食しなかつた者も赤痢になつている)。したがつて、一、二を除き同掛員の赤痢は単一暴露で共通感染源は本件のカルピスと考えるのはかなり合理性をもつている。七月に石井節子、黒川らが感染したのもカルピスと推定されていたのである。ただし、若干の疑問はある。その一つは、今井博子から検出された赤痢菌はフレキシネル菌でその他の者のソンネ菌と菌型が異つていることである。しかし、同女はすでに別の経路で保菌していたと考えれば説明がつかないわけではない(集団流行の場合、異別の菌型がまじることはしばしばあるといわれる)。その二は、一一名の赤痢の罹患者を出すほどの菌量がカルピス稀釈液内にあつたかどうかである。飲料水や氷に欠陥があつたことは他の発病者が出ていないことからも否定されるが、この直前赤痢菌の検出のあつた石井節子がカルピス用の氷などを扱つたからというのも菌量の点から否定するのが筋道のようである。そうすると、赤痢の原因も単純な形では確定できない。そこで、脹チフスの発症も含めて被告人の犯行によるもの、すなわち被告人が腸チフス菌(ただし、本件で自白している菌量よりもつと大量のもの)と赤痢菌とを同時に投与したとの仮説をたてれば氷解するが、被告人は赤痢菌投与の点は絶体にやつていないと否定し、捜査官もその追及は断念し、腸チフス菌投与の自白のみを採用した。したがつて、本件被害者とされる者らの赤痢の一せい発病の原因はあいまいなままになつている。しかし、赤痢の原因を不明とし、あるいはカルピス以外に原因があるというのであれば、同じく腸チフスについても原因は不明、あるいは他に原因があるというべき可能性を否定できないのではあるまいか。ただ、腸チフスについては被告人の自白がある。そして赤痢については当時川鉄に流行があつた。この二点に違いはある。しかし、被告人の供述する方法では本件の腸チフス発症を惹きおこすには無理なことが判明した。他方、川鉄に流行した赤痢患者のなかに腸チフス患者ないしその保菌者が全くなかつたかどうか。当時川鉄の検便は、もつぱら赤痢菌の有無を判別することに重点をおき、便培養の結果赤痢菌の疑いのない細菌が認められても、多くの場合、それが腸チフス菌などの病原菌であるかいなかについて検査していなかつた模様であるので(阿部忠雄および石崎礼三証言。なお、石井節子の腸チフス菌も偶然発見された状態であつた――前述)赤痢罹患者および保菌者中腸チフスの保菌者がいながらこれを見過ごしていたことも考えられないではない。そうすると、本件で同一時期に同一グループの間に赤痢と腸チフスの患者が別異にあるいは重複して発生したことを一の流行現象として説明できることになる。これは単なる推測にすぎないものであるが、しかし、検察官が赤痢の同時発症を十分説明しない以上捨て去ることのできない推測である。

二 本件には冒頭でも述べたような厳密な認定を阻む背景が存し、事案も錯雑していた。しかるに、これに対処した検察官の起訴は証拠、とくに自白内容の十分な吟味と本件をめぐる状況、とくに赤痢発症関係に対する十分な整理に欠ける恨みがある。本件が被告人によつて犯されたものでないかと疑わせるもので片鱗が全くないとはいわないが、しかし、いま右に説示したような不分明な条件のもとで、裁判所に対しカルピス関係の公訴事実の肯定を求めるのは無理である。

そして、伊藤、石井節子に対する注射関係は多分に架空じみている。

川鉄カルピス事件については、証明不十分と判定する。

第四  千葉大関係事件

A 千葉大バナナ事件

(はじめに)

ここで検討すべきことは、もちろん千葉大バナナ事件の訴因の成否であるが、その過程においては、犯行動機の問題、バナナに対する腸チフス菌の付着方法あるいはバナナ内における同菌の生存の問題、千葉大ないし三島病院における腸チフスの流行の問題などの諸点において、以後述べていく他の訴因と共通する点が多い。このため、それら共通点については、この「第四A」の各該当個所で、他の訴因に関する分も含めて一括して論ずるものとする。

一 芦沢看護婦らのバナナ喫食と腸チフス罹患

(一) 芦沢勝江、秋葉美代子、柿崎槙はいずれも一内勤務の看護婦、林睦子は千葉大肺癌研究所勤務の看護婦で、ともに千葉大付属病院看護婦宿舎晴暉寮に居住していた。

昭和四〇年九月五日、芦沢および秋葉は、午前八時三〇分から午後一一時まで一内に勤務していたが、同日午後一〇時頃、当直医であつた被告人が看護婦の処置室にきて、芹沢にバナナ六本以上を渡した。芹沢と秋葉は、右のバナナを二本ずつ取り、残つたバナナを同日午後一一時頃深勤務の柿崎および斉田美津子(一内看護婦・自宅から通勤)に渡した。柿崎および斉田は、これを冷蔵庫にしまい、翌朝勤務が終るとき一本ずつ持ち帰つた。

芹沢はバナナ二本を寮に持ち帰つて九月六日朝食べた。秋葉は、九月五日午後一一時前頃、バナナ一本を食べ、残りの一本を寮に持ち帰つて、九月六日朝、右バナナを使つて野菜サラダを作り、同室の林睦子と一緒にこれを食べた。柿崎は、九月六日午後三時頃、寮で右バナナを食べた。斉田はバナナを自宅に持ち帰つて、皮をむいたが色が悪く腐つていたので、食べずにくずかごに捨てた。

(二) 芹沢、秋葉、柿崎、林は、いずれも、九月一一日、晴暉寮で六研福永和雄の診察を受け、同日血液検査をしたところ、一三日腸チフス菌が検出されたため、千葉大付属病院伝染病病棟に収容された。

(1) 芹沢は、九月八日倦怠感を覚え、九日から一五日まで三七度台から四〇度位の熱がつづき、その後平熱になつた。一〇月一八日退院した。

(2) 秋葉は、九月六日午前六時頃から夕刻まで下痢があつた。そして九月八日午後に発熱し、一三日まで、三八度位から三九度五分位の熱がつづき、その後平熱になつた。一〇月四日退院した。

(3) 柿崎は、九月八日頃から全身倦怠感がつづいたが、一〇日に頭痛、夜三八度以上の発熱があり、一四日まで、三七度五分から四〇度をこす熱がつづいた。その後平熱になり、一〇月四日退院した。

(4) 林睦子は、九月一〇日夜頭痛、三九度三分位の発熱があり、一五日まで三七度以上四〇度位の熱がつづいた。一六日から平熱になつた。一〇月四日退院した。

右の四名は、熱型、脈搏、白血球数、その他一般症状および腸チフス菌の検出されたことから腸チフスに罹患したことは明らかである。

(三) 被告人の供述

このように、被告人から貰つたバナナを喫食した四名が腸チフスに罹患している。

一方、被告人は、そのバナナに腸チフス菌を付着させた旨自白している。そこで、この自白が信用できるかどうかが本件公訴事実の大筋を決することになるのはいうまでもない。被告人は、本件千葉大バナナ事件につき、昭和四〇年四月一三日、カステラ事件、カルピス事件とともに最初に概括的な自白を行なつた(員一一)。そして、一度具体的に自白(4.16員二九)をしたが、その後しばらくは自白か否認かあいまいな供述が介在し(5.5検六七、5.14検六九、5.19検五六)、六月二五日から再び詳細な自白がつづく(5.25検七〇、5.27検五七、6.1検七一、6.9検四七、6.22検七二)。しかしその自白の内容は、必ずしも一貫しているものではない。以下犯行の動機、犯行の方法にわけて、被告人の供述を検討する。

二 犯行の動機に関する自白の検討

(一) 人体実験目的について

(1) 一般

(イ) 被告人は千葉大バナナ事件を含む腸チフス菌による犯行について、しばしばそれは人体実験目的であると供述しているが、これはほぼ三つの段階にわけることができる。はじめは

(ⅰ) 腸チフス菌を喫食させ、発病者から生ずる細菌の薬剤耐性を調べる目的(4.27検五二、4.29員四)、すなわち、クロマイ耐性腸チフス菌を喫食させ、発病者から出た腸チフス菌株を集めてクロマイ耐性を調べる目的(5.25検七〇、5.27検五七)から行つたものであると供述していた。ところが、次に

(ⅱ) 単に腸チフス菌株と温度表を入手する目的であつた(6.5検七三)と述べ、最後には

(ⅲ) 潜在的には人体実験という気持もあつたが、それより私(被告人)の性格である人を困まらせるという気持のあらわれであつた(6.11検五一)と犯行動機を転換させている。(なお、(ⅱ)と(ⅲ)との間に、川鉄カルピス事件については、はじめての実験なので症状を見たかつたとの供述があることについては第三で説示した。)したがつて、人体実験目的は、取調の経過とともに次第に希薄化しているのであるが、検察官は冒頭陳述においては、いたつてこれを重視し、本件の主要動機にあげていた。右(ⅰ)の段階で被告人が述べていた人体実験目的とは具体的には次のようなものである。すなわち、自分がかねてから研究をつづけてきた赤痢菌の薬剤耐性はすでに論じつくされたと感じていたところ、昭和四〇年春の日本伝染病学会総会で中谷林太郎博士らによる耐性腸チフス菌の研究発表があり、非常に興味をもつた。そこで自分も腸チフス菌の研究をはじめようと思いついたが、自然発生による腸チフス菌株の収集は困難であるうえ、その菌株では耐性値が少なくて興味がないから人体実験を考えた(5.27検五七)、というものである。

(ロ) しかし、被告人は昭和四〇年一月から毎月、川鉄給食関係者の検便を行ない、大腸菌などを集めてその変動を調査していた。そしてこれは、昭和四一年五月に学会で発表予定のものであつた。また、被告人の昭和三九年および四〇年に学会で発表していた赤痢菌および大腸菌の薬剤耐性の研究は、右両菌の薬剤耐性パターンを比較して赤痢の再発を予測することであつて、それ自体研究がしつくされていたとはいいがたい。被告人が腸チフス菌の研究に移行すべき特段の事情はなかつたはずである。現に、被告人は昭和四一年一月に国立予研の中村明子技官に赤痢菌および大腸菌の薬剤耐性伝達についての教えを乞う手紙をだし、国立予研に赴いた際、中村技官から直接教えをうけている状況であつて、赤痢菌および大腸菌の研究をなお継続していたと認められる。また、本件がクロマイ耐性腸チフス菌を調べる人体実験の目的でなされた犯行であるならば、その目的にそう行動がなければならないが、この点について、被告人は一たん、投与した腸チフス菌の剤耐性値を一定に高める操作をしたような供述(5.25検七〇、5.27検五七)をしたものの後にこれを否定している(6.11検五一)。実際、被害者とされた者から検出された腸チフス菌の薬剤耐性値は低く、耐性値を高めた痕跡もない。なるほど、被告人は千葉大バナナ事件当時みずからも関与して検出した一三名(本件の四名も含む)の菌株を、六研室長福永からつぶせと命じられていたのに、ひそかに保存していた事実があり、これを研究に利用したいとする意図があつた疑いはある。しかし現実にはただ植えついでいただけで、本件の捜査に至るまで(国立予研大橋技官の依頼によつてその菌株を交付した以外)何らの研究調査にも着手していないのであつて、この事実だけから人体実験意図を推測するわけにはいかない。そして、千葉大バナナ事件以外の、たとえば親族関係、三島病院関係事件等については自身の手で菌株を集めうる機会は十分あつたにもかかわらず全くこれをしていないのである。

これらを考えると、被告人が人体実験の目的で犯行に出たとは到底認めることはできない。検察官が論告においてこの人体実験目的をみずから否定せざるをえなかつたのは無理もないことと思われる。

(2) 千葉大バナナ事件に関する被告人の犯行動機の供述については、右に検討したほか、とくに付加するものはない。

(二) 不平不満等について

千葉大バナナ事件の動機について考える。被告人は、当初、当日他の研究室の大学院生が、六研の実験室の機材を使つているのをみて、チフスに罹患させれば実験室に寄りつかないと考え、また大学院生が学位取得上優遇されていることに対する不満もかさなり、同人らを腸チフスに罹患させるためにバナナに腸チフス菌を付着させたが、同人らに渡す機会を失い、処置に困つて芦沢看護婦に渡した(4.16員二九、なお5.5検六七)と述べた。被告人が大学院制度や研究生制度に不満を抱いていたことは得心できる。しかし、だからといつて大学院生に腸チフス菌入りのバナナを喫食させるというのは余りにも突飛な発想だし、それはさておいても大学院生に渡す機会を失つたからといつて、捨てたり、他にひそかにかくしておく等の処置をとらずただちに看護婦にくれてやるという点はもつと納得できない。ただ、千葉大に対し不満があり、また人を困らせる気持(6.11検五一)が昂じたというのならば、一つの犯罪心理として考えられないではない理由であるが、被告人が本件を犯したこと(行為自体)の証明のためにはさほど価値あるものではない。

三 犯行方法に関する自白の検討

(一) 菌を付着させる方法一般

バナナを使つての事件は千葉大バナナ事件のほか、親族関係事件、三島バナナ事件があり、バナナに腸チフス菌を付着させる方法等はいずれも共通するものであるから、他のバナナ事件の場合のことをも含めて、この点に関する被告人の供述を検討する。

(1) 被告人は最初の自白では、腸チフス菌を混入した水液を試験管に入れてバナナに滴下散布した(4.13員一一)といつたが、つぎに、白金棒で中試験管寒天斜面培地の腸チフス菌を削りとり、一回削りとつた白金棒(以下、一白金棒分という)でバナナ二、三本位の割合で穿刺した(4.16員二九、4.20員三一、5.3員三二)と説明した。それが、さらに腸チフス菌液を穿刺した旨の供述に変わるのであるが、腸チフス菌液の作り方自体の供述も多様に変化している。供述調書の日付順にたどつていくと、最初は

(ⅰ) 二〇cc蒸溜水アンプルにクロマイ一ミリグラムを入れ、それに中試験管寒天斜面培地のチフス菌一白金棒分を混入した腸チフス菌液を作り、この菌液一白棒分をバナナ二本位に対し穿刺した(5.25検七〇)といつているが、

(ⅱ) 二〇cc蒸溜水アンプルに中試験管寒天斜面培地で順次クロマイ耐性を高めておいた腸チフス菌一白金棒分を混入した菌液を作つて、この菌液一白金棒分をバナナ二、三本位の割合で穿刺した(5.27検五七、6.1検七一)、となり、それが最後には、菌液を作る際の腸チフス菌はクロマイ耐性を高めたものではない、いままで目的を人体実験といつていたため、クロマイ耐性菌を入れたように話したほうが説明がつくと思つて、人工的に耐性を高めたと供述していたが、これは違う(6.11検五一)、二〇cc蒸溜水アンプルに、普通寒天斜面培地に植えついできた腸チフス菌一白金棒分を混入して菌液を作り、この菌液一白金棒分をバナナに穿刺したものである(6.20検七五)と猫の目のように変つている。

ところで、腸チフス菌液を犯行に使つた旨の供述には、

(ⅰ) クロマイ耐性を高めたという明らかな事実に符合しない供述がある(前述)ほか、バナナに腸チフス菌を穿刺するためになぜわざわざ手数をかけて菌液を作らねばならなかつたのか、その菌液を作るために細菌取扱に習熟していた被告人がなぜ生理食塩水ではなく蒸溜水を使つたのかに疑問がある。

(ⅱ) 菌液に関する供述は、人体実験目的での犯行を明確に供述した際になされ、それは、「常に菌量を一定にさせておいた」旨の供述(5.25検七〇)と結びついて供述されているのでその限りでは一応合理的のようである。しかし、よく考えてみると、第一に、白金耳で菌をかきとるのではなく白金線でかきとるのではそもそも均等の菌量がかきとられるものではないし、第二に、喫食者の摂取する菌量もさまざまとなつて、被告人のいうような菌液を使用したからといつて菌数を一定にするという目的が達せられるはずもなかつたものである。しかも、

(ⅲ) その後はつきりした人体実験目的はなかつたと、これを否定するに至つてもなお菌液を使つた旨の供述が残つているのは被告人の供述の信用力を著るしく減弱させる。

その点、培地から削りとつた腸チフス菌を直接バナナに穿刺した旨の供述には、少なくとも菌液を穿刺したとの供述にみられる右(ⅰ)のような疑点はない。そして、この方法のほうが菌液の場合にくらべバナナに相当多数の腸チフス菌を生存させる。したがつて、被告人の人体実験目的をみずからしりぞけ、菌液穿刺では腸チフスの発症に必要な腸チフス菌の生存に疑いをもつた検察官が、直接穿刺の択一的訴因を追加したのはやむをえない措置であつたかも知れない。だが、この腸チフス菌を直接穿刺した旨の供述は、被告人が捜査の初期の段階に司法警察員に供述したもので、その後検察官の取調の段階で菌液使用の供述に変わるとともに捨てて顧みられず、もちろん何の吟味も加えられないまま放置されていたものである。総説(第三B)でも説いたように、直接穿刺の供述を信用できる何の担保もない。最も初期のチフス菌液をバナナに滴下散布した旨の供述(これが具体的にどのようなことをいおうとしたのか不明)と同様、直接穿刺説が十分立証されているとはいいがたい。

(2) なお、検察官は、直接穿刺の訴因を追加するにあたつてバナナ一本あたりに二個所位ずつ穿刺した旨主張した。しかし、被告人は直接穿刺の供述をしているときでも、また菌液穿刺の供述に変わつてからでも、上述のとおり一白金棒でバナナ二本ないし三本位に刺したと述べているだけで、バナナ一本に二回以上穿刺したと述べたことはなく、したがつて検察官の右主張にそう証拠は全くない。被告人がバナナに腸チフス菌またはその菌液を穿刺し、その結果バナナ喫食者らが腸チフスに罹患したことが明白な場合であるならば、たとえ被告人がバナナに一回しか穿刺していない旨の供述をしていたとしても、これを信用せず数回穿刺したと認定しても証拠法則に反しないであろう。だが本件では、右のような前提の明白さを欠く以上、証拠の全くない数回穿刺を認定することはできないといわなければならない。

(二) バナナに生存する腸チフス菌の菌数

(1) 千葉大バナナ事件につき、被告人の供述によると、被告人は、九月五日当直勤務で、夜研究をつづけていたが九時三〇分頃、バナナに腸チフス菌を付着させたというものである。そして芹沢らは前認定の時刻にそれぞれバナナを喫食しているので、この各喫食時バナナ(肉質部)にどれ程の腸チフス菌が生存するかを中谷、善養寺鑑定によつて概数を算出してみる。(鑑定は白金線で連続して三本のバナナに穿刺した実験を行なつたが、穿刺の順序によつて菌数に大きな差は出ていない。)

そうすると、

(a) 腸チフス菌液穿刺の場合、四名について、一夜培養菌を用いた場合でも108個位になる。

(b) 直接穿刺の場合は、供試菌の培養条件と菌入のバナナを放置した時間によつて生存菌数がやや異るが、四名についておおむね、芹沢、秋葉、林は105〜107個、柿崎は106〜107個位である(喫食したバナナの本数は大勢に影響ないと思われる)。

(2) 発症率・潜伏期

そこで右の菌数をもとに、ホーニックの実験結果等をあてはめると、

(a) 菌液穿刺の方法では、四名をして腸チフスを発症させるに必要な菌数ではないことは明らかである。

(b) 直接穿刺のバナナであれば、腸チフスの発症はありうるが、喫食者全員が発症する程の菌数ではない。しかも、喫食時から発病日までを仮定の潜伏期として、ホーニックの実験例と対照すると、ほぼ三日間での秋葉の発病は早やすぎる。芹沢についても最も条件にめぐまれなければ四日間での発病はありえないと思われる。

そうすると、被告人の犯行方法に関する自白には疑問が多い。

四 千葉大における腸チフス等の流行

(一) 千葉大バナナ事件と同時期の腸チフス罹患者

千葉大バナナ事件においては、被告人からもらつたバナナを共通に食した四名が時を同じくして腸チフスの発病をみた。しかも、そのうちの林睦子は、一内看護婦ではなく、病棟を異にする肺癌研究所の看護婦であつて、一内と直接接触はなく、ただ晴暉寮で同室している秋葉とバナナを一緒に喫食したことが唯一の接点である。とこう考えれば、疫学上の例外例に該当するかのように見受けられる。検察官はまさにそう考えるのである。しかし、四名ともに同じ晴暉寮に居住していることに着目すれば、果して厳密に例外例といえるか問題であるが、この点はしばらくおくとしても、この四名の共通感染源をバナナに求めるには、バナナを喫食しなかつた者には腸チフスに罹患した者の無いことを確定しておかなければならないのが疫学上の原則である。しかるに、千葉大バナナ事件の被害者とされる者四名の入院とほぼ同時頃に一内医師林学(発病九月七日頃)、一内看護婦斉田美津子(発病九月一一日頃)、一内看護婦助手大網節子(発病九月八日頃)、看護学校教員上遠野一子(発病九月一一日頃)、付属病院用務員鳴海健次郎(発病九月一〇日頃)、斉田と同居していた長女斉田公子(当時一年一月。発病九月一一日頃)および実姉白鳥きみ(発病九月一三日頃)、鳴海と同居していた妻鳴海まつ(発病九月一〇日頃)および山田晴彦(当時四年。発病九月七日頃)の九名が腸チフスに罹患した(菌検出)。これらの九名は芹沢ら四名と同じバナナを喫食した者ではない。したがつて林が例外例というのはあたらぬといわなければならない。

もつとも、このうち斉田美津子は、被告人が芦沢にやつたバナナを一本貰いうけて自宅に持ち帰つたが、皮をむいてバナナの先をちぎつただけで捨ててしまい、手を布巾でふいた。そして白鳥がこの布巾でテーブルをふき、また斉田公子がテーブルに手を触れることがあつた。その意味で被告人と関連がないわけではない。それにもかかわらず検察官は斉田公子、白鳥はともかく斉田美津子をバナナ事件の被害者とはしていない。立証に確信がなかつたためであろうか。ということは他に腸チフス感染の機会を想定しうるからということになりはしないか。さらに、ここで、重視しなければならぬことは大網節子の発病である。同女は、芦沢、秋葉、柿崎と全く職場を同じくしている(ただし、晴暉寮に住んでいるのではなく、自宅から通勤していた)。ところが、九日七日下痢(一回)があり、八日から発熱し、結局腸チフスと診定されたのである。その原因は全くわからない。芦沢が本件バナナを被告人からもらつた当日の朝、一内看護婦勤務室に退院患者の田中和子が「武蔵野」製の菓子二折をお礼においていつた事実があるにはあつた。これらは秋葉、芦沢、大網、中村ますその他の看護婦らがわけているはずであるが、第一に、大網、中村以外の者が食べたかどうか不明である。第二に、右中村や同女および大網が持ち帰つたのを食べた家人等からは腸チフスの発病者はいない。そのほか、大網の潜伏期(三日しかないことになつてしまう)、および前述の林睦子の発病のことも併せて考えると、この菓子が一内の看護婦を腸チフスに罹患させたとはいいえない。しかし、同じ一内の看護助手である大網が発病していることに照らせば、バナナ以外に必ずや腸チフスの感染源があつたと断定できる状況にある。

他方、鳴海健次郎およびその一家の罹患については、被告人がバナナを芦沢に渡した頃、やはり被告人がカステラ類を渡したのではないかという疑いをもたれたようであるが、確証はつかめていない(鈴木美夫証言。なお4.16員二九は内容がなく、中村ますの供述調書<検>の内容は鳴海が同女からまんじゆうを貰つたとの風評を否定するものにすぎない。結局、この点については捜査官は追及を断念したとしか思われない)。また上遠野は、職場も異なり、他の罹患者と物の授受はなく、被告人との接触もない(ただ秋葉らと寮が一緒で、炊事場等を共通にしているだけである)。林学に至つてはその感染原因は全く立証の外におかれている。このように考えてくると、被告人との接触に関係なく腸チフスの流行が千葉大内部に存在したと目するのが相当である。検察官は、論告において、同時期罹患者の九名については「被告人に濃厚な容疑はあるが、捜査を尽くしてもこれを被告人の行為と断定するまでの証拠の収集にはいたらなかつた」というが、斉田関係や鳴海関係は別としても大網や林学などの発病について一体どのような容疑を考えていたのか一切不明である。すべてを一元的に被告人の犯行に求めるならばあるいはその限度での説明がつくかも知れない(この点については山岡検事の証言参照)。しかし、捜査を尽くしても容疑を確かめることができなかつたのであれば公訴事実の証明責任を負う検察官としてはその容疑を援用することは許されない。しかも、かえつて、当時千葉大には別の感染ルートの存することを徴憑する多くの発病者や保菌者が存在するのである。項を改めて、次の(二)で詳細に論ずることとするが、千葉大バナナ事件についていえば、その(1)に掲げるところが、とくに重要である。このような状況であるのに、すなわち千葉大バナナ事件当時、千葉大一内では腸チフスに感染の機会は潜在していたとみられるのに、検察官は芦沢ら四名の腸チフス罹患を被告人の渡したバナナに原因があると主張しているのである。しかし、これを原因だとするに至つたのは、腸チフスの潜伏期を軽視し、九月一三日に入院した腸チフス罹患者中、看護婦、用務員の接点が九月五日らしいということから、九月五日を暴露日とし、その日の共通食の中に被告人のバナナがあつたゆえに、これを原因食ときめてしまつたにすぎない。食品以外の媒介物などの追究はなんらなされていない。捜査官は独断に陥りすぎたとの評を免れないであろう。

(二) 腸チフスおよび不明熱性疾患患者等の存在

千葉大では一内を中心にして、昭和四〇年八月から昭和四一年三月までの間、本件起訴にかかる千葉大バナナ事件、焼蛤事件およびみかん事件の各被害者とされている者ほかにも腸チフス罹患者、有熱の発病者、そして腸チフス菌の検出された者が多数あつた。しかし、千葉大では、これらを隠蔽し、秘かにクロマイ等を配布服用させ、また保健所などにも報告を怠り、あるいは虚偽の報告などした。そして、その間隠蔽に伴う当然の帰結としてほとんど対策を講ぜず万全の防疫措置をとつていない。

時を追つて考察する。

(1) 千葉大バナナ事件前後

千葉大バナナ事件前の出来事として、被告人と同じ一内六研の佐藤重明および小林康弘両医師が腸チフスに罹患している。そして右両名はその後、昭和四一年三月、佐藤は腸チフスの疑い、小林は腸チフス保菌者として、被告人と一緒に葛城病院に収容されたことは前にも述べた。また、千葉大バナナ事件と同時期に、九名が腸チフスに罹患し、本件被害者とされている者と一緒に千葉大付属病院伝染病病棟に入院したことのほか、その頃、検便の結果腸チフス菌が検出された者が七名あり、その他九月中に三名の発熱者があつた。

(イ) 佐藤重明および小林康弘の発病

佐藤重明および小林康弘は被告人と同じ六研に所属していたが、ともに、三島病院副院長松田正久に頼まれ、昭和四〇年七月、各三日間、同病院を手伝うことになつた。

(a) 佐藤重明について

佐藤重明は、昭和四〇年七月二五日夜、三島市内に着き、ひしや旅館に泊つた(二五日、二六日被告人と同宿)。そして、二六日から三島病院内科の患者の診療を行なつていたところ、二七日午後から倦怠感を覚え、同夜半から二九日まで下痢がつづいた。佐藤は、二八日に千葉に帰つてきたが、八月二日、千葉県下の鶴舞病院勤務中に発熱、翌三日から同病院に入院、同月一一日まで三七度五分から三九度余の熱がつづき、六研での胆汁検査によつて腸チフス菌が検出された。同年九月二八日退院、自宅で静養後、一〇月二〇日頃から千葉大で研究をつづけるようになつた。ところが、昭和四一年三月二日頃、咳、腹痛とともに発熱(三八度位)した。そして、ヴィダール反応検査の結果、腸チフスの疑いがあるとされ、同月一四日葛城病院に収容され、四月七日退院した。

(b) 小林康弘について

小林は、昭和四〇年七月二八日午後、三島病院を訪れ、ひしや旅館に泊つた(被告人も同宿)。翌二九日、三島病院内科で診療に携わつたが、夕刻から倦怠感を覚え旅館に戻つた。三〇日未明から下痢するようになつた。同日も一応診療に就いたが、微熱および倦怠感があつて、午前中に、当直室に臥せつてしまい、そのまま同病院に入院した。八月になつて、いつたんは右症状は治つたが、同月三日に頭痛および発熱し、三八度から三九度位の熱が一〇日間つづいた。その間腸チフス菌が検出された。同人は、同月二八日退院したが、三〇日、千葉大で実施した胆汁検査の結果、腸チフス菌らしい菌が検出されたため、大腸炎の名目で千葉大付属病院伝染病病棟に入院した。そして、同月一七日退院、一一月中旬まで自宅療養した後、六研で研究をつづけた。その後、昭和四一年三月、検便の結果腸チフス菌の検出があつて、同月一四日葛城病院に収容され、四月七日退院した。

小林の腸チフス罹患について、当時三島病院および千葉大とも腸チフス菌を検出していた。ところが、三島病院、千葉大ともに、保健所に届出なかつたのみならず、積極的にこれを隠蔽した。

三島病院では、当時集団赤痢があつて、病院の信用が低下していたこと、および小林が千葉大から手伝いに来た者であつて千葉大に対する配慮などの事情があつて、秘かに小林を治療していた。ところが、保健所にに電話でこれを知らせる者(これは被告人であることが後日判明)があつて、三島保健所が三島病院に立入り検査をして、小林の入院していることを発見したが、三島病院では、小林は敗血症であると強弁して、腸チフスであることを最後まで隠し、後に診療録も改ざんしてしまつた。

また、千葉大は、小林の胆汁検査の結果、同人がまだ腸チフス菌を保菌していると判断して同大学付属病院に入院させた。しかし、診断名を大腸炎とし、一般病棟入院を装い、実際には伝染病棟に入院させ、千葉大バナナ事件の被害者とされる秋葉ら四名を含む腸チフス罹患者を伝染病病棟に入院させた翌九月一四日、小林を一般病棟に移すなどして、九月一七日同人を退院させた。

(c) 佐藤および小林の腸チフス罹患について、その発病経過は必ずしも明らかでない。そして、何時、何処で感染したかも不明である。佐藤および小林は、七月初旬から互いに接触のなかつたこと、二人が三島に赴いて発病していること、次で明らかにするように、この二人が宿泊したひしや旅館の従業員から、赤痢菌が検出されていること、二人を担当した女中山本君子が佐藤の滞在した頃、倦怠感を訴え、その後に高熱をだしたことなどを考えると、三島での感染の可能性も否定できないが(そして捜査官は、一時佐藤、小林と同宿した被告人に原因がなかつたかと疑つたようである)、腸チフスの自然感染の場合の潜伏期(七〜一四日)から考えると、三島での感染よりもむしろ、千葉大で感染した可能性がつよい。

なお、ここで(繁雑にはなるが)、小林および右山本君子にまつわる密告電話について、一まとめにしておく。

前述のように昭和四〇年八月、三島市内のひしや旅館の従業員が赤痢に罹患し、また千葉大小林康弘医師が三島病院に応援にきて腸チフスに罹患したが、被告人は、これらの事実を保健所等に偽名を使つて電話で知らせた。すなわち

(ⅰ) 被告人は、八月五日午後六時頃、三島保健所に柴田と名乗つて「ひしや旅館の女中が赤痢にかかり三島病院で加療中であるが、同旅館の一室に隔離して、隠蔽しようとしている」旨電話した。

この結果、三島保健所は三島病院およびひしや旅館を調査して同旅館の一室に病臥していた女中山本君子を赤痢と臨床決定して隔離、検便の結果他に同旅館従業員五名から赤痢菌を検出これを隔離した(弁護人は、この事実および右山本君子が赤痢以降、高熱、倦怠感等が長くつづき、脱毛したことなどから、山本君子は腸チフスに罹患していたとし、ひしや旅館が、千葉大関係事件および三島関係事件の原因である旨主張している。しかし、山本君子を腸チフス罹患とする前提に疑いがあるほか、かりに腸チフスに罹患していたとしても、他のひしや旅館宿泊者などから腸チフス罹患者が出ている事実のないこと、および同旅館に宿泊した佐藤および小林の腸チフス感染の機会を同旅館とすることは潜伏期間の点で疑問であること、に照らし弁護人の主張にはしたがいかねる)。

(ⅱ) 被告人は八月七日午後四時三〇分頃、三島保健所に対し、東京都立荏原病院職員青山と名乗り、「田中良行という者が七月二七、二八、二九日ひしや旅館に宿泊したが、同人は、八月六日来院したところ赤痢菌が発見され、七日には血液培養の結果腸チフス菌が検出された。ひしや旅館に同宿していた医師小林が発生源ではないかと思われる」旨電話した。

(ⅲ) 被告人はさらに、八月一三日、三島保健所に、三島病院入院患者山田幸雄と名乗り、「内科病棟に小林が腸チフスで入院しているが、便器を一般患者の便所で洗つている。不潔であるから注意してほしい」旨電話し、さらに静岡県衛生部にも同旨の電話を掛けた。

この結果、三島保健所は、三島病院を調べ、小林康弘が同病院に入院していることを確認したものであつた。これらの密告電話は、丁度被告人が川鉄カルピス事件関係で密告電話をした直前のことである。

(ロ) 四〇年九月中の発熱者と菌検出者

(a) 発熱者(四名)

九月一一日、一内医師(大学院生)竹本道子が発病し、同月一三日からリウマチ熱の診断名で入院したが、九月二九日まで高熱(三九度ないし四〇度位)がつづいた。九月中旬頃に一内助教授村越康一が四日間発熱(三七度五分から三九度位)した。一内研究生鈴木光が九月二五日から四日間高熱(三八度五分から四〇度位)、頭痛、腰痛などで、同月二七日から一〇月一日まで入院したが、九月二八日に白血球が、三、五〇〇であつた。一内研究生川島柳太郎は九月下旬に三日間発熱(三七度五分から三八度五分)、一二月中旬に四日間発熱(三七度五分から三八度五分)、頭痛があり、さらに昭和四一年一月一八日から四日間発熱(三八度三分から三八度七分位)頭痛、倦怠感、その後二週間倦怠感がつづいた。右の発病者のいずれもがクロマイを内服している。

(b) 腸チフス菌検出者(七名)

昭和四〇年九月一六、一七日実施の検便の結果、一内医師のうち宇井清、渡辺誠介、河野顕、西沢護、岡崎伸生の五名、一内看護婦のうち行木あさ子、外丸千代子から腸チフス菌が検出された。この検出結果について福永和雄は証言中不信の口吻をもらしているが、同定技術に問題があつたにせよ、二度までも実施して陽性であつた。

(2) 焼蛤事件前後

焼蛤事件前後に腸チフス罹患者はいない。しかし一内医師を中心に発熱者は多い。

(イ) 発熱者(一七名)

一内講師福永和雄が、昭和四〇年一〇月に四日間発熱(三七度五分から三九度)し、研究生神田芳郎が一〇月一六日から一〇日間頭痛、発熱し、下痢が三、四日、そして一〇月二一日白血球は四、七〇〇であつた。同福山悦男は一〇月一六日から六日間頭痛、発熱(三九度)、白血球五、〇〇〇であつた。同谷嶋つねは同月一三日から約二週間頭痛、発熱(三九度位)した。同岡崎伸生は、九月および昭和四一年一月の二回にわたり腸チフス菌が検出された者であるが、同人は昭和四〇年一〇月一四日から約二週間頭痛、発熱(三九度位)があつた。一内助手山口覚太郎は一〇月二〇日頃から五日間咳嗽、頭痛、発熱(三八度から三九度)があつた。用務員三枝とみは一〇月二二日から約一〇日間発熱(三七度五分から三九度九分)腰痛があり、一一月四日白血球三、八五〇であつた。同斉藤好子は、一〇月二二日から約二〇日間発熱(三八度位)があつた。

一二月に入つて、一内助手大藤正雄が一二月二〇日から五日頭痛、腰痛を伴つて発熱(三八度から四〇度)し、さらに翌年一月二日から七日間発熱(三八度から四〇度)した。医師大野孝則は昭和四〇年一二月一八日から一週間頭痛、発熱(三七度五分から四〇度)があつた。同武田従信は、一二月五日頃から一週間熱感がありその後三日間発熱(三七度五分から三八度五分)した。

そして、焼蛤事件と同時期に前記大藤のほか、六名の医師が発熱している。早川尚男は、昭和四一年一月三日から一一日間発熱(三七度五分から三九度位)した。伊藤俊男は年末から倦怠感があり、一月二日から約二週間発熱(三七度五分から四〇度位)し、頭痛、倦怠感、呼吸困難、発疹があつた。西沢護は一月三日から一〇日間発熱(三七度五分から三九度以上)、頭痛、リンパ節腫脹などがあつた。栗原稔は一月一日から熱感、倦怠感があり、一月八日から約一週間三七度五分から三九度の熱がつづいた(白血球一月一六日四、三〇〇、同月二〇日五、〇〇〇)。米満博は一月六日から約二週間頭痛、発熱(三七度五分から四〇度)があつた。久根間敏は一月に一日四〇度の熱があつた。

(ロ) 腸チフス菌検出者(九名)

一月下旬実施の検便の結果、一内医師のうち、村越康一、白壁彦夫、小藤田和郎、久根間敏、鈴木光、西原浤、岡崎伸生、永井順、大野孝則の九名から腸チフス菌が検出された(なお、赤痢菌検出者八名)。

(3) みかん事件前後

みかん事件の前後には、一内助手宇井清が二月二〇日から四日間発熱(三七度五分から三九度五分)した。その他、医師松下喜一、同渡辺誠介が三月に発熱し、また前述のように佐藤重明が三月初旬に発熱している。用務員三枝とみは前年九月腸チフスに罹患した者であるが、さらに、三月二九日発病し、便培養の結果陽性と判定されている。

(4) 右の(1)の(b)、(2)および(3)にあげた発熱者の状況は、主として昭和四一年三月、一内のなかに作られた「内科防疫調査委員会」(委員長白壁彦夫講師)(総説第二参照)のアンケートおよびこれをまとめた熱発患者一覧表(符五二三)に拠つたものである。そして白壁証言および右調査委員会が千葉大防疫委員会に対し報告する予定であつた報告書(符五二四)によれば、右調査委員会では、昭和四〇年九月以降千葉大一内に続発した熱性疾患の原因について、いろいろ解析を試みたものの、結局明確な結論はえられていない。もともとこの調査によつてえられた発熱者について、腸チフス菌検出があつた者のほかは、その他の検査結果、臨床症状から判断するほかはなかつたのであるが、検査が行なわれている者といない者、入院した者と自宅療養した者など雑多である。また、一内勤務者の発熱者全員がリストアップされているわけでもない。ただ、いえることは、この発熱者のなかには菌検出がない者であつて腸チフスの疑のあるものがかなりあると推定されること、そして発病が単発的のもあれば集団的のものもあつて、感染源は多元的とみられることである。換言すれば、当時の一内では腸チフスに感染する機会は複数にあつたということになる。

してみると、この期間中における腸チフス罹患者について、それが被告人の犯行によると断定するためには、その罹患は、これら被害者とされる者以外の腸チフス罹患等の感染あるいは罹患とは全く別個のものであることを検察官において立証する責任があるといわなければならない。これを怠つては、因果関係の立証ができないばかりか、被告人の供述の信用性を明らかにすることも困難である。主観的に捜査に全力を尽した(これはまさしくそのとおりだつたと思われるが)というだけでは決して免責されるものではない。

五 情況事実

(一) 密告電話

(1) 千葉大バナナ事件に関しても被告人のいわゆる密告電話が問題となつている。その事実関係は次のとおりである。

被告人は昭和四〇年九月一七日頃の午前八時過頃から午前八時四〇分頃までの間、千葉大バナナ事件関係の腸チフス罹患などについて、匿名または偽名で千葉中央保健所、読売新聞社千葉支局、毎日新聞社千葉支局に電話をした。すなわち、読売新聞社および毎日新聞社の各千葉支局に対し、千葉大バナナ事件関係の罹患者らについて、それが真性の腸チフスで、このことにつき同日教授が千葉大で記者会見することなどの電話をかけ、そして引きつづき、千葉中央保健所に対し、千葉大バナナ事件関係の罹患者らは真性腸チフスであり、感染源は、小林康弘の胆汁がふりかかつたまんじゆうであり、それを食べた者が発病した旨電話した。

(2) この点について、被告人は捜査官に対し、千葉大で腸チフスを隠しているのではないかと思料し、自分から腸チフスだと申し出ると疑われるが、このままにしておけば病院で他の人に感染するので、密告して当局側が腸チフスに合つた検査、治療、隔離をすることを期待した旨供述(4.26員三〇等)しているが、検察官は、この密告電話をした理由について、

(a) バナナを与えた被告人に向けられる疑いを他に向けさせること、または、

(b) 真実まんじゆうに腸チフス菌をふりかけたため、他に腸チフス患者が発生しているので、その注意を喚起し、また関係者の狼狽する様子をみることがその目的であつたと推論している。

しかし千葉大では当初腸チフスの原因がまんじゆう喫食によると考え、すでに九月一四日保健所に疑似腸チフスの届出をし一内の医師から保健所係員らにまんじゆうが原因である旨伝えている。被告人が自己に対する疑いを他に向けさせようとしたというのはうなづけない。また、被告人がまんじゆうにチフス菌をふりかけたとする点については、真実まんじゆうに腸チフス菌をふりかけたと認める証拠はないこと、すでに述べたとおりである。検察官の推論には賛同できないものがある。

(2) また、検察官は、被告人が九月一六日頃、福永講師に「私は九月五日に看護婦にバナナをやつた」といい、同趣旨のことを西村医師や日影技術員にももらしたことをとらえて、一つの情況証拠に構成しているように見られる(冒頭陳述)。被告人が先手をうつて自己に対する疑惑を転じようとした趣旨に理解するのであろうが、客観的には被告人の黒白いずれにもとれる一挿話にすぎない。

六 まとめ

被告人の自白が真に信用に価するものであれば、たとえ当時千葉大一内に腸チフスの流行があつたとしてもバナナ喫食者に限つては被告人の犯行の結果だと断定できるかも知れない。しかし、その自白にすでにして重大な欠陥があつた。されば検察官は最終的には犯行動機、とくに人体実験目的に関する被告人の自白をそのまま採用するのを放擲した。しかし、この動機は犯行方法とおのずから相関関係にあるものであるし、その他自白の信用性の評価に重大な影響をもつものである。被告人のした自白はこの動機の面でも、また犯行方法の面でも合理的でない部分が多い。それに輪をかけて、本件は流行現象の一環ではないかとの強烈な反証に遭遇している。検察官は、最少限の要請として、本件の被害者とされる者と同時に入院した九名の腸チフス罹患者の感染原因についてはこれを明らかにしなければならなかつた。それを果せていない以上、右のような自白への信用性はさらに動揺してくるのは当然である。結局本件千葉大バナナ事件の公訴事実の証明は不十分と断定せざるをえない。そして、このことはやがて以下の焼蛤・みかん事件の認定にも負因として波及していくのも避けられない。

B 焼蛤事件

一 五十嵐医師らの焼蛤喫食と発病

(一) 喫食状況

五十嵐正彦は、千葉大一内の研究生であつた。横田俊一は、自衛官であつたが、一内の研究生として昭和四〇年、四一年頃は毎週二、三日は終日、それ以外の日は夕方自衛隊の勤務終了後一内研究室で研究をつづけていた。

五十嵐は、昭和四一年一月一日、担当の入院患者治療のため千葉大に出勤した。そして同日午後二時三〇分頃、一内医局に立ち寄つたところ、同所に焼蛤(味付け加工した蛤数個を竹串に刺してあるもの)の箱があつたので、茶を飲みながらこれを三、四本食べた。横田は、同日一内の当直勤務のため、午後四時三〇分頃出勤し、日直の被告人と交替した。横田は、同日午後九時頃、右医局で夕食をしたが、その際、右焼蛤を見つけ、四、五本食べた。

(二) 発病

(1) 五十嵐は、一月五日午前中から熱感および倦怠感があつた。そして同日午後八時頃発熱(三八度位)し、翌六日には一時三九度の熱があり、七日夜まで三八度以上の熱がつづいたが、その後平熱になつた。その間、一月六、七日の二日間頭痛および下痢(泥状便)が一日二、三回あつた。同人は、一月六日と七日病臥したが、医師の診断を受けず、六日から約一〇日間および二日間休薬後約五日間クロマイを一日二グラムずつ服用した。

(2) 横田は、一月二日午後一時頃千葉大を出て自動車を運転して午後三時頃帰宅したが、途中頭痛を覚えた。そして同日夜発熱(三八度位)した。一月三、四日は下痢および倦怠感があつたが熱はなかつた。ところが、一月五日に発熱し、一七日まで三八度から四〇度の熱がつづいた。同人は、一月五日から九日まで陸上自衛隊下志津駐屯地医務室、一月一〇日から自衛隊中央病院に入院し、二月一二日退院した。血液培養の結果、一月一七日腸チフス菌が検出された。

(3) 右事実によると、横田が腸チフスに罹患したことは明らかである。しかし、五十嵐については、もし腸チフスに感染したとすれば、腸チフスであると認め得るが、必ずしも腸チフス罹患とは断定し得ない。

二 自白の検討

(一) 犯行の動機について

焼蛤事件についての被告人の犯行動機に関する供述は、横田が自衛隊員で給与をもらいながら、部隊には週一回位しか勤務しないで、あとは大学で十分研究できるのをみて、そのような制度に対する不満および横田に対する羨望から同人を困まらせようと考えた(4.26員三八)というものであるが、他方横田には何のうらみもない旨(5.17検七六)の供述もある。しかし、医局に腸チフス菌入りの焼蛤を放置しておいても、横田が喫食するとは限らないし、また他の者が喫食する可能性もあつて、横田を念頭においたという動機と犯行とは結びつきにくい。現に五十嵐も食している。一種の無差別爆撃にひとしい奇怪な想念である。

次に、人体実験の目的については、千葉大バナナ事件の場合と同一の供述であるから、そこで説明したところを引用する。ただ、被告人は、一月二〇日頃、偶々国立予研に行つた際、大橋誠技官から横田の腸チフス罹患およびその腸チフス菌がD2型であることを聞いたのに、菌株の分与あるいは、薬剤耐性値を聞くなどしておらず、したがつて、クロマイ耐性研究の目的にそうような行動はとつていないことをつけ加えておく。

(二) 犯行方法について

(1) 被告人の供述によると、被告人は、昭和四一年一月一日は、日直で一内に勤務のかたわら、実験室で大腸菌の研究をしていたが、午前一一時頃から午後一時頃まで、他の日直勤務の医師と、一内医局で、焼蛤を肴にして酒を飲み、実験室に戻つた。そして、同日午後二時頃、焼蛤に腸チフス菌液をふりかけようと考えたというが、その方法については、つぎのように変遷している。

はじめは、寒天斜面培地から腸チフス菌を白金棒で削りとつて小試験管入りのブイヨンに入れ、これを医局に持つていつて、右ブイヨン二cc位を焼蛤に振りかけた(4.25員三七、4.26員三八)と述べたが、ついで、二〇cc蒸溜水アンプルにクロマイ一ミリグラムを入れ、これに腸チフス菌一白金棒分を混入して菌液を作り、右菌液をピペットで一cc取つて小試験管に入れて医局に持つていつて焼蛤に振りかけた(6.3検七七)、腸チフス菌のクロマイ耐性は高めてない(6.11検五一)と次々に供述を変えている。この変転自体にはもちろん問題はあるが、本件では、バナナ事件やみかん事件などの場合と異り、焼蛤に振りかけるというものであるし、また、カルピス事件と異り、同一建物内を持ち運ぶのであるから、犯行の方法としては、菌液が蒸溜水であろうと、ブイヨンであろうとどちらでもとくに不合理とはいえない。

(2) 焼蛤に生存する腸チフス菌の菌数について

この点は善養寺鑑定によつて判定する。一応前記被告人の供述をもとにした実験結果ではあるが、

(ⅰ) 実験方法が蒸溜水、ブイヨンいずれについても、腸チフス菌液を焼蛤に均等に散布している点で被告人の供述するような小試験管から滴下した方法とは多少異なつていると思われること、

(ⅱ) ブイヨンの場合、被告人は二cc位滴下したと供述しているのに対して、実験では、一cc散布していること、および

(ⅲ) 被告人の供述では、一白金棒分の腸チフス菌を混入した際のブイヨンの量が明らかでないが、実験では一ccのブイヨンに一白金線(棒)分の腸チフス菌を混入していることなどのため、鑑定の結果を参考にするにはこれらの点に留意する必要がある。しかし、蒸溜水の場合は、被告人の供述する菌液量を散布しているのであるし、またブイヨンについても、実験に際し散布したブイヨンの量は少ないとはいえ、混入した菌数は被告人供述の二ccのブイヨン中の菌数以下ではないのであるから、鑑定結果をそのままとつても大過あるまいい。これによると、

(a) 蒸溜水に混入した腸チフス菌液の場合、一夜培養菌を用いて、五十嵐の食べた三、四本の焼蛤、横田が食べた五、六本の焼蛤中の各腸チフス菌数はいずれも105ないし106個位である。また。

(b) ブイヨンに混入した腸チフス菌液の場合は、一夜培養菌を用いて、五十嵐および横田のいずれも、106ないし108個である((a)(b)ともに、もし一夜培養後室温で一〇日放置の菌を用いると、約十分の一位に減ずる)。そこで(発症率は二名だけが対象なので考えないことにし)潜伏期について考えると、蒸溜水による菌液では両名とも短かすぎる。ブイヨンによる菌液では五十嵐は必ずしも短かいとはいえないが、横田は、二日目(二四時間以内)に発病したとすれば極端に短かすぎる。

三 まとめ

そもそも、右の善養寺鑑定をまつまでもなく、焼蛤を感染源と考えては、横田の発病は余りにも早すぎるのである。総説で述べたようにこれは腸チフスの潜伏期としてはほとんどありえないことと考えられる。横田は自衛隊に勤務していたため、自身で行なつた喫食調査は条件にめぐまれ、他にみられないほど綿密である。したがつて、元日の焼蛤を唯一の感染源と推考し、一内医局内で最もこれを強調したわけであろうが、当時一内を中心として不明熱性疾患が続発していたことおよび右の潜伏期の問題に照らすと、その推考にも盲点があつたと認める。横田の発病を被告人の所為に帰するには疑があるといわなければならない。

このように、横田の発病の原因が焼蛤と認められえないとすれば、当然五十嵐の発病も焼蛤によるものと認めるわけにはいかない。

本件は犯罪の証明不十分と判定する。

C みかん事件

一 井上看護婦らのみかんの喫食

井上多喜子は千葉大一内の看護婦、大網節子および川島光子は一内の看護助手で、看護婦中村ますとともに一内外来に勤務していた。同女らは一内物理療法室内の一角をカーテンで仕切り、そこを更衣室と呼んで更衣、休憩場所に使用していた。井上らは、昭和四一年三月一一日前後頃、右更衣室の診療台に口もとをよじつてある紙袋が置いてあり、なかにみかん四個が入つているのに気づいた。しかし、それが、誰のものかわからなかつたためそのまま放置しておいたが、三月一五日になつても持主が現われなかつた。そこで同日午後二時頃、井上、大網、川島の三人で、右みかんを食べることにし、各自一個ずつ食べ、残つた一個は中味がいたんでおり、二房くらいを大網が食べた。

二 井上看護婦らの腸チフス罹患

(一) 井上ら三名は、その後発熱し、葛城病院に収容された。いずれも腸チフス菌が検出されている。

(1) 井上は、三月一六日朝発熱(三七度八分位)し、頭痛、全身倦怠感があつた。それ以来四月三日まで三七度七分から三八度九分の熱がつづいた。三月二四日葛城病院に入院し、同日実施の血液検査の結果腸チフス菌が検出された。同女は四月一七日に退院した。

(2) 大網は、三月一六日未明に腹痛、下痢(水様便)があり、同日午前九時前頃から熱感および倦怠感があり、午前中に発熱(三八度位)した。同日は頭痛、倦怠感があつたが、翌日には微熱程度になり、一八日にはさらに軽快し、それほど腹痛、頭痛、熱感もなくなつた。しかし、三月一八日実施の検便の結果、腸チフス菌が検出されたため、同日二二日葛城病院に収容されたが、自覚症状、発熱などなく、四月一六日退院した。

(3) 川島は、三月一二日午後三時頃から倦怠感、腹痛とともに下痢(水様便)がつづいたが、一三日には腹痛が、一四日には下痢が消失した。一五日午前九時三〇分頃頭痛があり、夜熱感を覚えた。一六日、朝から発熱(三九度以上)、頭痛、腰痛があり、三月二一日まで三七度八分から四〇度位の熱がつづいた。同人は三月一七日葛城病院に収容されたが、同日実施の検便の結果腸チフス菌が検出された。そして四月一五日退院した。

(二)(1) 井上および川島が腸チフスに罹患したことは明らかである。大網については、腸チフスに感染していることは明らかであるが、罹患したとまではいいうるか多少問題はある。ただ同女は前述のように昭和四〇年九月にも腸チフスに罹患していることから症状が軽かつたとも考えられる。

(2) ところで、このようにみかんを喫食した三名が腸チフスに罹患したとみても、第一に、右大網の症状はみかんとは関係のない腸チフスの再発ではないかとの疑問が残る。前年九月罹患の際の入院期間、治療投薬状況を考えると、腸チフスの持続保菌者であつた可能性があるからである。第二に、川島はみかん喫食前から腸チフスに罹患していたのではないかとの疑問がある。みかん喫食前から腹痛、下痢があり、みかん喫食当日の夜すでに熱感をおぼえているからである。しかし、これらの点はしばらく検察官主張のとおりみかん喫食後発病したとして先に進む。

三 自白の検討

みかん事件についての被告人の供述調書は、4.25員三七、5.3員四三、5.7検八六、5.21検八七、5.25検七〇、5.27検五七、6.3検七七である。その供述は、はじめ自白し(4.25員三七、5.3員四三)、その後、自白か否認かあいまいとなり(5.7検八六、5.21検八七)、あとは一貫して自白をつづけた。しかし、腸チフス菌注入の内容はバナナ等より以上に変転している。

(一) 犯行の動機について

(1) 被告人はみかん事件についてもやはり犯行の目的として人体実験目的をあげているが、この点については千葉大バナナ事件で述べたと同じ疑問があるほか、隔離されることを予想しつつ研究室の整理をしている段階(次の(2)参照)で、しかも、誰が喫食するか分らない方法でみかんをおいたとて、果してその目的にそうような資料収集ができると考えたであろうかとの疑問もあわせて生ずる。

(2) いわゆる不平不満の動機については、一般的な事情としては千葉大バナナ事件に関するものであろうが、本件につき、被告人は、「以前から内科外来に一週に一日診療の補助をさせられ自己の研究が束縛されたため外来には不満をもつていた。ところが、三月七日三島病院に行つた際、便および血液の検査を受けその結果によつては入院隔離させられるかも知れないと考え、六研で細菌類の整理をしたが、その際みかんに菌液を注入し、家に帰る直前物理療法室にそのみかんを置いた。こんなことをしたのは外来への不満と、隔離される不安な気持におそわれたためである(5.3員四三)と供述している。

しかし、被告人は昭和四一年一月以降一月二〇日、二八日、三月四日国立予研の大橋誠技官を訪ね、そこで同技官から三島病院、親族、千葉大での腸チフスの発生について尋ねられたり、同技官に資料を提供したりしているが、その際被告人が腸チフス菌保菌者ではないかと言われ、また、被告人自身も、前年千葉大で発生した腸チフスの菌株一三株を秘かに大橋に渡したことを大学に知られはしないかと戦々兢々としていた。そして、本件犯行日とされる日以後のことであるが、三月一〇日頃には大学から禁足させられている。すでに、被告人は一連の腸チフス患者の発生に関し自己が疑いの目をもつて見られていることを感じとつていたと推認される。そのようなとき、たとえ、不安定な精神状態であることを前提にして考えたとしても、本件のような犯行を決意するまでになるであろうか、また外来への不満がこのような形でぶつけて晴れるものであろうか。疑問といわざるを得ない。

(二) 犯行の時期について

被告人の供述するところによると、最初の自白では、犯行日が三月一一日頃(4.25員三七)であつたがその後の供述では三月八日に変わつている。三月一一日はすでに禁足を指示されており、その日は、国立予研に大橋を訪ねていることから一一日ではあり得ない。三月八日は、被告人が実験室で細菌の植えつぎなどをしていること(その保管の腸チフス菌株の表示によつて確認できる)から犯行をなすことは可能である。しかし、みかんをみつけた日について井上、川島は三月一一日、中村ますは同月一〇日といい、大網のみがあいまいながら、三月九日といつているだけである。もし、大網の証言を否定すると、被告人がみかんを置いたという日との間に一、二日の空白がある。この空白は被告人の供述になにがしかの不審を生じさせる。

(三) 犯行の方法について

(1) この点に関する被告人の供述は、みかんに寒天斜面培地から腸チフス菌を白金棒で削り取り、一白金棒でみかん二個位ずつ穿刺して、物理療法室の寝台の上においた(4.25員三七)というものから、つぎに、中試験管寒天斜面培地から腸チフス菌一白金棒単位削りとつて二〇cc蒸溜水アンプルに混入し、これをみかんのへたの反対側(以下落花部という)の中央部に一白金棒分で二個位に穿刺し、物理療法室の寝台の上に置いた(5.3員四三)に変わる。その後、腸チフス菌液にクロマイ耐性を高めるようにしたとの供述、またこれを否定する供述のあることは、千葉大バナナ事件などと軌を一にする(5.25検七〇、5.27検五七、6.3検七七、6.11検五一)。したがつて、これらの供述にまつわる当裁判所の疑念も、千葉大バナナ事件で論じたとおりである(ただ本件で腸チフス菌を二〇cc蒸溜水アンプルに混入したとの供述は、かなり初期の五月三日司法警察員に対しなされており、つぎに五月七日に検察官に対しては、菌液を作つたか、固形のままの菌を穿刺したか判然しないと述べ<5.21検八七も同旨>ついで菌量を一定にするため菌液を刺した<5.25検七〇>となつている。したがつて、この場合は、他の事件よりもとくに菌液穿刺を信ずるべきか、直接穿刺を信ずべきかを迷わせる性質のものである)。

(2) みかんに生存する腸チフス菌の菌数

被告人の供述するような方法でみかんに対し、腸チフス菌の菌液を、または腸チフス菌を直接に、それぞれ穿刺した場合、その喫食時における腸チフス菌の菌数を中谷、善養寺鑑定によつて調べてみる。

被告人が菌を注入したのは三月八日夜で、井上らの喫食は同月一五日頃の午後二時頃であるからその間七日を経ている。

(a) 腸チフス菌液を穿刺した場合は、供試菌の条件を問わず〇から102個以内であり(両鑑定)、

(b) 腸チフス菌を直接穿刺した場合、供試菌の条件を問わず106個前後である(善養寺鑑定)。

みかん一個内の腸チフス菌生菌数が、右のとおりであるならば、

(a) 腸チフス菌液を穿刺した場合、腸チフスの発症はまずありえない。そして

(b) 直接穿刺の場合でも、大網を再感染させる程の菌数とは認められない(腸チフスの再感染をきたすのはよほど濃厚な菌量を必要とすると考えられる)。

つぎに潜伏期について考えてみるのに、

井上、大網の腸チフス発病は三月一六日朝であるとすると、みかんを食べてから二〇時間もない。また川島の発病については前述のとおりみかん喫食以前とも考えられるが、かりに継続して発熱しはじめた時を発病日と仮定しても一六日朝であるから、右両名と同様二〇時間も経過していない。これは腸チフスの潜伏期としては異常のことであり、みかんに生存する前記の腸チフス菌数からいつてありえないことというべきである。

四 まとめ

本件みかん事件は、被告人の犯行とすれば最後の犯行である。その当時は、三(一)(1)(2)で述べたように被告人の立場としては一つの緊張状況にあつた。犯行の時期としてはきわめて不自然である。しかも、みかん内に仮定される腸チフス生菌数に比し潜伏期が極端に短かすぎる。もちろん、一内外来の看護婦らがみかん喫食前に食べたみつ豆、ケーキ(永井順医師からもらつたもの)が感染原因であるといいがたいことは検察官のいうとおりであろうが、すでに述べたように千葉大一内には当時原因不明の熱性疾患あるいは進んで腸チフスの流行があつたので、本件みかん事件の被害者とされる者の腸チフス罹患も、あるいはこの流行の一環であつたかも知れないとの推測もあなたがち無理とはいえない。このような意味で本件も証明不十分と判定する。

第五  親族関係事件

(はじめに)

堀内十助方、鈴木哲太郎方、鈴木収方、富川正雄方各事件をここで一括して論ずる。(堀内方、哲太郎方、収方、富川方事件と略称することがある。)

右いずれについても、各訴因掲記の被害者とされている者らは被告人がバナナ類を贈つた頃腸チフスに感染(堀内十助)、または罹患(その他の者)している。

そして、被告人はこのバナナに腸チフス菌を注入したかについて、当初、すなわちカステラ事件などの自白をした四月一三日(員一一)には否認したが、四月二〇日(員三一)に至つて、はじめて堀内方の件を自白し、ついで、五月三日(員三二)には鈴木哲太郎方の件をも認めた。しかし、その後しばらく、主として収方、富川方の件に関し否認あるいは犯行をしたかも知れない旨のあいまいな供述をつづけたが(5.4員三九、5.5検六七、5.7員三三、5.11員三四、5.24検七四)、五月二五日には富川方の件を(検七〇)五月二七日には収方の件を(検五七)それぞれ自白するに至り、親族関係事件全部が自己の犯行であることを認めた。そして六月五、六の両日の取調でさらにこれを確認している(検七三、七八)ものである。

一 バナナの喫食状況と腸チフス罹患

(一) 堀内十助方

(1) 堀内十助は、静岡県御殿場市萩原六六五番地に居住し農業を営んでいた。同人方は、堀内十助(当時五七年)、妻すえを(当時五〇年)、長女美和子(当時二五年)、二女明代(当時二四年)長男和男(当時二一年)、三女正子(当時一九年)、四女文代(当時一七年)、五女達代(当時一六年)、六女いさ子(当時一四年)の九人家族で、明代、和男、正子は勤めに出ており、文代、達代、いさ子は通学していた。すえをは被告人の父繁の実妹である。

被告人は、昭和四〇年九月八日、実家の鈴木繁方に泊まり、翌九日三島病院に勤務したが、同日朝出勤の途中、堀内十助方に立ち寄り、十助の病気見舞といつて、持参してきたバナナ一包(バナナ約一〇本)をすえをに手渡した。すえをはこれを仏壇に供えた。そして、堀内の家族全員が同日夜これを食べた。

堀内すえをらは、バナナは五、六本であつた旨証言しているが、被告人が十助の病気見舞に持参したものであることおよびバナナの価格などに照らし、すえをが検察官に供述したとおり、一〇本以上あつたと認定する。被告人の供述でも二〇本位、一〇本余り、一五、六本位である。

また、文代および正子が喫食したか否かについて証拠上ややまぎらわしい点もあるが、当日最初にバナナを食べたのは和男である。そして、正子が最後に午後八時頃帰宅したが、正子の前に明代が帰宅しバナナを食べている。年長の和男と明代が時間的間隔をおいて食べているそのあいだで、バナナをとくに嫌つているわけでもない年少の文代が食べていないとは認め難い。そして、明代が食べた際まだバナナは残つていて正子も、検察官に対して供述しているように、これを食べたと判断するのが相当である。

(2) 堀内十助方では、和男を除く八名が腸チフスに感染あるいは罹患した。まず、正子、明代らが発熱し、明代が九月一五日共立病院に入院した。そして、二一日に、すえを、美和子、正子、文代、達代、いさ子が富士病院に入院したが、翌二二日腸チフスと診断され、同院隔離病棟に明代とともに収容された。十助は、保健所で実施した検便の結果腸チフス菌が検出されたため、同月二五日、同病院に収容された。そして全員一一月一日退院した。十助、すえを、正子、達代から血液培養の結果腸チフス菌が検出されたことは確実である。

個々の症状は次のとおり。

(イ) 十助は、九月一六日頃、熱感があつたようであるが、発熱、病臥した家族の世話をしていた。ところが、二二日頃実施の検便の結果二五日腸チフス菌が検出されたため同日富士病院に収容された。しかし、同人には腸チフスの症状はなかつた。

(ロ) すえをは、九月一三日熱感があり、一四日には頭痛、三八度八分に発熱し右季肋部痛もあつた。そして、九月二八日まで三七度五分以上の熱がつづいた。

(ハ) 美和子は、精神障害があり、普段から頭痛もちで、九月にも頭痛、腹痛を訴え、医師の治療をうけていた。ところが、九月一五日からは、頭痛のほかに発熱し、一六日に三八度五分になり、二三日まで高熱があつたが、二八日頃から平熱になつた。その間、二一日に白血球四、五〇〇、二二日に胸部に発疹が出た。

(ニ) 明代は、九月一二日に発熱し、二二日まで(但し一七日は三七度)三七度五分から三九度位の熱がつづいたが、二三日から平熱になつた。白血球は、九月一三日八、七〇〇、一四日一二、三〇〇、一八日五、五〇〇、二〇日七、六〇〇あつた。胸部に発疹があつた。

(ホ) 正子は、九月一〇日頃から頭重感があつたが、一二日夕方から頭痛、腰痛とともに発熱し、二八日まで三七度八分から三九度の熱がつづき、一〇月初旬頃平熱になつた。

(ヘ) 文代は、九月一〇日か一一日頃から不快感があつたところ一二日に発熱し、一三日には三七度五分になつた。そして二七日まで三七度五分から四〇度位の熱がつづき、翌日から平熱になつた。胸部に発疹があつた。

(ト) 達代は、九月一二日夕方発熱し、一四日から二六日まで三七度五分から三九度位の熱がつづいたが、二八日から平熱になつた。

(チ) いさ子は、九月一二日夕方悪寒、頭痛があつて、一三日から二七日まで(但し、二六日は三七度一分)三八度以上四〇度の熱がつづいた。右季肋部痛があつたほか、白血球が二一日三、一〇〇であつた。

以上のことからみて、十助は腸チフスに感染していたことは明らかであるが、腸チフスの発病があつたとは認め難い。他の者についてはその症状およびすえを、正子、達代から腸チフス菌が検出されていることに照らし、腸チフスに罹患したものと認める。(なお、念のため一言しておくと、露崎好男証言および診療録添付の検査伝票によれば、美和子、明代、文代、いさ子らからも腸チフス菌検出をうかがわせるものがある。しかし、検査伝票は薬剤感受性値を記入しただけのもので検体、検査担当者、決定日など全く記入されていないだけではなく、入院前日に検査したような日付になつている(符三三八)こと、これらに限つて菌株が保健所に届けられていないことなどにかんがみ、腸チフス菌の検出があつたとは断定できない。)

(二) 鈴木哲太郎方

(1) 鈴木哲太郎(当時六四年)は、静岡県駿東郡小山町大胡田四二番地に居住していた。同人方の家族は、同人のほか、妻さき(当時五八年)、隆章(当時四八年)、同人の妻いよ子(哲太郎の長女、当時四二年)、ひで子(哲太郎の四女、当時一七年)、民栄(当時二六年)、同人の妻雅子(隆章の長女、当時二〇年)、靖子(民栄の長女、当時生後四〇日)であつた。鈴木哲太郎方は、被告人と親類で、哲太郎は被告人の結婚の際、部落内での仲人をした。また。被告人の父母とは頻繁に往来していた。

昭和四〇年一二月五日午後一一時頃、いよ子が持病である胃痛を患い、哲太郎らが医師を呼ぶため鈴木繁方に電話を掛けに訪れたところ、たまたま、被告人が居合せた。そこで被告人は、哲太郎らの求めに応じ、いよ子の応急手当をした。その後、被告人は同日一二日、三島病院勤務のため、父繁方に宿泊したが、その際バナナ二包持参した。そして一包を父母の手みやげにし、他の一包を、いよ子の病気見舞に届けるよう母琢に依頼した。琢は翌一二月一三日、いよ子を訪ねて、バナナの包を枕元に置いてきた。バナナの数は一二、三本あつた。

哲太郎方では、ひで子および靖子を除いたほかの者が同月一五日頃の夜、右バナナを一本か二本ずつ食べた。

(2) バナナ喫食後、民栄が一二月一九日に発病し、二一日富士病院に入院した。雅子も、同日発熱し、二三日同病院に入院し、さらに、二五日になつて哲太郎、さき、隆章、いよ子が入院した。そして、同月二七日、全員パラチフスの疑いで同病院隔離病棟に収容された。その後、一二月二五日実施の血液培養の結果、全員から腸チフス菌が検出された。昭和四一年二月二一日全員退院した。

個々の症状は次のとおり。

(イ) 哲太郎は、昭和四〇年一二月二二日頃から腰痛および三八度の発熱があつた。そして、一二月二九日まで三八度以上の熱がつづき、三一日から平熱になつた。

(ロ) さきは、一二月二〇日腰痛が起き、二二日に三九度に発熱した。そして三〇日まで三八度以上の熱がつづき、翌年一月一日から平熱になつた。

(ハ) 隆章は、昭和四〇年一二月二三日に頭痛、腰痛とともに発熱した。そして一二月三〇日まで三七度五分から四〇度の熱がつづき、三一日から平熱になつた。

(ニ) いよ子は、一二月五日の胃痛後、一八日まで医師の治療を受けていた。一二月二四日、突然三九度に発熱し、その後、腰痛、頭痛があつた。そして三一日まで三七度五分から四〇度の熱がつづいたが翌日から平熱になつた。

(ホ) 民栄は、一二月一九日昼頃、左股関節痛に襲われた。そして二一日富士病院に入院した。昭和四一年一月一日まで、三七度五分位から三九度の熱がつづき、同月六日から平熱になつた。

(ヘ) 雅子は、昭和四〇年一二月二一日夜発熱し、頭痛、下腹部痛があつた。そして、三〇年(二七日は除く)まで、三七度五分から三九度の熱がつづいた。

右哲太郎ら全員が腸チフスに罹患したことは明らかである。

(三) 鈴木収方

(1) 鈴木収(当時二八年)は被告人の弟であつて、神奈川県小田原市井細田一二八番地に居住していた。同人方の家族は、妻ハルエ(当時二三年)と長男聡(当時生後六月)であつた。また、石川すへ子(当時五三年)は、鈴木ハルエの実母であり、神奈川県足柄上郡南足柄町岩原八五五番地に長男、長女と居住していた。石川すへ子は、鈴木収方によく訪ねてきていた。

収は、昭和四〇年一二月、父繁が病に倒れたため、同月一八日、一九日、二六日、三〇日の四日間繁方に赴いて、繁の看護などをした。

被告人は、昭和四〇年一二月二六日午後二時頃、収方を訪ねた。被告人は、その日父繁を入院させるについて収と相談するため、繁方に行く前に立ち寄つたが、収夫婦は不在で、石川すへ子が聡の世話をしていた。被告人は、持参したバナナ一包を石川すへ子に渡して、収を待つていた。同日三時頃、収夫婦が帰宅した。そして被告人らが話しをしている間に、被告人持参の前記バナナの包みが開かれ、その場でハルエが二本、収と石川すへ子が一本ずつ食べた(二、三本残つたバナナは同日夜ハルエが食べた)。被告人および収は、それから、繁方および堀内十助方に行つた。(収は公判廷ではバナナを食べていないと証言するが信用できない。)

(2) 鈴木収およびハルエは、一二月三〇日から頭痛、発熱があり、翌日夜、石川すへ子を呼び寄せて、聡の世話をたのんだが、すへ子も同夜発熱して帰宅した。その後昭和四一年一月五日にハルエ、六日に収が小田原市内の病院に入院したが、六日ハルエの便から腸チフス菌が検出されるに及び、二人とも同日、小田原市立病院に収容された。石川すへ子は、高熱がつづいていたところ、収夫婦が腸チフスに罹患したため、一月七日神奈川県立足柄病院に収容された。収は二月八日、ハルエは二月一日、石川すへ子は二月二六日に退院した。

個々の症状は次のとおり。

(イ) 収は、昭和四〇年一二月三〇日、頭痛および三九度三分に発熱し、翌四一年一月一四日まで三七度五分位から三九度五分位の熱がつづき、一五日から平熱になつた。またヴイダール反応が一月五日一、二八〇倍、白血球が一月七日三、八〇〇であつた。

(ロ) ハルエは、昭和四〇年一二月三〇日に頭痛および三九度に発熱、翌年一月一〇日まで三七度五分から四二度の熱がつづいたが、一二日から平熱になつた。

(ハ) 石川すへ子は、昭和四〇年一二月三一日に発熱し、翌年一月九日(但し七日は三五度九分)まで三七度五分から三九度の熱がつづいたが、一二日から平熱になつた。脾臓等の病変はなく徐脈でもなかつたが、ヴイダール反応は、一月一八日、二八日四〇〇倍位、二月一日六四〇倍、白血球が一月八日一一、七〇〇、二月一一日六、八〇〇であつた。同女は、保健所および医師が鈴木収夫婦の腸チフス罹患の連絡を受けた結果、腸チフスとして収容されたものである。

収およびハルエは腸チフスに罹患したと認められる。石川すへ子については、収らと同時に感染したのであれば、腸チフスと認めることができる。

(四) 富川正雄方

(1) 富川正雄(当時四五年)は、静岡県駿東郡小山町大胡田一六七番地に居住していた。同人方の家族は、富川正雄のほか祖母いと、父万平、母たき、妻よし(当時四一年)、長女広子(当時一七年)、二女春江(当時一四年)、三女幸子(当時一四年)、長男正志(当時六年)であつた。富川正雄方は、被告人の父繁方とは隣家でもあつて日頃往来し、また繁の町長選挙などの際は万平が率先して応援していた。

昭和四〇年秋頃から、万平が高血圧などで寝つくようになり、被告人はそのことを翌年一月頃聞き知つた。そして、昭和四一年一月一二日、父繁方に宿泊した際、万平の病気見舞として果物の詰合せ一箱(バナナ、みかん、りんご、梨在中)を持参し、母琢に対し、万平に届けるよう依頼した。琢は翌一月一三日、富川方を訪ねてこれをたきに手渡した。たきは、右果物の詰合せを六畳間の茶だんすの横に置いておいた。この果物の喫食については、証拠関係がやや錯雑しているが妥当と考えられるところは次のとおりである。

富川方では、一月一五日、親類、近所の人を呼んで正志の七歳の祝事を催したが、宿泊していた親類の者が帰つた一月一七日夜、その日幸子が発熱し、何も食べないことを心配したたきが前記被告人からの贈物である果物を皆のいる食卓に持ち出した。バナナは三本位入つており、バナナ一本は万平のために残してその余のバナナを、広子、幸子、正志が半分位ずつ食べた。たきも食べたと認められるが、万平の分かあとの二本の分か明らかでなく、また正雄が食べたか否かも明らかではない。しかし、よしと春江は食べなかつた。

右の認定に関しては、なお次の点を明らかにしておく。

(a) 喫食日時 検察官は富川方のバナナの喫食日を一月一三日午後八時頃と主張する(冒頭陳述)。富川方の喫食についての供述は区々であるが、しかし、検察官の主張にそう証拠は全くない。すなわち、公判廷においてよしは、「正志が熱を出して二、三日後」、広子は「二〇日前後頃」、幸子は、「一八、九日頃」、春江は「一七日か一八日」、たきは、「一七日」に食べたと証言し、検察官に対する供述調書では、よしは「一月一七日から一九日の間」、広子は「正雄、幸子、正志の寝込んだ日」、幸子は「一三日頃果物をみた。その頃」、春江は、「一三、四日頃果物を見て、三、四日過ぎた頃」食べた旨供述している。これらの証言、供述は、幸子の検察官に対する供述調書を除いて、いずれも一月一五日以降で同日催した祝いに参じた親類らが帰り、幸子の発病した後に食べたとするものばかりである。富川方の者の供述には、果物の贈主である被告人、隣家の被告人の父母に対する気遣いが認められるけれども、しかし、正志の祝いを中心にして果物喫食日を一月一五日以降とする供述には真実性がある。そして、幸子が発熱した日とすれば、喫食日は一月一七日である。幸子の前記供述だけから一三日午後八時頃とみるのは到底無理である。

(b) 喫食本数 広子は、検察官に対し一本のバナナを四等分し八人でそれぞれ一本の四分の一を食べたと述べたが、食べた者は八人ではないし、とくにこの等分のしかたは常識に反する、現に幸子は半分食べたと証言している。したがつて、前認定のようにバナナは三本あつて、そのうちの二本を、広子、幸子、正志の少なくとも三人はこれを食べたものと考えられる。

(2) 富川方では、一月一五日頃から正雄が腹部膨満感、正志が一六日頃から熱感があり、幸子が一七日から頭痛を伴い、発熱した。そして、右三名は、一月二四日三島病院に赴いたところ、腸チフスと診断され、同日富士病院に収容された。その後、よしが二月一九日、広子が二月二四日に同病院に収容された。そして、正雄、幸子、正志は、三月一七日、よしは四月一三日、広子は四月一六日、いずれも同病院を退院した。なお、正雄、幸子、正志は三島病院での血液検査の結果、また広子は静岡衛研実施の検便の結果腸チフス菌が検出された。

個々の症状は次のとおり。

(イ) 正雄は、一月一五日頃から下痢、腹部膨満感などがあつた。そして、一八日に熱感を覚え、一九日には三八度五分の熱があり、右季肋部緊張、圧痛もあつた。それ以後高熱がつづき、一月二四日、三島病院では三七度三分の熱があつたが、富士病院入院後は平熱になつた。

(ロ) よしは、正雄らが入院前正志、幸子らの世話をし、同人らが入院した後も毎日のように富士病院を訪れ、看護婦らに隠れて病室に入つたりしていたが、二月一二日頃から頭痛、発熱し、一八日頃まで三九度以上の熱が続いた。そして、同月一九日に富士病院に収容された。同日、腹部に圧痛があつたが、熱は下がり、二一日には平熱になつた。

(ハ) 広子は、一月二四日に頭痛を覚え、翌日から二月一日頃まで三九度位の熱がつづいたが二月二日には下熱した。ところが、二月一八日から再び頭痛があり、発熱した。そして、同月二一日実施の検便の結果腸チフス菌が検出されたため、同日富士病院に収容された。二月二五日三九度の熱があつたが、二七日以降平熱になつた。

(ニ) 幸子は、一月一七日午後頭痛があり、咳がでた。そして一八日頃から高熱がつづくようになり、一月二四日富士病院に収容された時は顔貌瀕死の状態で舌苔厚く、下痢(水様便)があつた。入院後は、一月二五日に三八度位の熱があつて、その後平熱になつた。

(ホ) 正志は、一月一六日頃から熱感があり、咳をしていたが、一九日頃の朝から頭痛、高熱がつづき、背部痛を訴えるようになり、また、一月二四日、三島病院では三九度八分の熱があつた。富士病院収容後は、二五日に三七度七分の熱があつたが、一月二七日から平熱になつた。

正雄、広子、幸子、正志からは腸チフス菌の検出があり、また、よしは腸チフス感染の機会があり、そしてその症状および経過が正雄らのそれと類似していることなどからみて、いずれも腸チフスに罹患したものと認められる。

二 犯行方法に関する自白の検討

本件各腸チフスの発病はいずれも被告人がバナナを届けた家族についてだけ、しかも家族集積性の高い発病をしている。したがつて、これらを全体として考えるとき被告人の贈つたバナナに原因がある蓋然性がかなり強く感じられる。しかし、そのバナナが果して腸チフスを発症させうる程度の菌量を保有していたか等については、各訴因ごとに被告人の自白を細密に検討してみる必要がある。

(一) バナナに腸チフス菌を付着させる方法について

被告人の自白にかかるバナナに対する腸チフス菌付着方法の共通の問題点についてはすでに、千葉大バナナ事件に関して説示した。ここでは、本件各訴因における菌数および潜伏期を検討する前提となる事柄のみを明らかにするにとどめる。

(1) 被告人の供述したところによれば、堀内方事件では、昭和四〇年九月八日午後七時過頃、哲太郎事件では一二月一二日午後七時過頃、収方事件では一二月二六日午前一一時頃、富川方事件では昭和四一年一月一二日午後七時過頃、いずれも千葉大六研実験室にバナナを持ち込んで一白金棒分の腸チフス菌を直接に、あるいは一白金棒分の菌液を付着させた。それは白金棒を用い二、三本のバナナに穿刺したのである、としている。

(2) 一つの疑問

ところで、被告人は、追加訴因にあるような一本のバナナに二個所腸チフス菌またはその菌液を注入したとは述べていない。また、この訴因を肯定するに足る他の証拠もない(この点については第四A三で言及した)。しかるに、前述のように富川方では各自バナナ一本の半分ずつしか食べていないのであるから、広子、幸子、正志の発病に疑問が生ずる。すなわち被告人は富川方の件につきバナナに菌を穿刺するのは「バナナの先端(落花部)から中へ二、三センチ刺した」と述べている(6.6検七八)。そしてバナナに白金線でチフス菌を注入しても穿刺部位から一センチメートル以上に拡がらないことは善養寺、坂井鑑定人の供述するところである。したがつて、もし被告人がバナナに右のようにして一回しか穿刺しないのであれば右三名のいずれかの発病は直接バナナによるものではないと結論しなければならない理になる。

(二) バナナに生存する腸チフス菌数について

(1) 被告人の供述する方法により、その日時にバナナに対し腸チフス菌液を穿刺しまたは腸チフス菌を直接穿刺した場合、各喫食した当時バナナに生存する菌数は、善養寺鑑定によるとおよそ次表とおりとなろう。

事件名

堀内方事件

哲太郎方事件

収方事件

富川方事件

菌注入年月日時

40.9.8後7

40.12.12後7

40.12.26前11

41.1.12後7

バナナ喫食時

40.9.9夜

40.12.15夜

40.12.26後3

41.1.17夜

菌注入と喫食時の経過時間

1日

3日

4時間

5日

バナナ肉質部の

菌の概数

菌液穿刺

104(10)3

105(10)3

500以下

105(10)5

直接穿刺

107(〃)

106~108(10)8

105~107(10)6

107~109(10)8

(注)菌の概数欄のカッコ外は一夜培養菌を用いた場合、カッコ内は一夜培養後室温で一〇日放置した菌を用いた場合を示す。

(2) 発症率および潜伏期

(イ) 堀内方では、バナナ喫食者九名中、七名が腸チフスに罹患し、そして、その発病日はすえをが九月一三日、美和子が一五日、他の五名が一二日と考えられる。したがつて、バナナ喫食時を基準にした潜伏期は三日ないし六日である。従来の学説、実験等にしたがつて菌数との関係でこれを検討してみると、(a)腸チフス菌液穿刺の場合、発症率および潜伏期のいずれの点からも、バナナによる腸チフス罹患は疑問が出てくる。(b)直接穿刺の場合では、発症率も高く、しかも大部分の潜伏期が三日(実質は2.5日位のものもある)というのでやはり疑問になる。

なるほど、ホーニックの実験で、潜伏期が三日の例はある。しかし、ホーニックの実験例で潜伏期が三日である場合の菌数は、109個で、それは本件の直接穿刺にくらべ、はるかに多い菌数である。

(ロ) 哲太郎方では、バナナ喫食者六名全員が腸チフスに罹患している。そしてバナナ喫食時を基準にした潜伏期は、それぞれ四日から九日になる。(a)菌液穿刺の方法では全員発病は疑問である。(b)直接穿刺の方法だと、発症率が少し高い程度で、潜伏期については、ホーニックの実験例にも適合している。

(ハ) 収方では、バナナ喫食者三名とも発病した。この喫食時を基準にした潜伏期はほぼ四日になる。(a)菌液穿刺の方法では三名とも発症させるのは無理であろう。しかし、(b)直接穿刺の方法だと、潜伏期四日での発症の可能性はないではないが、三名とも四日というのはやや問題を残す。

(ニ) 富川方では、すでに正雄は一月一五日、正志は一六日、幸子は一七日にそれぞれ病変があつた。かりに高熱の時を発病と考えると、幸子は一月一八日、正雄および正志が一月一九日、そして広子は一月二五日に発病したことになる。したがつて、富川方のバナナ喫食日が一月一七日と認められる以上、正雄(喫食したかどうか不明であるが)、幸子、正志については発病後にバナナを喫食したことになるか、それとも喫食後一日ないし二日で発病したことになる。喫食当時バナナに生存する腸チフス菌数は、直接穿刺のときはもちろん、菌液穿刺のときでも腸チフス発病の可能性の高い菌数ではある。しかし、その発病経過はバナナ喫食前にあつたか(もし正雄がバナナを食べていないとするとその疑いはますます濃くなる)、潜伏期が異常に短かい。富川方事件の発病経過は、前述のバナナを半分しか食べていないことと相まつて、バナナを腸チフス罹患の原因とするには大きな疑問がある。

以上のことを整理してみると、検察官の構成した当初訴因による菌液付着の方法では、いずれの場合でも被告人の提供したバナナで腸チフスに罹患させたとは認めることはできない。他方、追加訴因による直接穿刺の方法でも、富川方の件に関する限りバナナをもつてその腸チフス罹患の原因とすることは困難といわなければならない。ただ、哲太郎方の件については、バナナを原因となしうる可能性はあり、堀内方および収方ではやや疑問を残すが、その可能性を全く否定することはできない。しかし、この直接穿刺の方法に関する自白が正しいと認めることができるかについて問題の存することは、これまでしばしば述べたとおりである。しかも、富川方の件は直接穿刺の自白を採つても腸チフスの発症と無関係のようであり、これは他の件についても一体被告人がそのような方法で犯行をしたと断じうるのかという疑問を浮びあがらせる。

(三) バナナの包装について

被告人が堀内方、哲太郎方、収方に持参するために購入したバナナが購入当時あるいは贈つた当時紙袋に入つたままであつたか、包装紙で包んであつたか必ずしも定かでない。堀内すえを、鈴木いよ子、石川すへ子の各証言によると、堀内方、哲太郎方の分は紙に包んであり、収方の分は袋のままであつたように思われる。もし被告人がバナナを包装紙に包んで買つたとしたならば、それを一たんあけ、菌を付着させ、また包みなおしたことになる。他方、富川方の分は果物の詰合せのボール箱(または籠)にセロハンがかけてあつたことは確かであるから、そのセロハンを一たんあけ、菌を付着させ、また包み直したことになる。前三者の分についてはまだしも、後の富川方の分についてはそのやり方に多少無理があるように考えられる。しかも、他のみかんや梨には手をつけず、バナナにだけ菌を付着させたというのも不自然ではなかろうか(この点に関する捜査官との問答6.6検七八の6項)。

三 他の感染原因存在の可能性

(一) 堀内十助方の場合

堀内方でチフスに罹患する以前、附近一帯に腸チフスの流行があつた形跡はない。ただ、昭和四〇年六、七月に御殿場市内で二名腸チフス罹患を疑われる者があつた。しかし、その者と堀内方とは場所が離れており、もちろん往来はない。堀内方ではほとんど同時期に発病しているので、この二名が堀内の発病の原因となる可能性は全く否定してよいであろう。また、弁護人の指摘する堀内方の井戸水も、本件のような突発的な多数の発症をおこさせる原因であつたとは考えがたい。したがつて、堀内方の感染原因は共通喫食の食品類を想定するのが最も自然であることは、これを肯定しなければならない(ただし、後述五のまとめの項参照)。

(二) 鈴木哲太郎方の場合

小山町の鈴木哲太郎方と御殿場市の堀内方とは全く往来はない。そして地理的にも離れていて堀内方が哲太郎の感染原因となるとはおよそ考えられない。弁護人は、哲太郎は高血圧治療のため三島病院に行つていたので、そこから感染した可能性があるようにいう。しかし、哲太郎が三島病院に治療に行つたのは昭和四〇年春のことであり、替成できる主張ではない。しかし、被告人の父繁との関係については十分な吟味を要する。繁は哲太郎方の腸チフス罹患とほぼ同時期の一二月中旬頃発病、病床についた。この病状は被告人らにおいて秘匿していたので当時外部にはよく知られていなかつたが、昭和四一年一月に行なわれたヴイダール反応が陽性を示したこと、その一般症状等に照らし、腸チフスに罹患していたことは疑いない。その原因について、被告人は、捜査官に対し、哲太郎方に届けたバナナと一緒に父にも腸チフス菌入りのバナナを持参した旨供述し(5.4員九九、5.27検五七、6.5検七三、6.10検四八等)そして、それは「自分が高品町へ住宅新築後両親が一回もこないし、上野民子や妻から何回も、両親は孫が可愛くないのかといわれ、腸チフスにして苦しめてやろうと考えた」からだというのである。しかし、この動機は余りにも奇矯なものではないだろうか。被告人は、勤務と研究に追われる毎日なのに三島病院勤務の前日きまつてわざわざ父母の家に宿泊している。そして繁は、深夜被告人を駅まで出迎え、母琢は、被告人の好物を用意したり、身の廻りの世話をして被告人をもてなしている。そのような父母に対し、腸チフスに罹患させる所為に出たとは想像できない。もちろん、検察官は、かかる自白がありながら起訴していない。到底信じがたく、立証できないと思料したからであろう。しかし、繁が腸チフスに罹患しているのは事実である。それではその発病の原因は何なのか。検察官はただ黙しているのみである。だが、この繁の発病が被告人によるものでないとすれば、これは二つの関係で哲太郎方の腸チフス罹患に対し重要な意味をもつ。その一つは、繁方に持参したバナナに腸チフス菌が入つていなかつたのと同様に、そのとき一緒に持参し、哲太郎方に届けたバナナにも菌は入つていなかつたのではないかと考えられることである。すなわち、被告人は父方の分と哲太郎方の分とをはつきり区別して下古城まで運んだのであろうか。また、父方の分に腸チフス菌を入れたという供述が嘘のことであるなら、哲太郎方の分に関する供述もまた嘘の供述ではなかろうか。このような疑問がわき出てくるのである。そして、その二は、繁方と哲太郎方とは常に往来があつたことから、哲太郎方の罹患は繁との共通感染ではないかという推測もはたらいてくるからである。

(三) 鈴木収方の場合

鈴木収は被告人の弟で、同人は、前述の鈴木繁が腸チフスで病床に就いてのち、一二月一八日、一九日、二六日、三〇日に繁方を訪ねて、同人の世話をしている。したがつて、収方の件については繁を通じて腸チフス感染の可能性がある。ただ、収、ハルエおよびハルエの母石川すへ子がほぼ同一時期に発病しているので、その感染経過に多少の問題は残つている。石川すへ子がバナナ喫食の当日(一二月二六日)だけしか収方に来宅していないならばこれは疫学上の例外例に当る。しかし、その前日にも赴いており、電車で一五分位しか離れていないところに住んでいるので、収が父の看病をした後、一、二回しか往来しなかつたかどうかは確定しがたく、真に例外例に相当するともいえないものがある。ただし、収が繁方から一九日に最中を持ち帰り、収、ハルエ、すへ子らで食べたような証言をそのまま信ずるわけではない。

(四) 富川正雄方の場合

富川方は、鈴木繁方の隣家であり、また鈴木哲太郎方とも近いので互いに往来があつた。そして、富川正雄は当時下古城部落一八戸の区長として、腸チフスの発生のたびに部落内の消毒作業にたずさわり、また同人方で部落人たちの検便などを実施した。このような関係から腸チフスの感染の機会はバナナ以外にも十分求めうる。

四 犯行動機の検討

親族関係事件については、とくにその犯行動機が重視されねばならない。けだし、叔父、叔母、いとこ(堀内方)、いわゆる本家(哲太郎方)、弟夫婦ら(収方)、親しい隣家(富川方)に対し“菌を盛る”のである。よほどのつきつめた気持がなければならないであろう。しかも、起訴によれば、いずれも川鉄カルピス事件のあとのことで(これが被告人の所為かどうかは別にしても)、腸チフスの激烈な症状は被告人として十分知悉していたはずである。まして、堀内方の惨状を知りながら、さらに次々と敢行していつたとするには、格別の事情が認められてはじめて首肯できるところである。

ところが、親族関係事件についての動機に関する被告人の供述の多くは、本件起訴にかかる他の事件について人体実験目的を供述したあとに述べられた関係上、格別の事情というのがほとんど述べられていない。結局、親族関係事件もまた主として人体実験目的のあらわれであつたということであろう。そして、臆測するに、親族関係事件については、他の事件と異り、とくに環境に対する不平不満等も見いだせないため、検察官としては人体実験目的を設定せずしては親族関係事件を説明しえないと考え、裏づけを欠き、また矛盾を内包している点があるにもかかわらず、全体的に人体実験目的を冒頭陳述にうたいあげたと解されないでもない。しかし、審理の過程でこの主張は維持されなくなつた。そして、登場したのが性格異常論であつたのである。だが、これをそのまま採用すべきでないこと、やはり個別的に証拠上動機となりうる事情を確かめなければならないことはすでに総説で論じた。そして、人体実験目的に関する被告人の自白の不合理性については、もはや他の件で指摘したとおりであるから言及することを避け、ここではその他について、各事件ごとに少しく検討してみる。

なお、被告人が堀内方、哲太郎方、収方、富川方にバナナその他を届けたのは、常にはないことではあつたが、病気見舞等のそれなりの理由が認められる。そして、もし堀内方の犯行が事実とするならば、さらにその後同じようなバナナを哲太郎方以下に届けたのは、かえつて発覚を容易にする。被告人はみずから墓穴を堀る愚をおかすことに想到しなかつたものであろうか。堀内方の件を韜晦する所業であつたとする以外つじつまが合わないのではあるまいか。

(1) 堀内方事件について

被告人は、なんら犯行の動機となるべきことについて供述はしていない。かえつて、堀内十助方は、被告人の叔母の家であり、被告人は、家屋新築に際し、同人から借財したり、また、事件後ではあるが、父繁の入院費用に困りこれを借りようとしたことすらあり、堀内方を頼りにしていることがうかがわれ、同家に対し犯行をなすべき格別の事情は全く認め難い。

(2) 哲太郎方事件について

鈴木哲太郎方事件について、被告人は、「自分の家が衰微するに反し哲太郎方は家を新築したり、被告人の父の畑を手にいれてしまつたりしたので、腸チフスに罹患させて苦しめようと考えた」(5.3員三二)旨の供述をしている。しかし、同じ調書で、「母から、哲太郎方の家族のほとんどが富士病院に隔離されたときき、予期以上だつだのでびつくりした」とも述べ、果して前記の「苦しめようと考えた」との真意があつたのか疑問になる。

(3) 収方事件について

収方の件についても格別の動機についての供述はない。収は被告人のただ一人の弟である。また同人方を訪ねたのは、父繁の腸チフス罹患に対して入院の相談のため立ち寄つたもので、このような状況のもとでは、犯意を抑制されると考えるべきである。とくに弟を罹患させたら余計出費がかかることであり、父の入院費用の算段がより難しくなるのではあるまいか。(なお、一二月二六日の予定は弟の自宅を訪問するのではなく、別の場所で落ち合う約束をしており、はじめから弟に対しバナナを渡すつもりであつたとは思われず、犯意の形成過程にも疑問がある。)それにもかかわらず犯行をなしたとすれば、その動機は何か、これを認める何ものもない。

(4) 富川方事件について

これについても、格別の動機についての供述はない。富川万平は父繁の選挙の積極的な応援者であり、被告人が不満を覚えるような事情は全く存しないのである。

以上のように、親族関係事件については、他の川鉄、千葉大、三島病院など以上に「動機なき犯行」である。それはもちろん犯行の存在を疑わせる事由とならずにはおれない。

五 まとめ――若干の情況事実の検討を含めて

(一) 富川正雄方事件については、発病経過、他にもかなり蓋然性の高い感染原因のありえたこと、その他上述のところを総合し、被告人の犯行はむしろ積極的に否定される。(イ)被告人が一月二四日三島病院で、正雄、幸子、正志の診察後早々に「腸チフスの疑がある」といつたとの事実を検察官は指摘するが、それは診断にあたつた松田医師にはからず独自の見解を述べたとも思われない。(ロ)同月三一日頃の朝下土狩駅から御殿場保健所に対し、正雄の弟と名乗つて「富川家にはまだ腸チフスの疑いがある者がいる」旨電話したのは事実であるが、このような種類の電話をかけるのは被告人の常習的な行動であつて、隠微な性格を物語るものではあつても、その犯行を推認させるには足りない。

(二) 鈴木哲太郎方事件については、被告人の当初自白した問題のある犯行方法(腸チフス菌の直接穿刺)でならば、その発症はあり得る。しかし、父繁の腸チフス罹患との関係が解明されていない以上、自白に信を措くことができず、その他上述したところを綜合し訴因の成立には合理的疑いがある。

(三) 鈴木収方事件についても、被告人の当初自白した問題のある犯行方法でならばその発症もないとはいいきれないと思われるが、父繁からの感染の可能性もある。そのうえ致命的欠陥は首肯すべき犯行動機のないことである。そして、収方に贈つたバナナは後述の三島バナナ事件のそれと同時に購入持参していたものであるが、同事件の成立が疑われる以上、これは収方の事件にも影響を及ぼす。収方事件もやはり、訴因の成立について合理的疑いがあるとしなければならない。

(四) 最も問題なのは堀内十助方の件であろう。被告人の当初自白した犯行方法でならば(摂取させたとする菌量の点で疑問は小さくはないにしても)腸チフス発症の可能性を全く否定することはできない。しかも、右の三件とは異り、他に有力な感染源に相当するものも見当らない。同人方の者らが、捜査中あるいは公判の証言で、被告人をことさらかばい立てする言動を示したことは別にしても、(イ)被告人は、葛城病院においてしたためたいわゆる鈴木メモ(符五七七)に、九月六日、十助の診察をしたことは記載しながら、バナナを渡した九月九日のことは記載していない。(ロ)しかるに、九月一三日(真実は一四日)同家を訪れ、その家族が病状を訴えたことは記載している。何かをかくす意図があつたのではないかと疑われる。一体、この九月一四日、被告人が堀内方を訪問する特別の理由があつたのか、あつたとすれば、腸チフス菌入りのバナナを渡してあるので、その後の経過を見たかつたこと以外に考えられないのではないか。このように総合してみると、被告人の故意の犯行と推測する条件はかなりそろつている。しかし、それでもなお当裁判所としては本件訴因を確信に基づいて認定することには躊躇する。それは、第一に、動機が全く不明で、この点から被告人の犯行を裏うちできていないこと、第二に、果して被告人が追加訴因にあるような方法で犯行をなしたものかに疑問があること、による。思うに、この追加訴因にある犯行方法は捜査初期の自白でその後菌液穿刺に変じたといういわくつきのものである。そして、他の件で、この方法をとつたと仮定しても犯行を否定せざるをえないものが現出している。総じて被告人の自白は虚偽に満ちている。そして、これまでに説示し、また、これから説示するすべての事件の瓦解は、右の二つの疑問の波紋をさらに拡げる。堀内方の事件もやはり合理的疑いの枠を超えることはできなかつたといわなければならない。

第六  三島病院関係事件

(はじめに)

三島病院関係の起訴は、三島バナナ事件、バリューム事件、舌圧子事件であるが、三島病院では、かねてから同病院関係者に、腸チフス菌検出者が出ていたり、多数の発熱者があつたにもかかわらず、これを隠蔽していた。すなわち、三島病院では、すでに千葉大バナナ事件に関して述べたように、昭和四〇年七月から八月にかけて千葉大一内からの応援医師の小林康弘が腸チフスに罹患していたのにこれを隠蔽した。そして、昭和四一年一月、まず本件三島バナナ事件の被害者とされる者が発熱、つづいて内科を中心にして医師、看護婦、職員らが発熱していつた。しかるに、病院長、事務長、内科医師らは、これらの臨床症状および血液、糞便等の検査結果から腸チフスと判断していたのに、昭和三九年七、八月の集団赤痢で一時病院閉鎖があつて低下した信用が回復していない時期で、腸チフス発生が世上に知れ、再度病院閉鎖に立ち至ることを恐れた。そのため、右発熱を「集団風邪」と称して秘かに治療をするとともに、インフルエンザの予防注射と偽つて職員に腸チフスの予防注射などをしていた。

三島病院内での腸チフスが、保健所などに判明したのは二月二四日以降である。二月二〇日、副院長松田正久が死亡し、その解剖の結果腸チフスであると判明、これを三島保健所に届出、その後、山本あさ子がチフス性肺化膿症であることが明らかとなつて、この旨届出たりした結果、三島保健所、静岡県衛生研究所などが、調査および防疫活動に入つた。このため二月下旬以後の腸チフス罹患の全容はほぼ明らかになつているが、しかし、一月、二月の「集団風邪」については、それが腸チフスでないように取りつくろうべく、細菌検査伝票に事実を記載することを避けたこともあり、(腸チフス菌を検出したのに、抽象的にグラム陰性桿菌と記載したり、菌検出のない旨記入する等)、また保健所等からの調査でそれが明るみに出ることを恐れ、検査伝票を改ざん、滅却したほか、診療録類に加工したこともうかがわれる。これらの事情は三島病院関係事件の真実の発見を大いに妨げており、甚だ遺憾なことであつた。

一食品等の摂取と腸チフス罹患

(一) 三島バナナ事件

(1) バナナの喫食状況

三島病院内科外来では、昭和四〇年一二月下旬頃、山本あさ子と鈴木三保子が常勤の看護婦であり、そのほか看護婦の武士里乃が午前中勤務し、外来患者に対する診療の介助をしていた。そのほか、同年一二月下旬頃、外来病棟勤務の看護婦の尾山トシエが内科外来に応援勤務していた。岸端幸子は同病院庶務課事務員、下里ちえ子(通称洋子)は同病院医事課事務員、伊出富美子は同病院薬局事務員であつた。山本は、昭和四〇年一二月二七日朝内科外来の室(診察室、処置室、更衣室に区分されている)で勤務していたところ、被告人が出勤してきた。そして被告人は山本にバナナの包みを贈つた。内科外来の午前中の仕事が終つた午後一時頃、山本がその包みを開き、午後二時頃までの間、前後して、処置室ないし更衣室で、山本、尾山が各一本ずつ、武士里乃、伊出、下里が各一本ずつ、岸端が一本の二、三口分食べた。(伊出は山本に呼び入れられ同所に赴いたもの、下里および岸端は、たまたま内科外来に所用があつて来合わせたものであつた。)鈴木もその頃同席し山本からバナナをもらつたが皮をむいただけで食べずに捨てた。武士里乃は、なお山本からバナナ二本をもらつて自宅に持ち帰り、同日午後一時過から二時頃までの間に、夫武士譲二および長女美紀(当時一年)が右バナナを食べた。美紀は一本の半分位食べた。

右認定中、鈴木がバナナを食べたかについて、伊出と武士里乃は食べたように証言するが必ずしもはつきりしないし、鈴木自身の証言も混乱している。しかし、鈴木自身バナナの皮はむいたが捨ててしまつたことの記憶ははつきりしており、病気になつたのだから、そのほかにももらつて食べているのかも知れないと思うだけというにすぎない。もともと、このバナナの喫食のことは被告人が新聞でさわがれはじめた後に、バナナの喫食者間から話題となつて生まれてきたものであつて、腸チフス罹患者の心理としてはバナナに因を求めたがる傾向が出てくることは争えない。そのなかにあつて、鈴木が食べた記憶がないと供述していることは素直に食べなかつたからと認めるのが妥当である。

(2) 病状と腸チフス罹患の有無

(イ) 山本あさ子は、昭和四一年一月五日夕刻発熱、翌日解熱剤を注射したが、七日から三八度以上の熱がつづき、一月一四日に三島病院に入院したが、三七度五分以上の熱が持続した。二月一六日および二六日喀痰中から腸チフス菌の検出があり、チフス性肺化膿症の診断で、同月二八日駿豆病院に収容され、さらに、東京都立駒込病院に転院し、同年一〇月同病院を退院した。

(ロ) 尾山トシエは、同年一月三日頭痛、三九度に発熱があり、一〇日まで三七度五分以上の熱がつづいた。同月七日三島病院に入院し、同月一九日退院した。その間、白血球が一月四日四、六五〇、ヴイダール反応が一月七日一六〇倍、三月八日頃八〇倍であつた。

(なお、右一月一七日のヴイダール反応は三島病院境政恵技師が行なつたものであるが、同女が希釈方法を誤つたため、実際には、その数値の二倍が正しいと思われる。したがつて、以下には(境)と表示し、この関係を明らかにしておく。)

(ハ) 武士里乃は、一月一日に頭痛、三八度以上に発熱、同月一一日まで三八度から三九度九分の熱がつづいた。同月四日三島病院に入院、同月一九日に退院した。その間白血球が一月五日三、八〇〇、七日四、一〇〇、一四日五、六〇〇であり、ヴイダール反応は七日三二〇倍、一七日(境)四〇倍、三月八日頃一六〇倍であつた。

(二) 鈴木三保子は、昭和四〇年一二月一四日頃腹痛、嘔吐があつて、一五日沼津市立病院に入院し(病名、急性胃腸大腸炎)、二〇日退院した。そして二五、六日頃から出勤したが、その頃は体に異常はなかつた。一二月三一日当直の夜多少倦怠感があり、翌年一月一日、二日その状態がつづいた。一月三日頭痛、三八度位に発熱、翌日は頭痛および腹痛があつた。熱は七日三八度四分、一〇日三八度三分、一一日三七度一分、一二日三七度八分で、その後平熱になつた。一月一〇日三島病院に入院し、同日一九日に退院した。その間、白血球は一月七日三、〇〇〇、一一日五、〇〇〇、一四日六、一〇〇、ヴイダール反応は一七日(境)四〇倍、三月八日頃八〇倍(OH)であつた。

(ホ) 岸端幸子は、一月三日に三九度位に発熱、関節痛、頭重感などがあり、高熱は六日までつづき、一二日に平熱になつた。その間、一月四日から医師の治療を受けていたが、腸チフスに有効な薬剤は一月一〇、一一日の二日間クロマイの投与をうけただけであつた。ヴイダール反応は三月八日頃八〇倍であつた。

(ヘ) 下里ちえ子は、昭和四〇年一二月三〇日頃から熱感があり、三一日には頭痛、下痢などがあつた。昭和四一年一月一日に頭痛、下痢、三九度六分に発熱、八日まで三八度四分から四〇度四分の熱がつづいた。一月三日三島病院に入院、同月二〇日に退院した。その間、白血球が一月四日一八、三〇〇、一四日一二、八〇〇、ヴイダール反応が五日、一七日(境)とも四〇倍、三月八日頃八〇倍であつた。

(ト) 伊出富美子は、一月二日に発熱し、同月一二日まで三七度五分から三九度七分の熱がつづいた。一月四日三島病院に入院、同月二〇日に退院した。その間、白血球が一月五日八、〇〇〇、一四日三、九〇〇、ヴイダール反応が一七日(境)四〇倍、三月八日頃八〇倍であつた。

(チ) 武士譲二は、昭和四〇年一二月三一日頭痛、関節痛とともに三九度に発熱、昭和四一年一月九日まで三八度一分から三九度八分の熱があつた。同月六日三島病院に入院、同月一九日に退院した。その間、白血球が一月七日七、四〇〇、一四日四、五〇〇、ヴイダール反応は七月三二〇倍、一七日(境)四〇倍、三月八日頃二〇倍であつた。

(リ) 武士美紀は、昭和四〇年一二月二九日夜三八度位に発熱、三〇日医師の治療をうけたが、三八度五分位の熱、咽喉発赤、咳があつた。その後も昭和四一年一月八日まで熱がつづいた。一月六日、三島市内の大橋医院に入院、同月一八日に退院した。その間咳があり、白血球は一月九日一六、八五〇あつた。

右の各事実に平石鑑定および証言(同鑑定に用いられた基礎資料のなかには、公判における証拠によつて認められる事実と多少の相異はあるが、本質的なものではない。したがつて、その取扱いの態度については川鉄カルピス事件について説示したところと同様である。)を参考にして考えると、山本は腸チフスであることは明らかである。尾山、武士里乃、伊出、武士譲二は、熱型、白血球数などからみて、腸チフスと認める。鈴木も、熱型、投薬効果等に照らし、腸チフスである蓋然性がある。下里および武士美紀については白血球が多いこと、岸端については、腸チフスに有効な薬剤を使わずに下熱していることから考え腸チフスを否定し得ないとはいえ、他の疾患の可能性のほうが大きい。

(二) バリューム事件

(1) 下村常一は、三島市内に居住し、熱海市内でタクシー運転手をしていた者である。同人は昭和四一年二月二一日胃痛があつたので、翌二二日三島病院内科に赴き、治療をうけたが、その際、同月二八日、胃の透視検査を実施する旨言われた。神戸いとは、三島市内に居住していた者である。同女は食道に異物感があつたため、同年二月一九日、二二日三島病院内科に行き、被告人から治療を受けた。そして同月二八日食道の透視検査を実施する旨言われた。

二月二八日、下村および神戸は、指示に従つて三島病院に赴いた。そして、まず下村が同日午前一〇時三〇分頃、レントゲン室で胃の透視検査をうけ、つづいて神戸が食道および胃の透視検査をうけたが、その際、両名とも被告人から指示されて、バリューム約三〇〇ccを飲んだ。

(2) 下村および神戸の腸チフス罹患

下村は、三月一日朝四〇度位に発熱したため、三島病院に行つたが、それ以来頭痛、下痢がつづいた。そして三月三日実施の検便の結果、赤痢菌が検出され、同月五日駿豆病院に収容されたが、血液検査の結果、三月八日に腸チフス菌が検出された。その間、三月九日(三月五日三六度五分)まで三七度九分から四〇度位の熱がつづいた。そして、四月三日に退院した。

神戸は、三月四日か五日から下痢(六日消失)とともに三九度位に発熱、一二日まで三七度五分から四〇度の熱がつづいた。そして三月一一日腸チフスと診断されて、同日駿豆病院に収容されたが、同日実施の血液検査の結果腸チフス菌が検出された。同女は四月五日退院した。

下村および神戸は腸チフスに罹患したと認められる。

(三) 舌圧子事件

(1) 狄塚征子は看護婦で、昭和四一年二月岩手県釜石市内の病院を退職し、同年三月一日から三島病院婦人科に勤務していた者である。同女は同年二月二七日午後三島市内に着き、翌二八日、三島病院に赴いて午後二時過頃被告人から健康診断を受けた。その際被告人は、まず上半身裸であつた狄塚の胸腹部、背部の聴打診、口腔内診察(舌圧子使用)、そして血圧測定をした。狄塚が、右診断後同室一隅で服を着終つたところ、被告人は、「虫歯を診るのを忘れた」といつてさらに舌圧子を使つて歯を診察した。

(2) 狄塚の腸チフス罹患

狄塚は、三月三日頃から、倦怠感を覚えていたところ、同月五日から熱感、六日三九度一分に発熱、頭痛、関節痛があつたため、三島病院に入院したが、一〇日まで三八度から四〇度一分の熱がつづいた。七日実施の血液検査の結果腸チフス菌が検出され、同月一〇日駿豆病院に収容、四月二九日に退院した。

狄塚が腸チフスに罹患したことは明らかである。

二 自白の検討

三島病院関係事件についての被告人の供述は、三島バナナ事件については親族関係事件の捜査の中頃から供述し、バリューム事件、舌圧子事件は、捜査の最終段階で供述している。すなわち、

(1) 三島バナナ事件 山本あさ子らに渡したバナナは、被告人が一二月二六日千葉市内で、当日弟収方に渡したバナナと同時に購入したものであること、そして収方に贈つた以外のものを一たん父繁方までもつてゆき、二六日そこで一泊後、二七日に三島病院に持参して山本らに渡したものであることについては被告人も当初から一貫して供述しているところであるが、このバナナに腸チフス菌を入れたかどうかについては、まず黙秘し(5.11員三四、同日員三六)、その後、腸チフス菌を穿刺したかも知れない(5.24検七四)旨の供述が中間にあつて、六月五日から自白した(6.5検七三、6.10検四八)。

(2) バリューム事件 これについては、バリュームが原因かどうか何とも言えない(6.27検七九)、腸チフス菌を入れたような気がしない(6.29検八一)旨の供述を経て、七月二日から自白した(7.2員四一、7.3検八二、7.6検八三、7.15検八四)。

(3) 舌圧子事件 これについては四月一三日否認していた(員一一)。そして、バリューム事件と同時期に取調を受けているのであるが、なお否認し(6.29検八一、7.2員四一)、七月五日から自白した(7.5員四二、7.6検八三、7.15検八四)。

(一) 犯行方法の検討

(1) 三島バナナ事件

被告人の供述しているバナナに腸チフス菌を付着する方法は鈴木収方分と全く同様である。被告人が三島バナナ事件を自白した時(昭和四一年六月五日)は、すでに他のバナナの件について、いわゆる菌液穿刺に固まつた供述をしていた段階であるので、本件についても菌液を穿刺したことになつている。しかし、収方に贈つたバナナと同時に菌を注入したことになつていること、および検察官が直接穿刺の方法を訴因に追加したことを考慮し、自白にはないが、ここでは直接穿刺の方法についても検討する。被告人がバナナに腸チフス菌を付着させたのは鈴木収方の分と同様、一二月二六日午前一一時頃ということである。

(イ) バナナ喫食時において生存する腸チフス菌の菌数

被告人がバナナに腸チフス菌液を穿刺し、あるいは腸チフス菌を直接穿刺したのち、二六、七時間後にバナナが喫食されている。その喫食時におけるバナナ一本あたりの腸チフス菌の菌数を中谷、善養寺鑑定を総合して考えると、(a)菌液穿刺の場合では、一夜培養菌を用いても104個以内、(b)直接穿刺の場合では一夜培養菌を用いたとき107個位、一夜培養後室温で一〇日放置の菌、あるいは同一五日放置の菌ではそれよりもやや減少傾向を示すようにみられる。

(ロ) 発症率および潜伏期

(a) 菌液穿刺の場合、右の菌数で腸チフスを発病させうるか大いに疑わしい。たとえ岸端、下里、武士美紀らは腸チフスに罹患しなかつたとしても、それ以外の者六名を罹患させえたとは到底思われない。

(b) 直接穿刺の場合、武士美紀(推定発病日二九日)は潜伏期が三日となつて、これは一夜培養菌を用いて出てきた個107の菌数では短かすぎることとなろう(検察官は、幼児の場合は急速に発病するというが、その主張を考慮に入れても三日の潜伏期は早すぎるといわなければならない。)。しかし、同女および下里、岸端を除くその他の者の発病は、五ないし一〇日の潜伏期となるので従来の学説・実験例に照し107個の菌数でも必ずしも不合理とはいえない。もつとも、発症率(鈴木の喫食を否定すれば6/8、七五%)はやや高すぎるきらいがある。他方、一夜培養菌以外の菌を用いたときには、一夜培養菌を用いたと想定したとき以上にバナナ喫食に罹患の原因を求めるには難が加わることになろう。

(ハ) 右のように、追加訴因にある直接穿刺の方法を仮定すれば、本件被害の半数位は発症させることができる。しかし、条件が少しでも落ちるとこの可能性も相当に薄らぐ。いわんや、この直接穿刺の方法に関する被告人の自白が信ずるに足りるものか問題のあることはしばしば述べたとおりである。

なお、ここで看過できないことは、鈴木三保子の発病である。前認定のとおり、同女はバナナを喫食していない。同女の発病が腸チフスでないというならばともかく、その蓋然性を認めるとすれば、その発病の原因は何と考えるべきであろうか。バナナの皮にも肉質部とほぼ同様の菌が付着することは善養寺鑑定にあらわれているところであるが、かりにその菌が体内に入るとしても喫食したのと同じような菌数でないことは自明である。ここにも一つの問題が横たわつている。

(2) バリューム事件

バリューム事件における犯行方法に関する被告人の供述は、二月二七日午後六時過頃、千葉大六研実験室で二〇cc蒸溜水アンプルに中試験管寒天斜面培地の腸チフス菌を一白金棒分混入した菌液を作り、これをピペットを使つて小試験管に約一ccとり、小試験管にゴム栓をして、洋服かオーバーのポケットに入れて持ち運んだ。そして、二八日、下村、神戸のレントゲン検査を担当することになり、午前一〇時三〇分頃(菌液を作つてから一六、七時間経過)、バリュームにその腸チフス菌を混入させようと考え、右小試験管を白衣のポケットに移してレントゲン検査室に持つてゆき、バリュームの入つたコップ二個に約0.5ccずつ菌液を滴下し、下村および神戸に飲ませた(7.2員四一、7.3検八二、7.15検八四)というものである。しかし、腸チフス菌液を作るのに蒸溜水を使い、菌液を小試験管にいれただけで運搬していることなど、細菌取扱いに習熟した者の行為としては首をかしげざるをえない供述ではある。

被告人の供述する方法をもとに試みた善養寺鑑定によると、下村、神戸が飲んだバリュームに生存した腸チフス菌数は(a)一夜培養菌を用いた場合は106個位で、(b)一夜培養後室温で五日ないし一〇日放置した菌を用いた場合では105個前後に減る。(ただ、鑑定人の使用したバリュームが、本件当時のバリュームと異り、各種細菌汚染を防止、阻害すべき加工をしたものであることを考慮すると、本件当時のバリュームコップ一杯中の腸チフス菌数は鑑定よりも多いことはあり得るかも知れない。)

右の前提に立つて潜伏期をみてみる。(発症率については、二例にすぎないので検討できない。)下村については、同人が赤痢にも罹患しているので腸チフスの発病日が何時か不明であるが、もし三月一日の発熱を発病日とすると、わずか二日である。これは菌数算定をまたずして、もはや腸チフスの潜伏期としてはおよそ考えられないことである。神戸については潜伏期は五日間位となる。菌数から考えやや短いが、絶無ではないかも知れない。しかし、本件でも少しでも条件が狂えば腸チフスを発症させえない性質のものであつて、被告人の自白する犯行方法はきわめて不安定な要素をはらんでいるものである。

まして、下村の感染原因がバリュームでないかも知れないとすると、神戸のそれも同様に考えざるをえない関係にある。

(3) 舌圧子事件

舌圧子事件における犯行方法に関する被告人の供述は、三島病院内科外来診察室で狄塚征子の健康診断を実施し、同女が、背をむけて服を着ている間に、被告人は白衣のポケットに入れておいた小試験管をとりだして、残つていた腸チフス菌液(作製後約二〇時間経過)を舌圧子に滴下して、「喉を診ましよう」と言つて、同女の口腔を診察した際に、舌圧子を使用して腸チフス菌液をたらした(7.5員四二、7.6検八三、7.15検八四)というものである。なるほど、狄塚が被告人に背を向けて服を着けている間に、被告人の供述するように腸チフス菌液を舌圧子に滴下し得ないではなかろう。しかし、狄塚は腰元まで下げたスリップを着、シャツ一枚およびスーツの上着を着るだけであつたこと、健康診断の際看護婦宮嶋和子が被告人の介助をしており、かりに宮嶋が一時その場を離れたとしても、すぐに戻つて来る可能性があつたことを考えると、かねてから機を窺つていたのならともかく、偶然、狄塚が背を向けて衣服を着ける際に口腔を診ることを思いたつた被告人が、そこで犯意を抱き、かつ犯行に至ることは、状況上困難であるというべきである。

被告人の供述する方法に善養寺鑑定をあてはめてみると、舌圧子を使つて狄塚の口中に入つた腸チフス菌は、一夜培養菌を用いた場合は106個位で、一夜培養後五日ないし一〇日放置した菌を用いた場合では105個位に減る。ホーニックの実験例では潜伏期は105個で早くて六日、107個で早くて四日である。狄塚の場合は発病まで六日あるとすれば105〜106個位ならば発症はありえないことではない。

(二) 犯行動機に関する自白の検討

(1) 人体実験目的

これについては三島バナナ事件については供述があるが(6.5検七三)バリューム事件および舌圧子事件での供述にはない。しかし、それは、右両事件の供述の前にすでに人体実験に関する供述がなされていたためと考えられる。したがつて、検察官は冒頭陳述で、バリューム事件、舌圧子事件も人体実験目的の犯行と主張している。

しかし、いずれにせよ。人体実験目的の不合理性についてはすでに千葉大バナナ事件に関し述べたとおりであるからここでは再説をさける。被告人は、三島病院関係事件でも、人体実験目的にそうような行動は一切とつていない。

(2) その他の動機

被告人は、当初、三島病院医局の日本医科大学出身者と千葉大学出身者の間にはさまつて眼に見えない圧力感と、病院の防疫対策に対する批判的な感情があつた旨(4.13員一一)供述したことがある。しかし、これは三島病院関係事件の犯行と結びつけての供述とは思われない。その後、三島バナナ事件については、鈴木収方事件のバナナと同時にバナナを買つたもので、父繁が病気中世話になつた者に贈るつもりであつたが、そのような者がなく、処置に困つて三島病院に持つていつたものであると述べている(5.11員三六、6.20検七五)。一方、バリューム事件、舌圧子事件では、腸チフス菌を三島病院にもつて行き何かの機会に使うつもりであつた(7.2員四一)といい、二月二七日千葉大六研にいたが翌日三島病院に勤務することを考えたところ急に腸チフス菌液を作つてみたい気になつた(7.3検八二)、そして二月二八日三島病院に腸チフス菌液を持参したが、鹿島医師にかわつてレントゲン検査を行なうことになつて、バリュームに腸チフス菌液を入れることを思いたち(7.2員四一)、また同日午後、狄塚の健康診断が終つて、同人が服を着ていた時、喉の診察を忘れていたことに気づき、診察しようと思つて舌圧子を持つた時、腸チフス菌液を使つてみようという気になつた(7.6検八三、7.15検八四)と供述している。

右のような供述は犯行の動機としては至つて薄弱であり、ことに当時の被告人と三島病院との関係から考えると、きわめて疑わしい。

まず、三島バナナ事件について、このバナナは本来、腸チフスで病臥している父親が世話になつた者に贈るために購入したというものである。父の看病や入院のことで心配していた弟収や(この点については前述)、その他父が世話になつた人を同じ腸チフスに罹患させようと考えること自体理解し難い。そして、いくら処置に困つたからといつて、三島病院の看護婦に喫食させようとする心理経過は不自然きわまる。かえつて被告人は、昭和四〇年一二月一八日に千葉大および三島病院関係者と話し合いがまとまり、翌年四月頃から三島病院に就職し、その際、検査課長の地位を約束されていたのであつて、それから一〇日も経過していない一二月二七日に、犯行を思いたつということがありうるであろうか。また、腸チフスに罹患している父親を入院させようとしている当の病院に、腸チフスを蔓延させるおそれのある食品を喫食させる奇行をあえてなすものであろうか。

バリューム事件および舌圧子事件について、被告人が腸チフス菌液を作つた経緯が明確でない。そのうえ、レントゲン検査および健康診断とも当日全く偶然に被告人が担当したもので、その間に犯意を抱くようになるための必然的契機は何もない。そして、バリューム事件および舌圧子事件の時はすでに三島保健所、静岡衛生研究所が、三島病院の腸チフスを知つて介入し始め、三島病院では、診療録や検査伝票を隠したり、手を加えるなどの対応策を行なつていた時期である。また、被告人はすでに国立予研の大橋誠技官から保菌者ではないかともたずねられたりしていた。被告人が、自らが疑われる立場にありながら格別の理由もなく、犯行に出たことは常職的には到底考えられない。

三 他の感染原因存在の可能性

(一) 三島バナナ事件

(イ) 昭和四一年一月、二月の「集団風邪」といわれた発熱者のうち、被告人の贈つたバナナ喫食者が最初に、ほぼ時期を同じくして発病している。したがつて、その原因はバナナにあると考え易いのは自然の成行きかも知れない。しかし、本件三島バナナ事件の被害者とされる者とほぼ同時期に、内科外来の患者山口浩一が腸チフスに罹患している。同人は冬休みで三島に帰省していた学生であるが、胃痛のため山本らがバナナを喫食したと同じ昭和四〇年一二月二七日、三島病院内科外来に来た初診の患者であり、その後、同月二八日、昭和四一年一月六日、七日に治療を受けていたが、同月一〇日検便の結果一二日腸チフス菌検出が判明した。山口の腸チフスについて、潜伏期および便から腸チフス菌が検出されたことにかんがみ、昭和四〇年一二月二七、八日受診の際感染した可能性がある。

そして、昭和四〇年八月、前記のように千葉大一内の小林康弘医師が腸チフスに罹患して三島病院で入院加療を受けていたことのほか、同月同病院検査助手松野綾子が腸チフスに罹患していること、検査技師高橋熈内の証言によれば、三島病院内でその頃他に腸チフス菌を検出したことがあるとされていること(ただし、誰の分か明らかでない)、当時における同病院の衛生管理の不備などをあわせ考えると、本件三島バナナ事件以前に、三島病院に腸チフスが潜在していた疑いがある。その関係で注目すべきは三島バナナ事件の被害者の一人とされている山本あさ子の疾病である。

(ロ) 山本あさ子の疾病について

山本あさ子は、昭和二四年頃および昭和三一年頃、肺結核で各一年位入院したことがあつた。昭和四〇年七月からは右足関節炎の治療を受けていたが、同年八月二一日三七度八分に発熱しはじめた。とくに夕方に発熱する状態がつづき、一時下熱する時があつたものの、同月二七日微熱とともに下腹部痛、頭痛がつづき、九月三日から一〇月一二日まで三島病院に入院した。その間、高熱はあまりなかつたが、咳、関節痛などがあつた。検査伝票等をみるかぎり、結核の検査のほか、一般細菌の培養検査等もくりかえし行なわれ、「グラム陰性桿菌」の検出、その感受性検査、ヴイダール反応もなされている。そして白血球は八月二五日五、一〇〇、九月四日七、〇〇〇、一一日九、七〇〇、一六日六、五〇〇であつた。退院後も引続き治療をうけていた。そして、一二月一三日さらに発病、赤痢菌検出があつて、一二月二五日まで入院していた。

同女がバナナ喫食前に腸チフスであつたと断定することはできない。しかし、同女のチフスは、肺に腸チフス菌の病巣があり、そこが化膿していたチフス性肺化膿症である。この病気は、腸チフス菌の感染、そして発病から病巣形成まで相当の期間を要するものとされている。もちろん。この病巣は昭和四一年一月前後頃の感染によつても形成されうるものかも知れないが、前記の昭和四〇年の入院当時すでに腸チフスに罹患して、その時から病巣形成がはじまつていた可能性も否定できない。もしこの山本がそのような状態であつたとすれば、山口浩一も、そして山本を除く他のバナナによる被害者とされる者の腸チフスもすべてここに感染源があつたということにもなりかねないであろう。しかし、この関係の詳細は十分確定できない。

(二) バリューム・舌圧子事件

(1) 三島病院における一月以降の腸チフスの流行

はじめに述べたように、三島病院職員間において、昭和四一年一月から三月までの間、三島バナナ事件の被害者とされる者を除いてなお、多数の発熱者があつた。静岡県衛生部の調査で判明した者に限つても、同年一月中一八名あり、そのなかには内科医師鹿島洋もまじつている。そして、同年二月から三月中旬(一九日まで)にかけて腸チフスの発病をしたか、入院をしたか、その保菌者と診定されたかに該当する者が三〇名ある(下村、神戸、狄塚を除く)。すなわち、喬橋うた、鈴木勝、杉沢春雄、広田克、松田正久、鈴木道子、前沢悦子、二村喜郎、鈴木久子、堀川きよ子、小林すみ、鈴木政雄、森田佳恵、大谷七恵、井出喜代子、宮嶋和子、山下あき子、市川和子、宮沢由利子、神田たけ、石井宏衛、大谷和夫、佐々木はる、加藤テル、浅賀民子、壬生昭彦、岩本たみ子、石村知枝子、杉本ちよ、荻田仁之典らで、内訳は職員八名(家族一名を含む)、外来患者一二名、入院患者一〇名である(符四八四)。このうち内科を担当していた松田正久副院長は腸チフスによつて(発病日は定かでないが、二月中旬に急速に進行)二月二〇日死亡している。これらのほか、三島病院で腸チフス菌検出があつたが届出せず、隠蔽したと思われる者が少なくとも八名位はいたようである(鹿島、高橋熈内証言)。

(2) 下村、神戸の場合

下村常一は、三島病院内科外来に二月二二日初診、そして、二八日に再来したものである。また、神戸いとは二月一九日初診、二二日、そして二八日に再来している。その頃(1)で明らかにしたように三島病院内では、多数の腸チフス罹患者があつた。そのなかには下村、神戸と同じく外来患者一、二名が含まれている。これらと下村、神戸との感染原因が全く異なるとの客観的証拠は一つもない。なお、かりにバリューム飲用が下村、神戸の感染原因であつたとしいて考えたとしても、その際、バリュームを準備した看護婦宮嶋和子は三月三日実施の血液検査で腸チフス菌が検出されているのである。下村らが腸チフスに感染する機会は被告人の犯行を想定しなくとも十分ありうる状況である。

(3) 狄塚の場合

狄塚は、二月二七日に三島市内に着いたのであつて、腸チフスに感染する機会としては同日以降になるわけであるが、二月頃から三島病院では腸チフス罹患者が多数いたことは(1)で明らかにしたとおりである。同女は、二月二八日から、三島病院の看護婦宿舎の第一若草寮に居住し、同日頃、同寮内で看護婦二、三〇人が会食したこともある(一月の集団風邪」にかかつた者のうち、浅賀民子、中西節子、菅原陽子、宮嶋和子らは第一寮の看護婦である。)。そして、また、本件健康診断の際、舌圧子を準備し、血圧測定、肺活量検査等に関与した看護婦宮嶋和子は前記のとおり当時腸チフス菌を保菌していた。このように、狄塚については舌圧子事件を想定しなくても腸チフスに感染する機会は十分ありえた。それにもかかわらず、被告人の行為によると疑い、捜査されるに至つたのは何故か。狄塚の証言によると、同人は駿豆病院に入院中、腸チフス感染の機会について思案したところ別に考えなかつたが、当時新聞報道等で被告人にいろいろな疑惑がかけられていて、被告人が同女に対し舌圧子を二回も使つたことを不審に思い、ついに舌圧子に原因があると思料するに至つたことによるようである。新聞報道に影響された適例ともいえよう。

四 まとめ

(一) 三島バナナ事件におけるバナナは親族関係事件中の鈴木収方のバナナと同時に腸チフス菌を注入したとされているものである。そして、そのバナナを喫食した者のほとんどが腸チフスに罹患した。そして三島バナナ事件では、収方事件の石川すへ子と同じように武士譲二(美紀はあえて除くとして)という。いわば例外例が存在するかの如くである。これだけをみると、被告人の犯行の蓋然性がかなり高いように見受けられている。しかし、武士譲二とて武士里乃の夫なのであるから、武士里乃について他に感染原因があるならば真の例外例とはいえない。当時の三島病院内にはいくつかの感染原因はありえたのである。そして、被告人が供述し、検察官が主張している犯行方法によつては、全く条件に恵まれない限り、バナナによる腸チフス発病は困難であること、以上に説明したとおりである。犯行の動機も不自然であつて、また、被告人は前述の「集団風邪」(三島バナナ事件の被害者とされる者を含む)の発病者名、発病期間等を記載したメモ(符一二七)を国立予研の大橋技官にわざわざ手渡している(これが厚生省による調査の基礎資料となつたものであつた)。これは犯行をおこなつた者の行為とは思えないものがある。結局、三島バナナ事件の公訴事件については合理的な疑いがあり、証明不十分と判定する。

(二) バリューム事件と舌圧子事件とは、三島病院内において腸チフスが蔓延しているさ中において起きている。そして数多くの腸チフス罹患者のなかから、とくに、下村、神戸、狄塚に関するものだけが被告人として結びつけられようとしているのは、被告人が直接腸チフス罹患者の口中に何かを入れた事実があつたからにほかならないのではあるまいか、しかし、バリューム事件については発症が早すぎるし、一体腸チフスに罹患せしめうる程度の菌量がバリューム内に存したか疑わしい。舌圧子事件についてはその犯行方法が余りにも奇異である。そして、ともに、明確な動機はうかがわれないし、犯行の時期も得心がいかない。バリューム・舌圧子事件は捜査の最終段階に至つて自白したもので、被告人としては、他の重要事件について自白した以上否認も益ないと考え捜査官に対し架空の事実を供述したのではないかと推測される。もちろん、証明不十分と判定すべきである。

Ⅳ 結言

一 全体的観察

以上、当裁判所は本件一三の公訴事実のことごとくを証明不十分と判定した。もとより、その心証はすべてが同一水準にあるものとしたわけではなく、証拠の質量に照らしおのずから強弱が認められる。しかし、いずれにしても、いわゆる合理的疑いをいれる余地のないほど、証明が尽くされていないことに変りはない。その理由はすでに縷述したとおりであるが、共通していえることは、自白が犯行方法の面でも、犯行動機の面でも、決して真実をあらわしているとは思われない点にある。ただ、これまでに検討したところは、個々の公訴事実の成否の判断に主眼をおいたため、公訴事実全体を展望しつつ解明する説示が少なくなつている。元来、本件の発端は三島、御殿場、千葉大における腸チフスの集団発生にあつたのであり、それは共通に被告人の足跡の印せられるところにすべて生じているという巨視的観点から次第に被告人に焦点が合わせられてきたものであつた。そして、検察官も、(a)腸チフスは近年激減している疾患であるのに、被告人の勤務先である千葉大、川鉄および三島病院ならびに親族関係者間に約半年余にわたつて流行したこと。(b)しかも、被告人から贈られたバナナ等の食品を喫食した者および医療行為を施された者が赤痢ないし腸チフスに罹患していること、(c)被告人が隔離、拘束されるやその流行は終息したこと、(d)被告人は、本件一三の事実すべてを自白し、一三の事実における情況証拠が相互に補強し合い、全体として確固たるものになつていること、など全体的な視点に立つて本件が被告人の犯行たるゆえんを力説している。したがつて、裁判所もこの主張に対する応答が必要であろう。

しかるに、このような大量的な状況判断は一見強力にみえるのであるが、各個の事件の個性を埋没させてしまう危険を蔵している。実際、川鉄の大林事件、注射事件、千葉大のカステラ・焼蛤・みかん事件、三島病院のバリューム・舌圧子事件は、いずれも本件の主軸となつている川鉄カルピス事件、千葉大バナナ事件、三島バナナ事件に挿入付着されてしまつた印象さえ免れない。自然、立証上の破綻も大きかつたのである(大林事件、カステラ事件、焼蛤事件、みかん事件、バリューム事件の如きは赤痢、腸チフスの潜伏期の点だけから考えても公訴事実は破綻しているといつてよい程である)。

ところで、検察官の右主張については、まずその流行圏内にあつた者で被告人と明らかに関係のない者に罹患者があること、とくに被告人から贈られた食品喫食者と密接していて、しかもみずからは喫食しなかつた者で同じく腸チフスの発病をみているものがあることに着目しなければならない(千葉大バナナ事件における斉田美津子、大網節子、三島バナナ事件における鈴木三保子の例)。したがつて、この明白な事実からは流行は決して被告人だけが原因であると一元化することはできない。(なお、検察官は被告人犯行を裏づける論拠として、被告人が保存していた腸チフス菌株のフアージ型別や薬剤感受性値と、千葉大・親族・三島病院関係で検出された腸チフス菌のそれらとが、いずれも一致していることを強調する。しかし、本件におけるフアージ型別や薬剤感受性値は比較的普遍的なもので感染源の追及にあたりさして有力なものでないことは総説第四Dで述べたとおりであり、しかも被告人と全く無関係としか認められない者から検出された菌のフアージ型別、薬剤感受性値もまた一致しているのであるから、検察官の論拠は決して傾聴に値するものとはいいがたい。)そして、検察官の設定した被告人の犯行は、千葉大においてはバナナ、焼蛤、みかん事件だけであり、三島病院においてはバナナ、バリューム、舌圧子事件だけである。それ以外に被告人が犯行をした確証はない。しかし、それでも被告人が隔離された以後流行は全面的にほぼ終息しているのである。もし、これらの流行を一元化できるならば、被告人の隔離後流行が終息するのは当然の結果であろうが、原因が多元的と思われるにもかかわらず、終息をみた以上、別の説明が要求されよう。一方、川鉄医務課では被告人よりずつと前に腸チフスの流行は終つていた。

このような意味で、各流行に被告人がすべて接点をもつていただけでは必ずしも被告人犯行の根拠として十分なものではない。ただ、さればといつて、本件のなかには、(イ)いわば不在証明(アリバイ)にも似たような、他の特定の感染源が存したとの有力な仮説が設定されにくいものがあるのも事実である(たとえば、川鉄カルピス事件、堀内十助方事件など)。このことと、(ロ)捜査中被告人が自白したこと自体(その内容は虚偽が多いが、一たんは悔悟の意をあらわしながら自己が犯人であることを認めたことは、一つの情況証拠にはなりうる)とを合わせ考えると、一三の公訴事実に関する自白はすべてが真実といえないにしても、そしてその特定はできないにしても、そのいくつかを犯したからこそ自白したともいえそうである。しかし、訴因として構成された限りでは、いずれの訴因にもそれぞれ多くの疑問があること該当個所で述べたとおりである。そして一の訴因に対する疑問は、かえつて他の訴因に対する疑問をよび、一三の事実が相互に他を強め合うのではなく、逆に弱め合つた感もなくはない。だが、右にあげた(イ)(ロ)の二点についての問題はなお残る。あるいは、第一に、検察官主張以外の他の方法で犯行がなされたのかも知れない。第二に、各種の実験は必ずしも現実の忠実な再現であるとは限らず、たとえばホーニックの実験を超える事象が実際にはおこりうるのかも知れない。と、このような想定をおけば、本件の一部については被告人の犯行ということも考えられないではなかろう。しかし、第一の点は、審判の対象を逸脱するおそれがあり(犯行方法は本件の重要な争点となつており、当初の訴因、追加的訴因としてあげられた方法以外の第三、第四の方法……などを認定するには、訴因のなかに特定され、攻撃防禦の対象とされない限り、裁判所は自由に認定することは許されないものと解する。)、何よりもこれを裏づける証拠がない。第二の点は、現代医学の到達したところからはその推測をはたらかせうる十分な資料はない。裁判所は所与の証拠と経験則によつて確信をえない限り、単なる嫌疑では犯人と断定することは許されないのである。

かくて、本件一三の公訴事実を眺瞰したとき、被告人に対する疑念がすべて一掃されたとはいえないにしても、積極的に十分な証明があつたということはできない。

ところで、このような真偽不明という結論をもたらすに至つたのは何故であろうか。すでに、無罪裁判の理由としては、これ以上を喋々するまでもないことであるが、本件の特異性にかんがみ、以下に若干補足する。

二 若干の補足

(一) 捜査上の問題点

裁判所は序説「本件の特色と争点の概括」の項において、本件の質的特異性四つをあげた。これは主として審理における困難性を念頭においた指摘であつたが、それはほとんどそのまま捜査の困難性に読み替えてよい事柄である。稀代の事件に遭遇し、捜査はそれなりの努力を傾注したことは想像に難くない。しかし、捜査はこの困難性を克服しえなかつた。――(ここで誤解を避けるために一言しておくが、捜査は犯罪があると思料されるときに開始され、犯人の発見、証拠の収集を目的として進められる。しかし、もとより真実の解明に奉仕するものであるから、逆に犯罪でないと思料されるときは捜査は速かに結了され、犯人たる疑いをかけられた者の人権を侵害しない配慮が必要なことはいうまでもない。以下に捜査の問題点を考えるとき、裁判所はこの両側面をつねに念頭においている。)

(1) 背景事情への顧慮の不足

(イ) 本件公訴事実は、ほとんどが伝染病流行のさなかにおきた事件であつた。このようななかで同じ伝染病を犯罪的に惹起せしめたとするには、何よりもまず、その流行の全容を把握しておかなければならない。兇器は目に見えない細菌の施用である。他の流行事象と異る顕著な証憑がなければ、犯罪の確定は至難なはずである。そのためには綿密な疫学的手法をとり入れて事案を律していく態度が要求されるであろう。疫学は積極的な面では万能ではない。されば、「疫学調査の尽きたところから捜査が始まる」(論告要旨一二頁)。しかし、捜査のむけられた方向が疫学によつて整合性を欠くとされるならば、その方向は再検討を要することを知らねばならない。本件において、疫学上いわゆる例外例とされていた千葉大バナナ事件の林睦子の例、三島バナナ事件の武士父子の例などは、流行を仔細にとらえれば決して例外例ではなかつたのである。その他、焼蛤事件、みかん事件、バリューム事件、舌圧子事件については当時の流行といかに隔絶したものであるかの立証は皆無であつたといつてよい。流行との区別を明らかにしていないことは、通常は単なる因果関係のみを不明ならしめるものにすぎないかも知れないが、本件の如く、行為自体が争われればひいて行為自体の存在を不明ならしめるものである。

(ロ) 本件では川鉄、千葉大、三島病院、親族関係(一部)のいずれにも真実の隠蔽工作が存した。これらは、いずれも被害者とされる側である。罪証の隠滅は通常犯人とされる側に存するのであるが、本件ではむしろその逆であつた。親族関係はしばらくおくとしても、川鉄、千葉大、三島病院は、いずれも社会的にその地歩を誇る機関であるにかかわらず、みずからの体面保持のために真実をかくそうとした。(依頼を受けたとはいえ葛城病院等もそうである。)これによつて、いかに真相の発見が阻害されたかわからない。しかし、これは捜査の責に帰すべきことではない。問題は捜査開始後、捜査に協力する態度に転じながら、なおかつての隠蔽を合理化しようとする残滓はなかつたか。そして捜査はその過程で協力者たちのこのような影を十分払拭したか、である、むしろそのまま信じこんでしまつた嫌いが少なくない。たとえば、カステラ事件において被害者らから赤痢菌が検出されていたのか、川鉄カルピス事件において被告人がカルピスの殺菌効果を判定したり、発病者を回診したのは独断であつたのか、など。裁判所はいずれもその証言に従わなかつた。

(2) 自白の確かめ方の不足、とくに科学者との提携の不足

本件は自白を除けば直接証拠のない事件であつた。情況証拠は一応被告人の犯行と疑わしめるものがあつた。したがつて、捜査が被告人に向けられ、その供述を得ようとする動きを見せたのは自然の成行きであつたし、とくに医学の専門分野中さらにまた細菌という特殊領域に属する事柄であつただけに、被告人自身の弁解・供述の獲得が真相発見のために不可欠であつた。しかるに、被告人の自供の変転は他に例を見ないほどめまぐるしいものがあつた。このような浮動する自白の真偽を見きわめる技術は体験による「かん」のみでは足りないことはいうまでもなく、自白の合理性を確かめるため本件では、とくに科学的験証がぜひとも要求されるものであつた。そして捜査の過程で、もちろんこのことを意識した追跡は行なわれている。自白の変転は、その追及の結果であるのも多い。が、ふりかえつてみれば、そこにまだ多くの至らざる点があつたのである。それは犯行方法に関する自白の点でとくに著しい。まず、菌のかきとり方、菌液の作り方、その運搬方法などが細菌取扱いの常識に反すると公判になつて弁護人から指摘された。すべてもつともな点であつた。しかも、これらは被告人の発意で述べられたものと考えられるが、捜査中これに対する吟味はほとんど行なわれなかつたのではないかと推測される。真実の自供を得ようとするならば、このような一見些細とも思える点をもゆるがせにしてはなるまい。

最も問題なのは被告人の自供する方法での菌量の推定が厳密に行なわれていなかつたことである。たしかに、千葉衛研による実験がなされてはいる。しかし、これはすでに述べたように食品等のなかに菌が生存しうることを証明しえただけで、赤痢・腸チフスの発症に必要な菌量を知るには全く役立ちえないものであつた。もちろん捜査にはいくつかの制約があつた。一つには時間的制約、二つには、捜査官にとつて不幸なことに、本件で重視したホーニック教授の実験はまだ広く世に知られていなかつたことである(ホーニック教授の来日は本件の起訴後のことであり、論文発表はさらにあとのことになる。)しかし、赤痢菌にしろ腸チフス菌にしろ、動物実験や、許された人体実験の成果は少しずつ研究発表されていたはずである。本件は単に漠然たる「濃厚感染」の前提のもとに捜査が進展し、果して被告人の供述する方法で食品等にどの程度の菌量が存在しうるかの験証は全く放棄されてしまつた。かりに時間的制約があつたにせよ、権威ある専門家の簡易な実験あるいは体験に基づく推測を基準に考定してもよかつたはずである。また、いかに濃厚感染であつても赤痢・腸チフスの潜伏期・発症率が本件起訴にあるような短期・ほぼ一〇〇パーセントというようなことのありえないことは、斯界の定説ではなかつたろうか。捜査が専門家の意見を公式に徴したのは、二回にわたるさざ波荘会談と、若干の鑑定や実験にすぎなかつた。本件が稀にみる特異犯罪と解するならば、さらに慎重に専門家集団の助力を求めて然るべきではなかつたかと考えられる(捜査官は捜査開始後厚生省防疫課等との連繋はほとんどなかつたと証言している)。しかも、右さざ波荘会談では、いわゆる人体実験説に対しては否定的な見解が多かつたといわれている。にもかかわらず、捜査はその後も被告人の供述する人体実験目的を中心にして犯行方法などに関する供述が求められていつたことが観取される。捜査官が専門知識に欠けていたことはいたしかないとしても、その足らざるところを専門家によつて補ない、これと提携して科学的捜査を進展させていく態度がぜひとも必要であつた。捜査は在来の捜査技術を過信し、また虚言迎合傾向の強い自白を偏重しすぎたのではなかつたろうか。もし、医学的にみて、自白の不合理性が早期に確認されたとしたならば、本件捜査は、また別の展開を見せたかも知れない。たとえば、被告人の供述する方法では腸チフス発症に必要な菌量の出ないことが推認されたとしよう。そうすれば、あるいはもつと違つた方法の供述がえられたかも知れないし、あるいは被告人の供述が何らかの理由で全く架空なことを述べていると判明したかも知れない。また、人体実験目的であるから菌量を一定にするため菌液を使つたとの供述に対しては、果してその方法で菌量が一定になるかを吟味してみる必要があつただろうし、その後人体実験目的がほとんどなかつたと供述を変えたのに対しては、それでは菌液を穿刺する必要はないのではないか、他の方法によつたのではないかと問い尋ねる措置がとられえたはずである。これらのことがないため、本件における被告人の供述調査は一〇〇通余の多きにのぼりながら、どこに真相があるのか、裁判所としては去就に迷わざるをえない結果となつたのである。しばしば指摘されるように初動捜査の不備は裁判所を混迷におとし入れる。従来裁判で難件とされたものの多くはこのパターンをとつている。本件もまたその例からもれるものでなかつた。

右のような批判は、もちろん七年余の審理を経過した時点に立つてのもので、捜査当時の状況に対する認識が足りないとの反批判もありうるであろう。しかし、捜査に対する同情が事実認定の厳密さを左右しうべきものではない。捜査機関は捜査技術の向上をはかり、裁判にたえうる証拠収集をなすことによつて、この批判を克服するほかはないのである。

(二) 訴訟追行上の問題点

(1) 関連事実の軽視

本件審理を通じ、裁判所が理解しがたかつたことの一つに、検察官として本件の公訴維持に重要と思われる関連事実を敢えて軽視した点があげられる。たとえば(イ)川鉄カルピス事件における罹患者らの赤痢併発の件、(ロ)千葉大バナナ事件に関連する斉田美津子らの腸チフス罹患の件、(ハ)親族関係事件に関連する被告人の父繁に対する腸チフス菌投与の件など。なぜ、これらが問題となるかは各該当個所で述べたから再説しない。

(2) 犯行動機の軽視

さきにも述べたように、被告人の人体実験目的に関する自白は起訴当時から採否に難儀したものであろう。通常は起訴状にこれを記載すべきなのに、これがなされなかつたのは、その矛盾に検察官も気づいていたからと臆測できる。果然、訴訟ではその欠陥を露呈し、ついに論告において放擲されるに至つた。これに代わる性格異常論はたしかに本件のすべてを、さらにいえばあらゆる犯罪を共通に説明することができる。しかし、すべてに通ずる説明というのは説明が無いのにひとしいのではあるまいか。「犯罪とは本質的に異常なものである」(論告)からである。検察官が本件の犯行動機に関してなしうる合理的説明を失つたとき、本件公訴事実の内容がかなり貧弱になつたことは争えない。

三 本件には被告人に対し一抹の疑念は残つている。当裁判所もそれを否定しない。だが、前述のように、その疑念は被告人を有罪と判定させるに足る確信をもたらしうる程のものではない。いうまでもなく、刑事裁判には「疑わしきは被告人の利益に」とのきびしい原則がある。これにしたがい。当裁判所は一三の公訴事実のすべてにつき被告人を無罪であると決断する。

よつて、刑訴法三三六条後段により、主文のとおり判決する次第である。

Ⅴ 証拠<略>

(萩原太郎 浅田登美子 矢島宗豊)

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